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最終章 第11話
彼は何度目かももう分からない深々とお辞儀をした。
「罵倒されても当然だと思いまして……その覚悟で会いに参りました。暖かい言葉まで戴けて……本当に有り難うございます。祐樹に愛想尽かしはしないと思いますが……これからは亡くなった母の代わりと思い親孝行の真似事を許して戴けますか?」
母は真剣な顔をしてベッドに背筋を先程よりもぴんと伸ばす。
「随分、寂しいお育ちのようね。ご両親が亡くなってから親戚などの後見人はいらっしゃらなかったの?」
詮索じみた母の質問だったが、表情や口調は彼の身の上を心から案じる暖かさしか存在しない。頭を上げた彼もそれは感じたのだろう。
「はい。特に親戚からの援助はなかったです。ただ、天涯孤独の身の上になってから――その頃から成績は良かったもので――とある病院の御令嬢との結婚を前提に付き合う代わりに予備校代や生活費の補助を受けていました……。しかし、その婚約者も交通事故で死亡しました。ただ、その父上が大学の学費などの援助は令嬢が亡くなってしまっても続けて下いましたが。後見はその方くらいです」
過去は過去だと割り切っているのか彼の口調は淡々としていた。
「婚約前提の話も1人で決断なさったの?」
「はい。他に相談する相手が居ませんでしたから。私は悪い運命が次々と襲い掛かってくるのではないかと一時期は真剣に悩みました。そして大学に入り、同じゼミの後輩――と言ってもその時は分からなかったのですが――祐樹の姿をキャンパス内で拝見した時に生命力に溢れる太陽のような人だと思って……漠然とですが、彼なら私の運命を変えてくれるのではないかと考えて密かに憧れていました」
母の顔が笑いを堪えている。湿った声で身の上話をする彼はその表情は目に入っていないようだったが。
「生命力は、ゴキブリ並に有りますよ。太陽のように……って……愚息は何も考えていないので明るかっただけでしょう。私に言わせれば軽薄なだけだと思いますがね。
ただ、今まで1人でとても寂しかったでしょう……これからは……仕事の難しい話は全く分かりませんが、それ以外のことは絶対に遠慮せずに相談して貰えれば嬉しいです。実の母親と思って……」
彼の滑らかな白い頬に一筋涙の細い銀糸が流れている。ただ表情は嬉しそうな光で照り映えている。
「はい。そうします。かたじけないお言葉、とても嬉しいです」
「そんな……涙は不吉ですよ。それに折角の明眸皓歯の顔が台無し……。貴方……いえ、聡さん、愚息をどうか宜しくお願いします。我が儘なところもあるし、相手のことをあまり考えないという欠点があるので……せっかくご縁が有って聡さんのような内面も外見もとても素晴らしい人と付き合って貰っているにも関わらず、聡さんが愛想を尽かしてしまうかも知れません。その前には絶対相談して下さいね。私が客観的に見て祐樹が悪いと思えば遠慮ナシに祐樹にお灸を据えますので。とにかく、末永く愚息と付き合って下さい。私からもお願いします」
「いえ、祐樹は我が儘でも有りませんし、私のことは私以上に心配してくれています」
彼の前髪が中途半端に下りたせいでいつもよりもいっそう若く見える表情――そして涙の雫が徐々に大きくなっている点――で、泣き笑いを表現していた。ただ、これ以上泣かせてしまっては病室内ではともかく病院内でマズい。
昨日や今朝のスタッフを総動員したのかと思える出迎えのスタッフは外科だけでなく内科も混じっていたハズで。こちらは全く覚えていなくても向こうが顔と名前を覚えているという――最愛の彼ならば全員の顔を暗記していそうだが――事態は充分有り得る。泣きはらした瞳で病院内を歩き回ればウワサになることは間違いない。医療関係者もご多分に漏れずウワサが大好きで、しかも病院長直々に招聘した香川教授はこの病院でも知らないほうがモグリだと思われるので。
「お母さん、またお見舞いに彼と来るから……今日のところはもう帰るよ。手術をして彼も疲れているだろうし……」
その言葉に彼は今までの表情を一変させた。
「お見舞いに参ったのに、花束の一つも用意せずに申し訳ありませんでした。何しろ、てっきり歓迎されざる客だとお思いになられると判断し、敢えてお見舞いの品も遠慮した次第です。随分悩んだのですが。ただ、同性の恋人なんてご不快なだけだろうと……裏の人間が花束などはおこがましくて……。これからはご用意致しますからご容赦下さい」
母は満足そうに、そして慈母のような微笑を浮かべた。
「本当に良く出来た方だこと……私も聡さんだったら安心して愚息を託せます。お見舞いに来てくれるのはとても嬉しいし、待ち遠しいけれども……開業していないお医者様が激務だということはこの病院の先生を見て知っています。無理に御見舞いなんて良いですから……。
聡さんの手術を必要としている患者さんを1人でも多く助けて上げて下さい。
実の息子以上に息子らしい人が出来て私も嬉しいです。
それはそうと私もそろそろ疲れたので……」
母レベルの腎炎の患者だと透析をしていない時は疲れない。それに母の体力は――祐樹の顔と男性の好みもそうだったらしいが体力も祐樹に受け継がれているので――こんなことで疲れるほどヤワではない。明らかに最愛の彼を慮っての発言だろう。
「お母さん、じゃあ帰るよ。お大事に」
下を向いている彼の細い肩が小刻みに震えている。多分泣くのを我慢しているのだろう。
彼にとっての肉親という言葉の重さは祐樹のそれよりも100倍程度重いはずなので。
黙ってハンカチを渡した。彼はそのハンカチで目の辺りを押さえている。
本来ならば母の目の前で指輪を彼に手渡したかったが。涙腺が脆くなっている今の彼は渡した瞬間に涙腺が決壊しそうだ。母に向かってポケットを指差し「必ず渡すから。有り難う」というジェスチャーをする。母は分かってくれたらしく笑顔で見送ってくれた。
祐樹が開けたドアを出る時に彼は、深々とお辞儀をして「本当に有り難うございます。くれぐれもお大事になさって下さい」と魂の底から出した感じがする声で言った。
見舞い客用の通路では――と言ってもナースさんは歩いているが――彼の感情を刺激しないように努めて何でもない会話をすることにした。
「そういえば、母と私は好みの顔が一緒らしいです。教授のお顔は母も好みだとか……危うく親子で取り合いをするところでしたよ……」
場所をわきまえて呼称を変えて、他人に聞かせたくない箇所は声を小さくする。ただ、前髪が下りているせいも有って雰囲気が随分と違う。すれ違ったナース達は彼が香川教授だとは気付かれていないようだった。気付いていたら丁重な挨拶をするハズで。
「そんなものなのか?遺伝子レベルでは食物の好みなどは遺伝しないそうだが?」
「そうですね。そういえば高校の時のクラスメイトと他愛のない話をしていた時に、彼女がファンクラブにまで入っていた歌手をとてもカッコイイとうっとりと見ていたら、その彼女のお母さんは『この気持ち悪い顔のどこが良いの?』といつも言われて怒っていました。
あ、あそこに自動販売機が有ります。疲れたでしょう?何か買って来ますよ。何が良いですか?」
「今日は『午○の紅茶』のレモンティが良いな」
見舞い客用の玄関に置いてある自動販売機の商品を遠目で見てそうリクエストした。ワインなどのアルコール類以外で彼が500mlのペットボトルを注文するのは初めてのような気がする。いつもは小さい缶入りのブラックコーヒーだ。そういえば彼の白い額には情事の時を除いては滅多にかかない汗の小さな雫も浮かんでいる。きっと母と会った――と言っても最初の方の出来事だろう――せいだろうと。そして甘い味のする清涼飲料水を飲んでいるところもあまり見ない。やはりかなり疲れているのだろうなと。
「了解です。少し待っていて下さいね」
車の鍵を受け取り、車に戻った。彼はさっさと自分でドアを開けて助手席に乗り込む。祐樹は母のカルテなどが入った大型の封筒を後部座席に丁寧に置いた後にエンジンキーを回した。
病院が見えなくなるまで遠ざかると、彼はわななく声で祐樹に告げた。魂が発声しているかのような声だった。
「お母様が許して下さるとは思わなかった……何だか肩が軽くなった思いだ。清水の舞台から飛び降りるつもりでお見舞いに行って……本当に良かった」
「いえ、もしも貴方でなければ母も違った反応をしたと思いますよ。私もそうですが、母はハッキリとモノを言うタイプの人間ですから。貴方のことを本当に気に入ったのだと思います」
彼は心から安堵したのが分かる吐息を一つ零した。
「お疲れのようですが……このまま帰りますか。それとも天橋立に行ってみますか?」
指輪を渡すのは記念になる場所の方が良かったが。
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