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最終章 第12話

 いつもは器用かつ優雅に動く彼の指も先ほどの緊張のせいか、ペットボトルのフタを開けるのに手間取っている。  ちょうど信号が赤になったので。 「貸して下さい。開けますよ?」  手を伸ばすと彼は素直にペットボトルを祐樹に託した。フタを難なく開けて、零れないように彼に手渡した。お互いの指が少しの間絡む。彼の冷たい指が汗の名残りを纏っている。相当緊張していたようだった。ただ、彼は満天の星が輝いているかのような幸せそうな表情を浮かべていたが。  彼はペットボトルの中身を一気に半分ほど飲み干してから人心地が付いたように祐樹の横顔に笑顔を向けた。 「折角、ここまで来たのだから、天橋立に行ってみたい。それはそうと、あんなに緊張したのは生涯で初めてだ。祐樹は落ち着いていたな……」  明るい声で告げられる。尤も母の反応がああでなかったら、この声も暗く沈んでいたハズで。もし全面的に反対されれば母の意向を最優先させて別れ話を切り出していたかもしれない。会わせる前はそんなことは微塵も考えなかったが、病室でのやり取りを思い出すと最悪の可能性として「祐樹のために身を引く」くらいのことは言い出しかねない勢いだった。 「了解です。  ただ、私も落ち着いていたわけではありませんよ……。内心はハラハラドキドキしていました。口を挟む切っ掛けがなくて殆ど黙っていましたが」  母と彼の会話は途切れることなく続いていたので、祐樹だけは蚊帳の外に居た格好だった。 「そういえば……そうだった……な。  私は祐樹のお母様が嬉しい予想外のお言葉を下さって……祐樹のことは頭から飛んでしまっていた……」  彼は花が綻んだ微笑を祐樹に向けた。彼は祐樹以上に集中力を分散出来る外科医としての適正を持っているが、今回ばかりはそれだけ必死だったのだろう。他のことに注意を向ける余裕がなかったというのは多分、本当だ。ただ、彼の声が微妙に変化している。以前から耳触りの良い綺麗な声だったが、今は彼の心の落ち着きを表しているのか清潔な艶を帯びている。 「ひどいですね……。まぁ、終わり良ければ全て良しということで。私も母が認めてくれてホッとしました。煙草……吸っていいですか?」 「もちろん」  最近では煙草の量が減っている。どのポケットに仕舞ったっけ?とあちこちのポケットを探る。彼と同棲するまではワイシャツの胸ポケットに必ず収まっていたものだが。  ジャケットの右ポケットに手を入れた時、ビロードの小箱に指が当たった。こういうのは勢いで渡した方が良い。天橋立付近の雰囲気の良い場所で手渡そうと心に決めた。彼の長く細い指にあの指輪は良く似合うだろうな……と、隣に座る彼の白い指をチラッと見た。  煙草のパッケージをやっと見つけ出して窓を全開にして火を点ける。一口吸い込んで煙草の煙を窓に向かって吐き出した。 「木の香りとほのかな海の香が祐樹の煙草の匂いと調和してとても心が落ち着く」 「木と海の香りは止め立てしませんが……それに吸っている人間が言うのも何ですが……副流煙の方がさらに有害ですからあまり吸い込まないで下さい」  釈迦に説法だよな……と思ったが。ついでに助手席の窓も全開にするスイッチを押した。もう寒い季節でもないので。 「寒かったら、そちらのスイッチで適度に窓を閉めて下さいね」 「ああ。そうする。でもとても良い風だ。  そういえば、祐樹のお母様、顔は祐樹に似ているのだな……特に目の辺りがそっくりだった……。あとは唇の辺りも……。性格も常識にとらわれない辺りが似ているような気がする」  え?と思った。祐樹はそれほど似ているとは思っていなかったので。ただ、細かい部分が似ているのかも知れない。 「幸い、母も貴方のことは最大限に気に入ったようですし……時々は顔を出して共通点と相違点を見つけて下さいね」 「そうだな……それは楽しいかもしれないな……。お母様は腎炎なのだろう?透析が必要なレベルの……。   その治療法は……専門外で良く知らないが、腎臓移植かそれとも再生医療の方法もあるだろうな……」 「ウチの大学と他大学が研究している万能『iPS細胞』ですか?」 「ああ、手の体細胞を採取して細胞が分化する前のまっさらな状態から新たな臓器を作ってしまうという画期的なやり方だ。あの分野のパイオニア、山○教授とはそれほど親しくはないが……教授会で話した感じではとても真摯で真面目な方だった。相談くらいは聞いて下さると思う。今は実用化のメドも立ったということだし……」  彼はとても楽しそうに言った。確かに手の細胞から母の腎臓を作れるのなら拒絶反応も皆無だし、手術さえ済めば辛い透析とは縁が切れて普通の生活に戻ることは出来る。 「しかし、無理だけはしないで下さいね」 「ああ、ただ……親孝行の真似事をしたいだけだ。無理などはしない。借りてきたカルテを元に長岡先生や内科の内田講師と相談してから○中教授に相談するかどうか決める」 「とても、とても嬉しいです。あ、この辺が一番良く見えますよ?天橋立」  山の中に車を停めた。母との面会時間が思いのほか長引いてしまったので夕焼け空が赤や黄色の帯を描いていた。天橋立を見に来た観光客はそろそろ各自の旅館に落ち着いて温泉や宴会を楽しむ時間帯だろう。駐車スペースにも車は数台しか停まっていない。  天橋立は山の上から見るのが一般的だ。エンジンを切ってキーを抜く。運転席から降りて助手席のドアを開けた。彼ははにかんだ微笑を浮かべて祐樹のエスコートに従ってくれる。 「あの海に続いている一本の緑が『天橋立』です。頭を脚の間に入れて見ると風景が逆転して空に続く橋のように見えるのですが」  他人の気配が全くしないことに気を良くして、彼の冷たい手を温める目的もあって指と指を全て密着させて繋いだ。いわゆる「恋人繋ぎ」だ。 「あの緑の木は?」  彼は残照に照り映えた綺麗な顔を祐樹に近づけた。とても幸福そうに。その唇が祐樹を誘う。手を繋いだまま唇を奪った。彼も瞳を閉じて祐樹の唇の感触を味わっている。 「あれは松です。海岸は塩分が多いので他の木はなかなか育たないのと、昔の人は松の木を大切にしていましたからね」 「そうだな。松を題材にした和歌もたくさんあるくらいだから。日本三景の一つ――ここもその内の一つだが――の松島も松がたくさん植えてあるそうだし。しかし、松…か。」  彼の口調は不思議なニュアンスを含んでいる。  彼も祐樹も大学入試で当然古文も勉強している。もはやすっかり忘れてしまった記憶を頭の中から発掘する。 「『まつ』は『松』と『待つ』の掛詞でした…よね?『たち別れ 因幡の山の 峰に生ふるまつとし聞かば 今帰り来む』のように……」  彼の白い指がしなやかに動き、もっと力が込められるように手を繋ぎ直した。 「私もずっと待っていた……どうしても祐樹を忘れられずに……アメリカに行って、環境が変われば祐樹のことが忘れられるかと思って……それで馬鹿なこともしてみた。  向こうで恋人が作れたら、それで祐樹のことは良い思い出に変化するかもしれないと。でも駄目だった。祐樹以外に惹かれる人間は居ないという結論に達してしまっただけだったな。アメリカで待っていて、日本に招聘されるチャンスがあったので――今思うとアメリカでも日本に招聘される僅かなチャンスを待っていたのかもしれない――日本に帰国してからも、祐樹が声を掛けてくれるのを待っていた。  私はとても臆病だから、誘う勇気など持てなかった」  彼の独白に祐樹の胸も高鳴る。指輪を渡す絶好のチャンスではないかと。 「海岸に下りてみましょう…ここに人が居ないということは…多分、海岸はもっと人がいないので」  繋いだ手をそのままに、高校時代の記憶を辿って最短距離の道を辿る。 「坂道が険しい……な。京都市内で生活をしてきた人間にとって坂道は結構苦手だ」  その言葉に乗じて彼の細い肩も抱き寄せた。 「万が一転んで貴方の神の手に傷を付けたらと思うと、心配でなりません。しっかり掴まっていてくださいね」  耳元で囁くと、彼は身体を一度大きく震わせてから祐樹の腰に空いている手を回した。彼の身体能力の高さもあってか、無事に海岸へと下りる。  夕焼け空は姿を消し、太陽が海へと沈みかかっている。案の定、海岸には人は居ない。 「せっかくですから、天橋立の真ん中辺りまで行きませんか?松の中まで入る人間はそうそう居ない」 「そうだな……ここまで来たのだから、天橋立を散歩するのも良いな。ただ、太陽が沈みきるまで……だが。懐中電灯でも持って来れば良かったな」  坂道をかなりの速度で下りたというのに、彼は呼吸も乱さず白い額には汗もかいていない。祐樹も同様だったが。指輪を渡した時の彼の表情が見たくて、祐樹は脚を早めた。手を繋いだまま。肩と腰に回った手もそのままだった。お互いの体温が心の温度も上げていく。

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