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最終章 第13話
太陽が日本海に沈みきる前に彼に指輪を渡したかった。その時の表情を脳細胞に焼き付けたかったので。
天橋立部分は砂浜の砂ではなく普通の地面だ。当然ながら2人ともスーツ姿で靴は革靴だ。その方が歩みも早いという利点はあるが。
「済みません。今考えると母に会わせて…てそして治療法まで考えて下さった。もし、iPS細胞での再生医療という運びになれば……貴方はあの病院からは離れられなくなる。長岡先生の婚約者の病院は…言葉は悪いですが……私立病院です。教授職に居るからこそ同じ大学の教授である山○教授と面談が適うわけで……一介の私立病院の勤務医になるとよほど特殊な症例でない限り○中教授に門前払いでしょう?二重にも三重にも聡を大学病院に縛り付ける結果になってしまって……」
彼は残照を端整な顔に受けて――そして昼間の母との面会の名残りも有ってか――紅色に輝く笑顔で祐樹を見上げた。
「それは、構わない。祐樹にならもっと束縛されたいくらいだ……」
薄紅色の唇で無自覚の殺し文句をさらっと吐く彼に祐樹の鼓動はますます高鳴る。
天橋立をこんな時間に散策しようという物好きな観光客も居ないのか、波の音と松の葉の擦れる音だけが耳に心地よい。もっと心地よいのは言うまでもなく隣を歩く彼の指の感触と彼の艶やかさを増した声だったが。
松の大きな枝が朽ちて落ちたのか天然のベンチのようだった。あそこなら2人が密着して座れる。
「座りませんか?ちょうど真ん中くらいですよ?」
実はまだ真ん中ではなかったが。ただ海に太陽が飲み込まれていくのは時間の問題だ。
「ああ……。長居が出来ないのは辛いな…」
祐樹が座ってみて、2人分の体重なら大丈夫かどうかをチェックする。何しろ相手は松の朽木なので座った瞬間、体重で壊れたのでは……折角の演出も笑いしか取れないだろう。
「大丈夫そうです。ここに来てください」
彼は高価なスーツが汚れることなど気も留めていないようで。祐樹の隣に密着して腰を下した。手は繋がなかったが、彼の頭は祐樹に凭れ掛かっている。彼の消毒薬のかすかに混ざった髪の毛の薫りが祐樹の鼻腔を心地よくくすぐる。
祐樹はポケットにさり気なく手を入れる。汗で自分の手が濡れているのを自覚した。
彼は沈みつつある太陽を眺めている。前髪が下りているせいもありこの上もなく無垢で無邪気でそして妖艶さを内に秘めた微笑を浮かべて。
「聡は私にもっと縛られたい?」
耳元で囁くと薄紅色の耳たぶに血の色が加わった。事の次第を話して、彼に指輪を渡しても良かったが。
ただ、そうしてしまうと彼のことだ……遠慮してしまうかもしれないとの危惧が高まる。彼の選択肢は出来るだけ奪っていた方が良いかもしれない。緊張した頭で密かな策略を練る。
無言で頷く動作が匂いやかな清楚さを滲ませる。
「では、左の指を全部伸ばして、瞳を閉じて」
緊張のあまり掠れた声になってしまう。その刹那、彼の細い肢体がひくりと震えた。
「良いと言うまでは目を開けないで?」
「ああ」
何かを察知したのか彼の声も艶やかさを増す。両手でビロードの小箱を開けて指輪の細さと彼の指の細さを確認する。そしてこれは祐樹が去り際にそっと確かめた母の指の細さを思い浮かべる。それまで母の指は付いているだけのものだとしか認識していなかったので。料理を作ってくれていた高校時代でも、母の指の細さなどは注意して見たことがなかった。
それと殆ど同じだという結論に達した。どちらかといえば彼の指の方が細い。節も殆どないのでスムーズに入りそうだ。
左手で彼の左手首を固定する。指輪のことなど全く知らない彼は当然のことながらキスされると思ったのか、顔を上向かせた。瑞々しい表情はとても綺麗で、清冽な表情の底に妖艶さが底光りしているようだった。誘われるままに口づけようと思ったが。指輪を贈ってからにしようと涙を呑んで諦めた。
指輪をなるべく厳かに指に入れていく。彼は金属の感触を感じたのだろう。とても驚いたように身じろぎしたが、律儀にも瞳は閉じられたままだった。第二関節まで入れて動作を止めた。
「今、何をしているか分かりますか?」
声が我ながら震えているのは情けない。
「……多分……ゆ……指輪……?」
「そう。母から今日貰いました。母のエンゲージリング兼結婚指輪で。『祐樹が一生を共にしたいと思う人が出来て、その人を私が気に入ったら上げようと思っていた……私の代わりに祐樹を託したい』と。もちろん、聡が嫌だったら……抜きますが?」
少しだけ試しに抜いてみた。
「いや、抜かないで……欲しい。続けて……」
彼の声は震えているが歓喜の響きも伴っていた。
「では、聡の綺麗な指にとても良く似合っています」
長い指の根元までしっかりはめた。指輪は誂えたようにとはいかなかったが。かといってはめていて違和感のない程度のサイズだった。
「眼を開けて……いいか?」
指輪に気を取られていた祐樹は彼の顔を見ると、彼の目は音もなく涙の大粒の雫をとめどなく溢れさせていて。残照がその涙をルビーの煌きに変えている。
「ええ、とてもお似合いですよ」
彼は涙の厚い膜越しに左手を見る。そして、その指をすいっと空にかざした。
「これをお母様から……私へと?そして祐樹はそれで良いと?」
涙の粒が頬に紅色の川の流れを作っている。それでもまだ半信半疑の口振りで。
「ええ、母と私の意見は一致しましたから。これは聡のものです」
ダイアモンドの多面体のカットが太陽の欠片を砕いたように黄色や赤色に染まって。仄かな光を放っている。
少しの間彼は自分の指を眺めていた。が、次の瞬間彼の顔は素早い動きで祐樹の肩に押し付ける。
両手も背中に回された。正面から抱き合う形になった。
素早い動作に驚いて、彼の背中を慈しむように撫でた。
「どうしました?」
答えはなかった。が、彼の全身が震えている。嗚咽を堪えている感じの震え方だった。
祐樹の夏用ジャケットの肩に水分が浸透してきた。
「そんなに泣かないでください……これから聡が愛想を尽かすまで――出来れば一生愛想を尽かされないようにしますから――ずっと聡を愛し続けます。その証です。受け取ってくれて、本当に有り難う……ございます」
涙で声にならないらしい。ただ、背中に回った手の力で彼も同じ気持ちなのだと……思いたい。
「聡の受け取った時の表情はとても綺麗だろうな…と想像していましたけれども……見られなくてとても残念だ。今まで随分と我慢をさせてしまいましたね。でもこれからは聡を不安がらせないようにするので……過去のことはその涙と共に……気が済むまで流して……ください」
祐樹との関係だけでなく、彼の辛い――といっても彼はそれほど辛がってはいなさそうだが――過去までこの涙で浄化出来れば、指輪を受け取った時の表情が見られない程度の不満は不満のうちには入らない。
「有り難う……もう少し、このままで……」
嗚咽混じりの声が清らかだ。
「ええ、気が済むまでいつまででも……」
彼の薄い背中を撫でながら夕日がすっかり沈みきってしまうまで上半身のみの抱擁を続ける。彼の背中は今までに触った時よりももっと頼りない感触だった。
宵の明星が煌いている。日本海の波と、天橋立のそう広くない散歩道に松の木の匂いと葉擦れの音、そして2人きりの空間。それだけ有れば祐樹には充分だった。腕の中で声を殺して慟哭する――とはいえそんなに声は出てはいない――彼がとても頑是無い子供のようで、愛おしさがますます募る。
「祐樹……とても……とても……嬉しい……。何だか……太陽の欠片を……ダイアの中に……閉じ込めた気分……だ」
肩から僅かに顔が離れた。涙が出尽くしてしまったのか、黄昏時のほの暗い闇の中に少し落ち着いた声がする。
彼は自分のポケットを探りハンカチを出して顔を拭っているのがほのかに見える。
「いつまでもここに居たいですが……これ以上暗くなっては足元が危ない。そろそろ車にもどりましょう」
「ああ。そうだな」
手をしっかりと繋いで2人で松の木の間を歩く。いつの間にか月が銀色の光で2人の足元を照らしていた。
松の間から見る銀色の月が2人を祝福しているようだった。絡めた指を微細に動かし、手で合図をする。「ずっと一緒だ」と。彼の横顔は涙を流したせいなのか、清らかで愁いのない表情に微笑の形をした唇が月の光を反射してとても綺麗だった。
「祐樹、ずっと一緒……に」
「ええ、誓います。この指輪にかけて」
彼の左手を月にかざす。ダイアモンドが月の雫のようだった。
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