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最終章 第14話 教授視点
M市民病院の駐車場から祐樹が車を出す。徐々に祐樹のお母様と遠ざかっていく。何だか後ろ髪を引かれる気分だった。最愛の彼は負けず嫌いの性格なのは分かっていたので、きっと運転も乱暴だろうな……と内心覚悟して助手席に乗ったのだが。予想に反してとても丁寧な運転をする。負けず嫌いは仕事のみに発揮されるのかもしれない。
昨夜の夜の海での祐樹の言葉にはとても癒されたが。それでも不安の種は尽きなかった。手術の時は集中していたので思い出す暇は流石になかったが、それでも祐樹のお母様と会うというのが、どうしようもなく焦燥感に駆られる。ここが病院――しかも執刀医として招かれた――でなければ溜め息を吐きながら部屋中を歩き回りたい、いや出来れば走り回りたいほどだ。
大切に育てた愛息子が同性の恋人を連れてきたら、どんなに驚き呆れ、失望することだろう。病室を叩き出される可能性すら有る。
それに、男性しか恋愛対象に出来ない自分と違って彼は「どちらかと言えば、男性の方が好き」というタイプだ。出来るなら――自分がそれに耐えられるかどうかは別にして――お母様のためにも可愛いお嬢さんと結婚した方が親孝行というものだろう。
こんな年上の……そして年上らしいそういうシーンでのテクニックも持ち合わせていない自分が情けないが……。到底祐樹をそういう方面でも満足させていない自覚は悲しいほど存在する……祐樹の愛情を疑ってはいないが、そういうシーンで「良かった」というのはマナーだとどこかで聞いたことがあったし、それはともかく、同性の恋人を作るよりも、祐樹に相応しい女性が出現したら潔く身を引くつもりだった。その前にお母様と会うという順番になっただけで。ただ自分が病室を追い出される可能性は非常に高い。
「手術報告書」を作成していた時は「これが終ればお見舞いだ」という気持ちで作成を長引かせたい気持ちが8割だった。後の2割は、祐樹のお母様に「一時とはいえ私に幸せをくれた最愛の祐樹を産んで下さって有り難うございます」と心の中で呟くこととお母様の容態のカルテを――既に手に入れてはいるもののーーやはり本人の了承を取り付けたかったからだ。
いつもよりも綿密な手術報告書を作成したのも、彼と2人きりで居る時間は、お母様に会ってしまってからは無くなると思ったせいだった。一秒でも長く彼の傍に居たかったので。
お母様が許して下さらなければ潔く別れて……マンションは祐樹に住んでもらう――今まで刹那の夢を見させてくれて有り難うという感謝を込めて――として、自分はアメリカに行くか、長岡先生の婚約者、岩松先生の東京の病院で働かせてもらうかだな……と思っていた。
全てが終って祐樹の後に従って病室に向かう時は緊張のあまり記憶が飛んでいる。硬い筈の廊下が頼りない感触を伝えるのは自分の脚のせいだ。
ただ、そんなに緊張していないように隣を歩く祐樹には強いて普通の声と態度で接する。本当は脳貧血を起こすほど緊張していたのだが。
病室に入って驚いたのは祐樹のお母様が「息子の上司を迎える」という追従めいた笑顔ではなく(その区別は患者さんやそのご家族の笑顔を見てきたので、区別は出来る自信はある)心の底から嬉しそうに微笑んでいたことだ。
目許の辺りと気の強そうな口元は祐樹にそっくりだった。が、その薄く口紅を引いた唇には親密さと暖かさを感じる微笑を浮かべている。
祐樹は「上司」と紹介したが、それほど信頼した様子はない。ただ、年齢を聞かれた。
正直に答えるとお母様の目が考え深そうにこちらの視線を射抜く。
正式な統計を見たわけではなかったが多分、この年でこのポジションに居るのは日本では自分だけだろう。お母様は複雑な目をして顔と、そして何故か指をチラチラと御覧になっていた。だた、拒否されているといった感じでもない。そのことにひとまず安堵した。
お母様に紹介されてからは、無我夢中で受け答えをしたが、実は殆ど覚えていない。知らない間にお母様のご機嫌を損なうことを言っていなければいいのだが。
ただ、歓迎ムードは予想外もいいところだ。もし、これが祐樹の「上司」としてのお母様の演技だったらと思うと居たたまれない。カルテを大学病院で精査する許可を貰ったところで、とうとう我慢の限界に達する。罪悪感に打ちひしがれていたので。
「上司」としての挨拶は多分こなせたと思う。もう、精神的にも限界だった。逃げるように病室を後にする。
廊下で立って待っていると、ずしりと緊張感と疲労が肩に圧し掛かる。手術の時もこんなには疲れない。
病室の中で祐樹とお母様は何を話しているのだろうか?彼が以前頼もしげに約束をしてくれた通りに自分たちの本当の関係を話しているのだろうか?そして、もしそうならお母様は何と?そう思うと動悸が早くなる。今にも脳貧血を起こすのも時間の問題だと。気持ちが上下に不安定に揺れている。ふと、祐樹の吸っている――最近は量も減ったが――ニコチンの沈静作用が切実に欲しかった。喫煙歴がないのでニコチンの効き目も早いだろう。ほとんど自棄になってそう思う。
祐樹が天真爛漫な笑みを浮かべ病室から出て来た。
まさか……と思う。
「母が貴方を気に入ったようです。もう一度、戻って戴けませんか?」
聞き違いかと…自分の都合の良いように耳が勝手に変換したのかも……と祐樹の聡明そうな男らしい顔を凝視してしまう。咽喉がカラカラに渇いていた。
「本当に?」
信じられない思いでもう一度確認する。「気に入った」のは上司としての自分だけかとも、チラリと思った。
しかし、祐樹の笑顔は、自分が一目惚れをした太陽の輝きを纏っている。雲の上を歩いている気分がますます高まる。
ベッドサイドに立つと、先ほどよりも親密さを増した笑顔が向けられた。
「愚息が香川教授のことを愛していると言っていますが、貴方はどうなのですか?もし、強引さに引き摺られて付き合って貰っているのなら、この母が責任を持って愚息を説教しますので、ここで遠慮なく仰って下さい」
その言葉も俄かには信じがたい。ただ、本当に告白しても良いものか、この土壇場に来て激しく葛藤した。救いを求めるように隣に立っている最愛の祐樹を見た。彼が真摯な眼差しと力強い頷きで自分の背中を押してくれる。もう、こうなれば謝罪して許してもらう他の選択肢はない。
思いの丈をお母様に切々と語った。合間合間に深く謝罪のお辞儀をして。それというのも、愛息子の祐樹よりも自分の方をお母様は心配されている気配だった。
お母様は自分が結婚出来ないことを心配されているようだった。しかし、祐樹以外の人間と付き合う気持ちは生涯ないと断言出来る。5年もかけて、それも彼から逃げるようにアメリカに渡ってLAの開放的な空気――街の雰囲気や自分のような性癖を持った人間が伸び伸びと振舞っている様子――を体験しても祐樹に対する想いは変わらなかった。他の人間とそういう関係になったら気持ちも変わるかと思ったがそれも無理だった。それらの要素を勘案して、自分は祐樹という人間にどうしようもなく惹かれ続けていることだけは確かだ。
結婚は自分の人生の予想図からは除外されている出来事だ。そのことをお母様には分かって貰いたくて必死に言葉を紡ぐ。ただ、まだお母様から「付き合っても良い」というはっきりとした言質は貰っていない。そのことを確かめずにはいられない。切羽詰った思いで質問する。すると、お母様は祐樹に良く似た太陽の日差しを思わせる表情で。
「貴方がそれで良いのなら、私は全く反対はしません。むしろ貴方のような人が愚息を好きになって下さって有り難いと思っているくらいです」
そう仰って下さった。
今までの緊張感の糸が切れて、危うく泣きそうになる。まさかこんなに寛大な慈母の言葉――といっても恋人のお母様というだけの関係だが――を頂けるとは全くの想定外だったので。
肉親の縁が薄い自分に、肉親以上の言葉を掛けられたのは…かつての婚約者の父上以来のことだった。こちらは、お嬢様が亡くなったこともあり自然に足が遠のいてしまっている。
祐樹にもし不満があれば、遠慮なく言って欲しいとまで言われ、ますます涙腺の制御が難しくなる。その様子を心配そうに見ていた最愛の祐樹は「今日のところは帰る」と言ってくれた。そういうさり気ない気遣いに自分がどれだけ救われているか、多分祐樹は分かっていないだろう。
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