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最終章 第16話 教授視点

 車に戻って二人きりの空間に閉じこもるとやっと人心地がついたようだった。手が冷たいので見ると「○後の紅茶」のレモンティのボトルがあった。  そういえば祐樹が買ってくれたのだなと思い返す。咽喉がカラカラに渇いていたのでフタを開けようとするのだが、手が震えて上手く開けられない。自分の手が意のままに動かなくなったのは、生まれて初めてのことだ。LAで初めて手術を任せられた時も緊張はしていたが、手はいつもよりも更にスムーズに動いたものだったが。ペットボトルは薄いプラスチック製だから力加減を間違うと飲料をこぼしてしまうかも……と思うと余計に手が震えた。  何しろこれはレンタカーだ。汚してしまうと後が厄介だろう、多分。  見かねたのか、祐樹が男らしい手を差し出してきて――自分の細い手とは全く違って惚れ惚れするような手だ――その指が器用に動くさまに見惚れてしまう。ただ自分の手は汗ばんでいて……それはお母様に会った緊張感の名残りなのだが、彼は気付くだろうか?  ボトルを渡してくれた時に指と指が幽かに触れ合う。その接触にドキリとする。何回も身体を重ね合ったにも関わらず。今日は予想外のことが多すぎてそんな些細な動作でも反応してしまう。運転に注意を払っていた祐樹は気付かなかったようだが。  そういえば天橋立に寄っていくか、いかないかを聞かれていた。早くマンションに帰って二人きりになりたかったが。  子供の頃の祐樹はきっと友達も多くて活発だっただろうな……と思う。高校の時はクラスメイトの誰からも信頼され友達もたくさんいただろう。今の祐樹をみていると自然にそう思う。  そんな祐樹を想像すると、お母様の予想以上に温かい言葉もあって自然に笑みが浮かんでくる。  ペットボトルの紅茶は今まで飲んだどんな飲み物よりも美味しかった。咽喉が要求するままに飲むと自分としては――そんなに水分を多く摂取するタイプではない――驚くほど中身が減っていた。アルコール飲料以外でこんなに大量の水分を一度に飲んだことがない。  マンションに帰って、この緊張を2人だけの空間で……そして出来れば肉体を繋げて平常心に戻したかったが。ただこちらへはいつ来られるかはまだ分からない。自動車が一番早い乗り物だ。ヘリで搬送出来ない患者さんが来た時のみ要請が来ることになっている。それに何より祐樹の生まれ育った町にもう少し居てみたい気持ちが勝っている。  祐樹も緊張していたのか、自分の前では滅多に吸わなくなった煙草を吸ってもいいかと聞いて来た。煙草のタールに含まれる成分が肺癌や肺気腫などの重篤な病気を引き起こすことは百も承知だが、これも論文で肺癌や肺気腫に感受性が高い人間とそうでない人間が存在することを知っている。これはまだ検証の途中だが、遺伝子が関係しているらしいとも。  以前祐樹にそれとなく癌で死んだ親戚は居なかったのか聞いてみたことがある。いないと聞いて、それなら大丈夫だろうと。  また自分の親戚縁者は皆離散していて消息不明だが、昔、自分が小学生5年の時に法事で集まった時「ウチの家系で癌になった人は居ない」と母方の叔父と父方の叔母が誇らしそうに言っていたのを覚えている。だから別に咎める筋合いはない。後はコレステロールと結合して起こる脳梗塞だけだが、こちらも祐樹は平常の値であることは部下の健康診断の結果を閲覧出来る権限を私用で使い見てしまっている。祐樹のことは何でも知りたかったので。――本来ならば許されない行為だが――。  それに祐樹の吸う煙草の匂いは嫌いではない。かすかに煙草の匂いのする唇や胸元に顔を近づけると恍惚となるようになってしまった。それでも祐樹は副流煙のことまで気遣ってくれる。  祐樹のお母様の治療法について話しているとあっという間に天橋立に着いた。男2人で来るにはいささか他人の目が気になってはいたが、案に反して人は全くいない。  祐樹が素早く車から降りて助手席のドアを開けてくれる。祐樹の近くを身体が掠めた時、祐樹の薫りがして今度は身体の奥が震えた。それを誤魔化すために微笑した。  もうプライベートなのに、上司に対する態度は取って欲しくないという気持ちと、女性をエスコートするように自分を扱って欲しいという二つの気持ちのせめぎあいの結果の笑顔だ。  彼の温かい指がとても気持ちよかった。特に強弱をつけて握られると危うい情動が身体と精神の奥から出て背筋を駆け上る。  日本海に突き出た天橋立に夕日が照り映えてとても綺麗だった。うすい雲がたなびいているのも夕焼けにアクセントを添えている。そしてその沈みかけの太陽の光が天橋立に植わっている木の葉に降り注いでいてとても綺麗だった。あれは多分松だろうと思ったが。 太陽を見ると祐樹を思い浮かべるのが自分の習慣になってしまっている。思わず顔を近づけた。祐樹の顔をもっと間近で見たくなって。木の種類を聞くことにかこつけた。  案の定、彼の温かい唇が自分の唇と重なる。  お母様のお許しが出た、初めてのキス。今まではほんの少しではあるがお母様に悪いという罪悪感が祐樹に抱かれていても常に有った。といっても快楽に我を忘れる前だけだが。  お母様のお許しを貰った上で……日本海を背景ににキスをしている。唇を触れるだけの、――それこそLAの人間だったら恋人同士でなくても友人とでも普通に交わす――ただそれだけのキスなのにぽっかりとした心の穴を埋めてくれるような錯覚を覚える。  精神にまで染み入るキスだった。握った手を絡み合わせながら誰が見ているか分からない場所でなのに、もっと先に進みたくなってしまう。目を閉じて彼の唇の感触と彼の匂いに抱きすくめられたら…  そんな内心を知る由もない祐樹は律儀に説明を始める。  「松」と聞いてポロリと以前のことを言ってしまう。自分が一方的に好きになり一方的に逃げたこと……祐樹は全く悪くないのに……。彼はひどく済まなそうな顔と、どこか緊張したような顔をしていた。済まなそうな顔は分かるがどうして緊張するのかは…とても怖くて聞けなかった。悪い流れではないと思うのだが。所詮自分は悲観主義者だ。  昨夜の海岸の散歩を自分がとても喜んだことを覚えていてくれたのか、祐樹は海岸へと誘ってくれる。彼の表情に少し強張った様子が仄見える。何か有ったのだろうか?  さり気ない話をして坂道を下りた。流石に地元で育っているだけのことはある。急勾配の道を危なげのない足取りで歩いて行く祐樹のスーツに包まれた広い背中をうっとりと見詰めた。が、そうなると足元が覚束ない。  坂道だけのことを言うと、彼の手が肩に回された。彼の手が触れている肩と腰から彼の愛情が伝わってくるかのようで。お母様と会った時の不安定さが嘘のように心の隅に小さく縮こまる。  この辺りには街灯がないので日が沈むと厄介なことになるのは自分も分かる。地元民の祐樹なら尚更だろう。ただ、彼はこの辺りには詳しそうだ。いつまでもこうして2人きりの荘厳な気色を出来るだけ長い時間――夜のとばりが2人を包んでも――こうしていたいな……と思う。 「万が一転んで貴方の神の手に傷を付けたら…手と思うと、心配でならないです。しっかり掴まっていてくださいね」  耳元で囁かれ、先ほどから抑えていた危うい情動がまた頭をもたげる。今度は身体が震えた。祐樹を身体の全てで感じたいし、感じさせたいという。  彼の自分よりは太いが無駄な肉は全くついていないウエストに手を回す。より身体が密着して切ない情動を耐えるのに精一杯だった。  彼は何か急ぎの用事でもあるのか、それとも日没前に車に戻りたがっているだろうか足を速める。仕事モードの早足になっている。自分に説明する気があればしてくれるだろうと彼の速度に合わせた。仕事柄早足には自信がある。外科医は皆そうだろうが。  祐樹がお母様の件でK大病院を去れない理由がまた一つ出来たと謝ってくれる。自分こそ、祐樹とは絶対に離れたくないので、祐樹の研修医の期間――と言っても残りは九ヶ月くらいだが――は在職する積りだった。それに彼はあの病院に自分以上に愛着を持っている。彼がそのまま医師として留まる可能性は極めて高い。となると、自分は今のポジションに居た方が良い。 「それは、構わない。祐樹にならもっと束縛されたいくらいだ……」  身体の奥底の熱が去らないどころかますます熱く疼いている。しかし、祐樹にですらそんなことを言うのはとてもとても恥ずかしい。多分、覚悟と緊張が一気に冷めて常ならぬ精神状態だからだろう。  祐樹が促すままに松の木に座った。際どい気持ちで熱に浮かされたのか祐樹の身体に凭れ掛かる。彼の体温や薫りは自分にとって天国だ。 「では、左の指を全部伸ばして、瞳を閉じてください」  訳が分からないまま、彼の指示に従った。

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