402 / 403
最終章 第17話 教授視点
祐樹の掠れた声は鼓膜から脳幹部分を刺激する。脳幹は本能を司る部分だ。心と身体の奥が火で炙られた気分だった。
「良いと言うまでは目を開けないでくださいね」
いつもの祐樹の自信に満ちた口調とは微妙に違う声――そういえば医局で告白された時もこんな口調だった――に背筋が震える。彼になら何をされてもいいと自然に思える声。
「ああ」
祐樹は手で何かを探っているのが密着した身体で分かる。
何をしているのだろうか?ただ、彼が身じろぎすると彼の身体から彼の香りが潮の香りと共に漂ってくる。その薫りに恍惚とした。心と身体の奥の疼きも止まるどころか胸が苦しくなるほどだった。
突然左手首を握られた。祐樹の唇を感じたくて顔を上げたが期待した熱は与えられずで。少し落胆していると、伸ばすように言われた左手の薬指に冷たい感触と祐樹の指の感触がした。どうやら金属の輪のようだ。それが祐樹の指と共に爪先から徐々に、そして傷つけないように彼は細心の注意を払っているのが分かる手つきで指の付け根に向かってゆっくりと動く。この感触は多分指輪だ……と思った。
アクセサリーをする趣味などなかったので過去に指輪をはめたことはなかったが。それ以外には考えられない。M市民病院から帰る時に始まった祐樹の微かに緊張した様子はもしかしてこのせいだろうかと、いやもしかしなくてもきっとそうだろうと思った。恋や結婚に疎い自分ですら――といっても長岡先生が指輪を買いに行くのに付き合った時に初めて知ったのだが――この指のする指輪がどういう意味を持つかくらいは知っている。
それに祐樹のお母様の何かを計る視線で自分のこの指を見詰めていたことも思い出した。
祐樹が緊張を始めたのも病院を出た時からで。もしかしてお母様から託された指輪なのかと推理してしまった。
しかし、自分の推理にまさかと思う。それほどまでに気に入られていたとは思わなかったので。
「今、何をしているか分かりますか?」
彼の真摯な声が震えている。余計なことを言ったら脆くなってしまっている涙腺から涙が溢れるのは目に見えている。
「……多分……指輪……?」
「そう。母から今日貰いました。母のエンゲージリング兼結婚指輪で。『祐樹が一生を共にしたいと思う人が出来て、その人を私が気に入ったら上げようと思っていた……私の代わりに祐樹を託したい』と。もちろん、聡が嫌だったら……抜きますが?」
やはりと思った。ただ、祐樹が物好きにも自分のことを愛してくれていることすら信じられない気持ちがするのに、お母様までもそこまで気に入っていただけたとは。
病室を叩き出されるかもと危惧していただけによりいっそう感謝と喜びの気持ちが胸に溢れた。
ただ、そんな由緒あるものを本当に自分などが貰ってもいいものなのか……祐樹を愛してはいる気持ちは誰にも負けないつもりだが、祐樹のお母様のエンゲージリングということは当然、祐樹の今は亡きお父様から贈られた指輪の筈で。居たたまれなさと嬉しさでどうにかなってしまいそうだ。
「いや、抜かないで……欲しい。続けて……」
祐樹がくれるものなら何でも嬉しい。嬉しいが亡くなったお父様はどうお思いになられるかと思うと、心が塞がれる気持ちになる。しかしお母様は何もかも承知の上で下さった筈だと思うと感激に魂が震えた。
涙が頬を伝っているのを自覚する。懸命に涙を堪えようとするが、一度堰を切った涙腺は脳の命令に従ってはくれない。後から後から川になって流れる涙は少し恥ずかしいが。
「眼を開けて……いいか?」
祐樹のお母様が祐樹に託し、そして祐樹が贈ってくれた指輪を見たい気持ちが勝った。
左手の薬指を見た。とてもシンプルで綺麗な指輪。本当に祐樹は自分などに手渡して良かったのだろうか。
「これをお母様から……私へと?そして祐樹はそれで良いと?」
まだ信じられなくて、祐樹の口から確認の言葉が欲しかった。泣き顔で顔がいつも以上に歪んでいるだろうが。
「ええ、母と私の意見は一致しましたから。これは聡のものです」
力強く断言された。涙腺が更に刺激される。指を太陽にかざして――本当に指輪が指に存在するのがまだ信じられなかったので――ダイアモンドが夕日の反射して綺麗な煌きを放っている。やっと本当に自分の指に指輪があることを実感として捉えることが出来た。
同時に胸から熱いものがせり上がってきて、更に涙腺が決壊するだろうと思った。泣き顔を祐樹にもあまり見せたくなくて彼のジャケットの肩に顔を押し付けた。手も勝手に背中に回る。縋るものを求めて。
祐樹の腕も背中に回された。優しく背中を撫でる動きに余計に情感が刺激される。涙が止め処なく溢れてくる。本当にみっともないくらいに。
「そんなに泣かないで……これから聡が愛想を尽かすまで――出来れば一生愛想を尽かされないようにしますから――ずっと聡を愛し続けます。その証です。受け取ってくれて、本当に有り難う……ございます」
彼の愛情に満ちた声はとてもキッパリとしていて、真摯な気持ちで告げてくれているのが分かってしまう。
彼の愛情を疑ったことはなかったが。ここまで愛されているとは思わなかった。過去のことが走馬灯のように脳裏に浮かぶ。
両親の死亡。婚約者の死。そして祐樹に一目で恋に落ちたこと。祐樹が綺麗な男性に口説かれて失恋が決定的になった時の絶望。アメリカに逃げたこと。日本に帰国した日に思いがけなく迎えの中に祐樹が居たこと。思い切って連絡先を渡したものの、祐樹が教えてくれなかった時の失意。初めて抱かれた時のこと。手術妨害の時に庇ってくれたこと。料理などしたことがなさそうな祐樹が自分のために作ってくれた日のこと。手術妨害の件で奔走してくれたこと。そして何より辛かった祐樹が自分を避けているのは愛想尽かしをしたのではないかと疑ったこと。その後の彼からの愛の告白。自分のマンションで住んでくれたこと。
その全てが脳裏に蘇ってきて、涙は止まることなく流れていく。
案じるように背中を撫でられるとそれだけで堪らなくなる。
「有り難う……もう少し、このままで……」
涙のせいでそれだけを言うのが精一杯だった。
ただ、自分の悪い運勢も涙と共に流れ去って行くような気がする。祐樹の愛情を得たことで。
「ええ、気が済むまでいつまででも……」
彼の深い愛情を魂の底から感じる声音に、また新たなる涙がこみ上げてくる。こんなに泣いたのは生まれて初めてだ。
涙を流すごとに自分の魂までもが生まれ変わった気がする。もう毒を喰らわば皿までもと、泣きたいだけ最愛の祐樹の肩で泣こうと思った。きっとこれは自分の悪い運勢も祐樹が傍に居てくれさえすればこれ以上は悪いことは起こらない……何の根拠もないが確信を持ってそう思った。
やはり祐樹は自分にとって太陽だと。
「祐樹……とても……とても……嬉しい……。何だか……太陽の欠片を……ダイアの中に……閉じ込めた気分…だ」
気が済むまで泣いて。僅かに肩から顔を上げる。「太陽の欠片」が祐樹の喩えだと多分彼は分からないだろう。
どのくらいこうしていたのか分からないが、辺りは夕闇が忍び寄ってきていた。
泣き顔を見せるのはやはり恥ずかしい。といっても身体を重ねる時にはいつも涙していたので祐樹は自分の泣き顔を良く見ている筈だが。
しかし、今日は特別で。ポケットの中のハンカチを探す。テッシュで鼻をこっそりと拭ってからハンカチで涙を拭いた。彼は見ないようにしてくれている心配りが嬉しかった。
「いつまでもここに居たいですが……これ以上暗くなっては足元が危ない。そろそろ車にもどりましょう」
泣きたいだけ泣いたので何だか心が清清しい。だが、身体の奥の火照りは却って熱を上げている。祐樹は多分泣いた自分が負担にならないように理知的な仕事の時に使う声で誘った。
空には宵の明星が自分の代わりに未練げな光を放っていた。
ともだちにシェアしよう!