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最終章  最終話 教授視点

 ほの暗い坂道を電灯の光なしで登るのは危険だ。  理性では分かっているのだが、感情がもう少し2人きりの秘密めいた親密な空間に居たいと訴えている。   そして身体の奥の疼きも燃えさかる一方だ。祐樹とそういう関係になってから肉体的にも精神的にも煽られれば本能が理性を超えることを覚えた。しかし、今日の自分は全く煽られていない。強いて言うならお母様に会うという――そして十中八九、蔑みと拒否の言葉を投げかけられる予想と覚悟は出来ていた――極めて家族的な出来事が予想外にも指輪まで下さるという好意的な反応だったことの落差がこういう反応になって現れたのかとも思う。  家族の縁の薄かった自分、そしてこんな性癖を持っていることは仕方ないと諦めていたが、こんな自分だからこそ結婚して妻の家族と親戚付き合いをすることも絶対にないと思っていただけに……祐樹のお母様に認められてとてもとても嬉しかった。  しかも愛する祐樹のお母様に「祐樹に不満が有れば相談に来て下さい」とまで言われた、その家族的な無条件の愛情こそが自分の欲しかったものなのかと。  かつての婚約者のお父様も同じような愛情は掛けて下さったと思う。そうは思うが婚約者にはどうしても愛情と呼べるものは持てなかった。多分、自分の性的嗜好のせいで。婚約者の方も自分の将来性を買ってくれただけで、今思い返せば愛情感情は存在しなかったと思う。  祐樹は自分が初めて好きになって、信じられないことに今こうして傍に居てくれる。そしてお母様までも認めて下さった。あくまでも最愛の祐樹が居てくれて、お母様も認めて下さった。その2つの条件が揃った上での肉体の反応なのだろうか? 「ああ。そうだな」  断腸の思いでそう言った。  祐樹の骨張った男らしい指が自分の指に絡みしっかりと握ってくれる。他に人の居ない松に囲まれた小道を2人して歩いている。日本海の潮騒と松の葉擦れの音、そして銀色の月の光が2人を優しく包んでくれる。  祐樹は絡めた手を力の強弱を付けて握ってくれる。指を愛撫されているようで身体の奥の炎は燃えさかる一方だ。だが、こんな自分の身体を祐樹はどう思うだろう?喜ぶだろうか、それとも蔑むだろうか。  銀色の月光の下で祐樹の視線を感じた。肉体の反応は……多分彼に気付かれてはいないだろう。憂いのない嬉しそうな顔――こちらも一方では真実だ――と仄かに微笑している唇だけを祐樹は見た筈だ。  祐樹が欲しい……切実にそう思った。祐樹でなければこの疼きは鎮められない。 「祐樹、ずっと一緒……に」  …それから、祐樹が欲しい――と続けようとしたのだが。言いよどんでいるうちに間髪を入れず祐樹が言った。 「ええ、誓います。この指輪にかけて」  自分の左手を掲げられる。ダイアモンドが銀色に輝く。清浄な光を放つ自分の左手の薬指。それを複雑な思いで見た。 「良かった……貴方の指に怪我をさせないでここまで戻って来られて……」  祐樹が心から安堵した声で言う。確かに怪我をしてしまえば明日の手術に差し障るそれは分かっているのだが僅かに寂寥感を抱く。  祐樹はドアロックを開錠している。天橋立を離れる積りかと思うと、寂しさが増すのを止められない。が、祐樹の行動の方が明らかに正しく……どうして良いのか分からず立ちすくんでいると祐樹が軽やかな足取りでこちらへと歩み寄って来た。  助手席のドアに身体を押し付けられた。祐樹の男らしい整った顔には微苦笑が浮かんでいる。天橋立を見下ろす駐車場には人の気配は全くない。駐車場には外灯が点いているが、天橋立は海と紛れてしまっている。 「指輪の次は誓いのキスですよね……」 「そうなの……か?」  漠然とは知っていたが。ただ、この状態でキスをされても身体の奥が苦しくなるばかりなのは容易に想像出来た。 「そうです……聡……愛している……」  耳元で情熱的に囁かれて、身体がひくんと震えた。足も力を失っていることを自覚した。祐樹の広い背中に縋りつく。キスを受けようと顔を上げて目を閉じた。しかし、期待した唇の感触はなかなか与えられず、不審に思って瞳を開けた。彼は驚いたような、愛おしむような複雑な表情をしている。肩甲骨に回された手が背骨から尾てい骨まで撫で下ろされた。その感触は身体の奥の炎を煽るだけ煽っている。 「聡……貴方が今どんなに色っぽい顔をしているか自覚有りますか?」 「す……少しは……」  色っぽいとは全く思わなかったが確かに身体の奥の炎は燃えさかっている。上擦った声で答えた。  彼の手が自分の男性の象徴を検診する要領でなぞっている。多分そちらは反応していてもごく僅かな筈だ。これ以上触られなければ。彼の手の動きも極めて事務的だった。 「こちらは……普通ですね。もしかして、貴方の身体の奥……ですか?」  言い当てられて頬が羞恥で上気するのが分かる。仄かな灯りの下なので間近に見ている祐樹にもきっと見られてしまう。隠そうと慌てて下を向く。 「そんなに感じて下さって……とても嬉しいです。でもこの辺にはホテルは有りませんし……キスだけ済ませてからマンションに戻りましょう。明日、仕事があるのは残念ですが……身体の全てを愛してあげるますので」  その言葉に背筋に電流が走った。炎もますます燃えさかる。  彼の指が自分の左手を車の屋根に固定する。指輪ごと唇で挟まれて強く吸われる。指と唇の戯れがひとしきり続いた。足は全く力を失い、祐樹の背中に縋った片手と背中に当っている車をよすがに立っているのがやっとだった。 「綺麗な顔を見せて」  綺麗とは到底思えなかったが。俯いていた顔を上げた。祐樹の唇を自分の唇で感じたかったので。  車の屋根に首を預けた。そうでもしないと足に力が入らない今ではしゃがみこんでしまいそうだったので。  銀色の月が輝いているのが目に入った。とても美しく冴え冴えとした光を放っている。身体の疼きも忘れてつかの間見入った。 「そんなに月ばかり見ないで……私の顔だけ見ていて……」  祐樹が自分の視線の方向を確かめて悲しげに言った。何だかその口調がいつも自信に溢れている彼らしくなくて、つい微笑してしまう。 「月よりも、太陽の方が私は好きだ……」  「祐樹は私の太陽なのだから」とは流石に口に出すのは恥ずかしかった。何回か言ってはいたが。  両手で彼の頭を優しく掴んで自分の方に近寄せる。目を開けたままで唇を重ねた。次第に深まっていく口付けに陶然となりながら銀色の煌きを放つ月を見ていた。  キスだけに熱中してしまっては…本能の求めるままに次のステップへと祐樹を誘い込んでしまいそうだったので。流石にここではそれは出来ないことも理性では分かっている。  自分の左手の薬指が目に入った。月の雫かと見紛うほどに光っているプラチナのリングと、夕方の太陽の欠片を閉じ込めたダイアモンドが外灯の光を反射して金色に光っている。  ああ、やっと自分が切望して止まなかった田中祐樹の心を掴まえることが出来たと指輪の光で実感する。  指輪の光を見て安堵したので。目を閉じて口付けを夢中で受けていると、瞳の中は月の残像が消えて太陽の金の光で埋め尽くされるような気がした。生まれ変わった気分で唇を貪る。こんなに心と身体に染み入るキスは初めてだった。瞳だけではなく頭の中が金色の光で満ち溢れる。唇の触れ合いだけで達してしまいそうな口付けを夢中で交わしていた。  お互いを切実に求め合う2人の恋人同士を銀色の月だけが祝福するかのように見ていた。                                    <了>

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