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第1話
「一緒に暮らさない?」
そう言ってみたら、彼は、ん?と小さく首を傾けて笑った。
その反応を見るに、有馬にはそんなつもりがないのだということがわかる。
清水の舞台から飛び降りるつもりで提案した慧 としては、なんでもない…と肩を落とし、そっと溜息を漏らすしかなかった。
「なに?」
有馬はもう一度、穏やかな笑顔のまま促すように問い掛けてくる。
「なんでもないっ…」
慧はテーブルの上のグラスを少し乱暴に引き寄せた。汗をかいたグラスの中には氷と僅かばかりの炭酸飲料が入っていて、ストローで吸い上げるとズズズズッと間抜けな音を立てた。
「おかわりは?」
椅子から腰を浮かしかけた有馬に尋ねられ、
「いらない」
ぼそりとひと言、慧は答えた。
初夏の午後。眩しい陽射しが差し込んでいるリビングは、明るくて居心地がよい。この空間が、慧はとても気に入っている。
リビングだけではない。広い最新キッチン、都内が一望できるベランダ、そして慧のスリッパが置いてある玄関。有馬の家ならどこもかしこも、みんな好きだ。
だからここで彼と一緒に暮らしてみたいなと思ったのだが、それは自分の一方的な考えで、独りよがりに過ぎなかったらしい。
ーーー当たり前かもしれない。
情けなくて涙が滲みそうになるのを必死に堪えて、慧はどうに平静を取り繕った。
有馬と知り合ってまだ三ヶ月と過ぎていない。
彼と初めて出逢ったのは、大学入学を機に地方都市を出て都内でひとり暮らしを始めた二日目のことだった。
慣れぬ都会の駅の券売機を前にして、乗り換え切符の買い方がわからず焦った挙句、盛大に財布の中身をばら撒いた。縦横無尽に転げまわる硬貨を、自分と一緒になって這いつくばるようにして拾い集めてくれたのが有馬だった。
その時は慌てふためいていて、しどろもどろにありがとう、と小声で口にするのがやっとだった。
「いいから、気にしないで」
彼が言い置いて立ち去るのを、ぼーっとしながら見送った。
ずいぶんと失礼なことをしてしまった、と後悔したのは動揺が治ってからだった。
高そうなスーツだった。
膝を付いて落ちた硬貨を拾っていたから、きっとあちこち汚れてしまっただろう。それなのに、まるでなんでもないことのように「気にしないで」と言ってくれた。
親切な人だった。
語りかけてくる声も、とても温かかった。
今度もし逢うことができたなら、あの人に必ずきちんとお礼を言おう。
そう密かに誓った。
それから暫くした夕方、同じ駅で彼の姿を見かけた。
一足先に到着した下り電車に乗っていたらしい彼は、足早に改札に向かっていた。反対側のホームで電車を降りた慧は、その姿を見つけるなり一目散に階段を駆け上がり、通路を走り抜け、再び階段を駆け下りて改札へと急いだ。
駅前はまだ早い時間のせいか多くの人で賑わっていたが、そんな中でも彼の姿はすぐ見つけられた。
上背のある均等の取れた後ろ姿は、まるで輝いているように見えた。
ばたばたっ、と近寄ってくる忙しない足音に気が付いたのか、彼は不意に振り返って慧を見た。
目が合った。
途端、慧の足は鈍る。
自分のことを、相手は覚えているのだろうか。
物騒な事件の多い昨今だ。駅前の雑踏の中を一直線に走ってくる若い男を、危険人物と認定したりしないだろうか。
そう思ったら急に身体中の力が抜けた。視線だけを合わせたままで彼の1メートルほど手前で立ち竦み、慧は進退極まって顔を伏せた。
考えなしの行動だった。
ただ、今、この瞬間、チャンスを逃したらダメだとしか頭に思い浮かばなかった。
恥ずかしい。
彼にとっても、ただ迷惑なだけではないのか。
だがそんな慧の焦燥を晴らすかのように、
「財布の中身、足りた?」
そのひと言は、彼が慧を覚えていること、今の状況を不快なことと思っていないこと。それが一度に伝わってくる優しい問いかけだった。
弾かれたように顔を上げると彼はにこり、と瞳を和らげて慧に一歩近づいた。
間近にするとなお、温もりを感じ取れるような眼差しだった。
「あ、あのっ!こここ、このっ、この間は、その…」
動かぬ口を無理やり開き、つっかえつっかえ言葉を発する慧に、
「あの時は災難だったな」
助けるように先んじてくれた。
力づけられる思いで、慧は顔を下げた。
「あの時は、ほっ、本当にすいませんでした!助けてもらってありがとうございました!」
「助けたなんて。そんな大げさな」
深く澄んだ漆黒の瞳に、柔らかな光が灯ったように見えた。吸い込まれるような、魅入られるような、慧はそんな感覚に襲われた。
「た―――助けて、くれました。一緒に、お金拾ってもらえて…その、本当に嬉しかったです」
道端に立ち止まって話しているふたりの傍らを、通行人が避けるようにして歩いて行く。
「いいんだよ」
彼は言いながらそっと、慧の肘の辺りに手を添えた。
「それより…ここじゃちょっと邪魔になるから、移動してもいい?」
「あっ!そ、そうですよね!はいっ!」
まるで夢見心地。
促されるまま人通りの少ないほうへと引かれていき、気が付いた時には小綺麗な喫茶店のテーブルに向き合って座っていた。
緊張した慧は黙っていることができなくて、自分は上京したばかりだの、まだ知り合いがほとんどいないだの、聞かれてもいないことをあれこれと喋り続けた。
もうやめよう。そう思っても口を噤んだ途端に訪れるかもしれない沈黙が恐ろしくて、言わずもがなのことをとめどなく話し続けた。
男は迷惑そうな様子も見せず、目を細めて慧の話に相槌を打ちながら、時折自分のことを口にした。
その言葉に、慧は懸命に耳を傾けた。
最初に逢った時、いかにも新大学生といったふうな慧のことを、懐かしいような思いで眺めていたということ。今日は今まで抱えていた大きな仕事がようやく片付いたところで、誰かと他愛ない話をしたかったということ。どうやら住まいは慧のアパートのすぐ近くらしいこと。
記憶に刻み付けるように。心地よいその声に耳を傾けた。
「こんなに話しておいてなんだけど…そういえばお互い名前も知らないなーーー有馬諒介 だ。よろしく」
楽しそうに笑う彼の名前を、そこで初めて慧は知った。
そして、彼にも自分の名前を知って欲しかった。
「あっ、僕は…菅原慧 、です!」
他愛もない話をして、笑って、あっという間に時間は過ぎた。長居してしまった喫茶店の帰りしな、財布を出そうとする慧を有馬は不思議そうな顔で押しとどめた。
「俺が誘ったんだから。支払いは俺」
「いや、でも!」
いいから、という男とレジの前で問答するのも気がひけて、慧はなんだか複雑な気分で引き下がった。
お礼というか、お詫びを言うつもりで声をかけたというのに、借りがまたひとつ増える結果となってしまった。
「無理やり連れ込まれた、とか思われてないといいんだけど」
先に外に出ていた慧に、有馬は照れくさそうにそう言った。「連れ込まれた」という言い草がおかしくて、いいかげん緊張も解けていた慧はくすくすと笑い出した。
そして、慧は笑った勢いのまま思いきって聞いてみた。
「もしできたら…また、会ってくれませんか?」
笑っている慧を見て、有馬も同じように楽しそうに笑っている。だから、失礼な問いかけということはないのでは、と思ったのだ。
「まだこっちの友達も少なくて…あの、迷惑じゃなかったら」
有馬は一瞬だけ目を見開き、それから柔らかく微笑んだ。慧はなんとなしに慌てて言葉を継ぐ。
「えっと、今度はこっちが連れ込んで、それで…奢ります!」
「そうだな…」
有馬はわざとらしく腕組みをして見せる。
「困った」
「え?」
体よく断られる。ひやりとする思いに、切なく眉根を寄せる慧の頭を、有馬は宥めるように撫でた。
「……っ!」
「奢られるのはいい年してちょっと恥ずかしいから、」
「でも…」
「他の方法を考えよう」
「えっ、ほか……?」
躊躇う慧に有馬は小さく頷いて見せ、先に立って歩き出した。
お互いの家の大まかな場所は交わした会話でわかっていたし、途中までは同じ道筋のはずだ。
やはりもう次の機会はないのかと、どことなく元気の出ない思いを抱え、前を行く男の背中を時折窺いながら慧は顔を伏せて歩いた。
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