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第2話
陽は沈み、辺りはすっかり暗くなっている。駅から離れた住宅街に入ると、静寂の中で街路灯の灯りがぼんやりと道路を照らし出していた。
足元だけを見るように歩いていたから、急に立ち止まった有馬の背中に、慧は顔からぶつかってしまった。
「痛っ…」
「大丈夫?」
驚いて額を押さえていると、振り返った有馬が心配そうに顔を覗き込んできたので、平気平気!と大慌てで答えた。
「慧くん…」
少し眉根を寄せた有馬に名前を呼ばれ、慧の心臓は早鐘を打つように踊った。
目の前の男を、素直にいい男だと思った。眉間に寄ってる皺さえカッコよかった。
「ここ、俺の家なんだ」
はっとして仰ぎ見ると、そこは地域でも有名なデザインマンションのエントランスの真正面だった。
「―――ここに住んでるんだ…」
もうお別れなんだな。慧は落ちかかる肩をひょいと竦めた。
「僕の家はもうちょっと先、だから…」
それじゃ。
小さく手を振って、くるりと背を向けた。未練たらしくならないように気力を振り絞って、勢いよく歩き出す。
「待って!」
いきなり腕を掴まれて引き戻され、慧は危うく転びそうになるがなんとか踏みとどまった。
「なッ―――!」
「ごめん。でも君がいきなり帰ろうとするから」
そう言ってから有馬は、慧の視線を正面から捉えた。
「この次は、ウチに遊びに来ない?」
「はぃ…?」
「慧くんに奢ってもらわなくてもまた会える、他の方法」
「?」
首を傾げる慧に、男はいたずらっぽい笑顔を見せた。
「いろいろ考えたんだ。ウチでコーヒーでも一緒にどうかって、それなら君も気にならないだろ?」
そんなに奢られるのが嫌なのか、とか、家で淹れたってコーヒーは無料 じゃないだろとか、発想が突飛すぎやしないかとか……。
色々なことが慧の頭の中を駆け巡って、どう答えていいのかわからなかった。
有馬は浅く微笑んだまま、こちらの反応を待っている。
「………あ、あぁ、あの、」
しばらく黙っていた慧だったが、俯いて口を尖らせた。
「…そ、そんなこと言うと、ほんとに押しかけちゃうかもしれない、ですよ…」
「いいよ」
慧は目を伏せた。
見なくても有馬が笑っているのは気配でよくわかった。
「慧くん、駅からの帰りにこの道使うだろ?寄ってよ、歓迎するよ」
「……ほんとに?…迷惑にならない?」
自信のない慧の問いかけに有馬は答えず、ポケットから手帳を取り出す。躊躇なく一枚ちぎり、なにかを書き付けてから差し出してきた。
そこに並んだ数字の羅列が、電話番号と部屋番号だと気付くのに少しだけ時間がかかった。
はいどうも、と受け取るのは気がひけて、慧は書かれた数字を黙って見つめていたが、やがておずおずと手を伸べた。
「いいの?」
「もちろん!」
はっきりと有馬に言われ、慧は手の中の紙切れを握り締めた。
「なんか、すっごい嬉しい…ものすごく」
堪えきれなくてそう言うと、有馬は綺麗な微笑みを浮かべた。
次の日。学校帰りの慧は、いつもの駅の改札を出たところで、勇気を振り絞って電話をかけてみた。
相手はもちろんーーー有馬諒介。
番号は既に登録してある。有馬に貰ったメモを何度も確認して入力したが、それでももしかして間違えていたらと、ドキドキしながら発信ボタンを押した。
聞き慣れたコール音が、いやに間延びして耳に響く。ワンコールがやたら長く感じる。
それに反して、心臓は驚くほど早く打っている。
「………あっ!」
繋がった、と思ったものの、慧の耳に届いたのは留守電サービスの音声案内。
肩透かしを食ったようで、慧はメッセージを残さぬまま通話を切った。ついでにスマホの電源を落としてポケットに突っ込むと、重たい足取りで家への道のりを辿り始めた。
考えてみれば時刻は午後五時にもなっていない。おそらく有馬は会社員だろうから、今は勤務時間中のはずだ。
私用の電話にすぐ出られるはずもないのだ。
出たとしても、いきなり今日これから会えるわけもない。
そんな当たり前のことさえわからなくなるほど、彼に会いたいのだろうか。
どうして…どうして会いたいとか、思うのだろう。
考えれば考えるほど、石でも飲んだみたいに胃が重く、キリキリと胸の奥が痛む。
息苦しい。
考えちゃいけない。
考えるな。
自分に言い聞かすようにして、家へと帰る。
あぁ、この道をーーー昨日はあの男と歩いたんだ。
ダメだと、止めれば止めるほど意識は彼を思い起こそうとする。
「慧くん」
そんな呼ばれ方、あまりしない。でも嫌ではない、何度でも呼んもらいたい。
有馬の声で、呼んでほしかった。
「慧くん?」
どすん、と何かにぶつかった。
びっくりして顔を上げるとそこには有馬が立っていて、まるで彼の懐に飛び込んだような形になっている。
「考え事かい?」
慧は瞬きを繰り返しながら、今の今まで思い描いていた男の顔をまじまじと見つめた。
「昨日もここで俺にぶつかった。あの時は背中だったけど」
いつの間にか有馬のマンションの前まで来ていたらしい。
確かに昨日も彼の背中に突撃した。でも今の慧は返す言葉も見つからないまま、楽しげに微笑む有馬を見つめる以外にできないでいる。
「少し気をつけて歩いたほうがいい。事故にあったら大変だ」
「―――は、い」
有馬は目元を細めると、慧の髪に指を入れてくしゃりと搔き回した。
「電話くれたのに、あいにく出られなくて…すぐにかけ直したんだけど通じなかった。もしかしたら帰るところなのかなと思って、ベランダから見張ってたんだ」
「見張って?」
「そう。もし駅から電話くれたとしたら、そろそろこの辺に来る頃合いかなとか勝手に考えた。で、向こうの角を曲がってくる君が見えたから、自分の勘のよさに感謝しながら急いで降りてきたんだ」
またしても慧は言葉に詰まった。
有馬は「そろそろかな」などと悠長なことを言っているが、今日の慧のどんよりした亀の歩みを考えれば、駅からここまで通常の2倍近くの時間がかかっていたはずだ。だとしたら、そろそろどころかずいぶんと長いこと彼はベランダで自分の勘を信じ下界を見下ろしていたことになる。
そんなことありえない。
でも、にこにこしながらいまだ自分の腕のあたりを支えている有馬を見ていると、ありえないことではないかもしれないなどとごちゃごちゃと頭の中が入り乱れる。
胸が押し潰されるようだ。
ひどく、呼吸がしにくい。苦しい。
「寄っていくだろ?」
「で、でも」
「ほら、行こう」
強引ではないが逆らえない強さで腕を引かれ、慧は慌てた。
「だって、その、仕事、とかは…?」
「今日は休み。かかりきりだった仕事が終わったばかりだから……昨日言わなかったっけ?」
有馬のほうは平然と、慧を捉えた手を離すことなくエントランスを通り抜け、エレベーターホールへ真っ直ぐに進んで行く。
「ちなみに明日も休み。君の電話を待ちかねていたんだ。嬉しいよ」
「待ちかねてって…僕、今日来るなんてひと言も…」
「来ないつもりだった?」
逆に驚いたように問い返されて、慧は息を呑んだ。
「昨日、一緒に話しただろ。たくさん。つまらなかった?もううんざりだった?俺はもっと慧くんのことを知りたいと思ったんだけど」
まさにぐうの音も出ない、というやつだった。
上階から降りてきたエレベーターのドアが開く。
有馬は僅かに眉尻を下げて、ようやく慧の腕を解放した。
「慧くんが嫌なら無理強いはしたくないんだけど…」
172センチ、といえば平均的な身長だ。そんな慧をゆうに見下ろせる位置に有馬の目線はある。180センチ以上の上背がある男の視線は、どうしてだか見上げられているような気分にさせる。
だめ?お願い…。
懇願するような眼差しを向けてくる男は、慧より五つほど年嵩のくせに上手いこと慧に主導権を与えてくる。
「嫌…なわけない、けど…」
小さくそう答えて、有馬に先立ってエレベーターに乗り込んだ。
その後ろから、いかにもほっとしたような表情を浮かべた有馬もエレベーターに乗った。
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