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第3話
初めて入った男の部屋。
沈黙を恐れるように、慧はまたあれこれと喋り続けた。
どことなく幸せそうに微笑む有馬は、頷きながら聞いてくれている。だからついつい余計な事まで口にしてしまいがちだった。
それでもかまわないと思った。
知られて困ることなんてない。それどころかもっともっと、彼に自分のことを知ってほしかった。
どんな失敗談やかっこ悪い告白をしても、彼はきっと笑いながら全部受けとめてくれる。バカにしたり軽蔑したりなんて、絶対にしない。
そんな盲目的な信頼を、慧は有馬に感じ始めていた。
どうしてなんて、理屈ではなかった。
有馬が自分の勘を信じて慧を待ち焦がれてくれていたように。
黙っているなどということは考えもつかず、慧は照れくささを隠すように少しばかりぶっきらぼうに話を続けた。
そのうちに慧の腹が空腹を訴えて、くぅぅと切なく自己主張した。
我がことながら驚いて、ハッと顔を上げる。
頬がカッと熱くなった。
見通しのよい窓の向こうは、既にとっぷりと陽が暮れていた。
熱をもった頬が、今度は一気に冷めていくのがよくわかった。
「え…っと、そのぅ、」
いきなり上がり込んだ、よく知らぬ男の部屋。なにも言われぬのをいいことに、のうのうと居座ってしまった。
そういえば、コーヒーだってさりげなく新しいものを何度も淹れてくれていたような気がする。
「つまり、あの……」
目尻を下げた有馬が笑むから。慧が口にしかけた言葉は他愛なく途絶えてしまった。
なにを言っても言い訳でしかない。
有馬にしたら、独りよがりに話の止まらぬ闖入者をどうあしらっていいのか分かりかね、生ぬるい微笑をもって見守ることしかできないでいたのかもしれない。
「ごめんなさい。僕、帰る…」
自分の軽率さに臍噛む思いで立ち上がった慧を、有馬はびっくりしたように手を伸ばして押し留めた。
「待って、慧くん」
肘の辺りに触れた有馬の手が暖かい。
その温もりが慧の胸を締め付ける。
「遅くまでお邪魔しちゃって…ごめんなさい。もう帰らないと、」
「帰る!?さっき、ピザ頼んだんだけど…」
咄嗟に己の耳を疑って、慧はまじまじと有馬を見つめた。
「とてもじゃないけど、Lサイズをひとりで食べきる自信ないんだけど」
「えっと……」
「あとサラダとか、ポテトとか…サイドメニューも頼んじゃったよ」
疑うべきは自分の耳より目の前の男の言葉ではないのか。
呆気にとられている間に、慧は腕を引かれてダイニングの椅子に座らせられてしまった。
有馬は至極真剣な眼差しだった。
「お願いだから、帰らないで」
「あぁ…あっ、え、…?」
「ここで、夕飯を食べて行ってよ」
おもねるように言うから、慧は逆に混乱してしまった。
冗談じゃない。これ以上この男に迷惑を掛けるなんて、耐えられない。
「いきなり、そんな…」
詰まりながらも答える。
「い、いつの間に…勝手に、」
自分が喋るのに夢中で気付かなかっただけだ。だが確かに男は何度かキッチンに姿を消した、あの合間にこっそり電話をしたのだろうか。
「ごめん。でも、食事を一緒にしようって先に話したら慧くんは絶対に断ると思った。だから姑息にも既成事実で、モノを先に届けてもらおうと思ったんだ」
有馬は些か申し訳なさそうに頭を下げた。
「でも、あの…その、こっちにも都合というか思惑というか…別にそんなゼンゼン、お腹減ってなんか…」
「俺はかなり減ってる。ひとりじゃピザなんてなかなか取れないし。慧くんさえ付き合ってくれれば、久しぶりにピザが食べられるなって。だからどうか、夕飯に付き合ってもらえないかな?」
思わぬ展開に、慧はブンブンと首を横に振るが、身体のほうはやたら正直だった。『夕飯』のひと言に反応するように、きゅーと、再び腹の虫が答えた。
羞恥にかっと全身が燃え滾る。
実に間抜けで、かっこ悪い。だが有馬は笑うことなどしない。
「俺を助けると思ってさ、お願い」
それどころか、まるで自分が悪いみたいに言う。
「でもそんな、ず、図々しいこと…」
「もし慧くんが本気で嫌がってるなら、図々しいのは誘ってる俺の方だよ」
「……だけど、」
「イヤ?」
不意に真剣な声色で問いかけられ、慧は困惑に目を伏せた。
「君が本当に嫌なら、諦める」
なにを言っても上手く返されてしまう。
慧があれこれ思案している間に、インターフォンの音が明るく、高らかに鳴り響いた。
「届いちゃったね」
にっこり。有馬はご満悦とばかりに微笑んだ。
「それに、ふたりのほうが食事は楽しい」
男は軽やかに立ち上がり、インターフォンを取る。
いったいどうなっているのか…。そう思いつつも、空腹を抱えた慧は誘惑に抗えず、「お願いします」と諸手を挙げて降参した。
もうたくさん、というくらい夕食をご馳走になりつつ、どうとでもなれとばかりに慧はあれこれと止まらない話を続けた。
いい加減、節操ないのが嫌われて二度と来るなと言われるならしかたない。
大人しく引こう。
だが今、目の前の男は穏やかに瞳を細め、楽しそうに自分を見ている。
きっと、有馬に嫌われてはいない…はず。
残り一枚だけになったピザを慧の取り皿に乗せる有馬は、春の陽射しのように柔らかく微笑んでいる。
その表情は、慧が顔を真っ赤にしながら、
「また来てもいいですか?」
と尋ね、
「もちろん」
そう有馬が答える時もずっと変わらなかった。
その後もずっと、三ヶ月近く経っても変わらずに降り注ぐように慧に向けられ続けてきた。
三ヶ月ほどの間。
慧はなんども男の家に立ち寄ってきた。
有馬は仕事を持ち帰り、在宅で処理することも多いようだった。事前にいつ家にいるかなど教えてくれたから、慧はおっかなびっくりしながら電話をした。
『慧くん?』
電話の向こう、有馬はいつも明るい声で答えてくれた。
慧のほうは自分から電話をしているというのに、毎回しどろもどろ。
「うん。えっと、あの……」
『今から来る?』
「あの―――邪魔じゃ、ない?」
『まさか!待ってる。お金落したり、人 にぶつかったりしないように気をつけて』
「なッ―――そんなのわかってる!」
通話を切るやいなや、慧は足早に有馬のもとへと向かう。
例えば、学校の帰りやバイトの後。
疲れている時でも、彼の顔を見るとなんだかほっとした。新しい環境に馴染みきれていない自分が唯一気の抜ける場所、それが有馬の元だった。
「いらっしゃい」
慧が着くのを見計らって、淹れたてのコーヒーが用意されている。そして、有馬のふかふかの笑顔。
優しすぎていけない。
居心地がよすぎていけない。
あまりにしばしば上がり込んでいて、彼のプライベートや仕事に支障をきたしているのではと思う。
思う。思うのに、心はそれとはまったく別物。今日、有馬が家にいると考えたらもう堪らず、授業が終わった途端にスマホを取り出していたりすることもある。
ーーー待ってる。
そう言われ続けるうちに、電話をすることを怖く感じなくなっていた。
「じゃ、あとで!」
答えた途端に、もう会いたくてしかたなくなる。急かす心に追い立てられるまま駅からの道を走り抜け、呼吸を乱しながら彼の部屋に駆け込み、大いに驚かれたこともあった。
この三ヶ月の間に慧は有馬の色々なことを知った。
出身地、家族構成。
子供のころの思い出。
好きな食べ物。嫌いな食べ物。
好きな作家や好きな映画。
休日の過ごし方。
恋人は、今はいない。
今携わっている仕事の中身だとか、会社の上司の悪口なんかも。
そしてーーー慧のことを邪魔だとも迷惑だとも思っていない、ということ。
ーーー諒介さん。
いつの間にか、そう呼ぶようになっていた。
ーーー慧。
いつの間にか、そう呼ばれるようになっていた。
彼の傍らは心地よい。
傍にいると気持ちよくて、落ち着いて。ひどく安らいだ。
有馬の包み込むような、それでいて慧の意志をしっかりと見極めた落ち着いた態度。そして、年齢にしろ社会的な立場にしろ身長にしろ、慧はひとつとして有馬に太刀打ちできはしない。
そんな大人の男に対して、友達だなんて悠長なことを言っている場合ではないと、最近の慧は不安を覚え始めていた。
慧の中で、有馬はいつだって隣にいてほしい一番大切な人となっている。だが、彼にとって自分はどんな立ち位置で、どんなふうに捉えられているのかは推測する以外に術がない。
迷惑がられてはいないと思う。
有馬は慧をいつもにこやかに迎えてくれる。
でもそれは、彼が慧のことをただたんに歳の離れた友人、とでも思っているからかもしれない。でなければ四人兄弟の末っ子で甘やかされてきた彼が、逆に誰かを甘やかすという行為に憧れて、その対象として目をかけてくれているだけだということもある。
だから慧は年上の男にわざとらしくぞんざいな口を利いたり、甘えてみたり。時折、我儘を言ってみたりする。
他の大人ならば眉を顰めるのではないか、と思うが、彼はそれを許容してくれる。男が許容してくれることで『自分は特別だ』と主張したいのかもしれない。
いったい、誰に?
慧は考える。
誰に主張したいのか、なんて…己しかいないだろう。
有馬に許されている自分を、自分に知らしめたい。
安堵していたい。それだけなのだ。
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