4 / 6
第4話
例えばーーー知り合って程なくして、手土産にとアイスクリームを買って行った時。有馬は喜んで食べていたけれど、実は甘いものは得意じゃなかった、と後からわかった時とか。
彼の誕生日を1週間過ぎてから初めて知って、気が付かなかった自分に腹が立って当り散らすみたいに、
「なんで早く教えてくれなかったんだよ!」
逆ねじ食らわせて、拗ねて見せた時とか。
冷静になって考えると顔から火が出そうなほど恥ずかしいことをしているのに、そのたび有馬は慈しむみたいに目元を和らげた。
「慧が選んだだけあって、美味しいアイスだった」
「慧だって誕生日教えてくれてないだろ。いつ?一緒にお祝いしよう」
諸手差し出すようにしてこちらを受けとめてくれる。
つい最近、急に降り始めた雨で濡れ鼠状態で有馬の部屋に飛び込んだ時。呆れ顔をしながらも、濡れた髪をタオルで拭ってくれた。
「どうして、雨降ってるのに傘ささないで来るの」
「メンドくさかった」
「風邪ひく。ほらこんなに濡れて」
しっとりと湿った慧の黒髪に、有馬は目を眇めるようにしてタオルを被せ、ごしごしごしと髪を拭う。
慧はそっと目を伏せる。
「傘差して歩くより、走ってきたほうが絶対に早いし、なんかお得な気がしない?」
「しない」
「傘持ってなかったし…」
タオルにかかっていた有馬の手が不意に止まる。
慧は瞼を開けた。
「それなら、今度から電話した時に傘がないって言えばいい」
「言ったら、諒介さんが迎えに来てくれたりとかするの?まさか…」
いささか渋い顔をしながら、有馬は小さく頷いた。
「―――そのまさか、だよ」
そんな声にも表情にも、慧は内心満足していた。
「へんなの…」
それでも、言葉だけは文句を言ってみる。
特別。
きっと自分は彼の特別に違いないと、慧は日毎確かめるようにしながら有馬への依存を深めていった。
だがそう思えば思うほど、捉えどころのない胸の内の焦燥感もまた、日毎にその色を濃くしていくばかりだった。
有馬のそばにいるのは心地よい。
心地よいからこそ、考えざるを得ない。
この場所に居ていいのは自分なのだろうか。ほかに誰か、彼に似つかわしい相手がいるのではないか。
いや、いるはずだ。
どこをどう取ってみても、有馬はいい男で、見た目も中身も声も態度も、非の打ちどころなんぞひとつも見当たらない。
そんな男がどうしてこんな地方からぽっと出の右も左もわからない、見た目だっていたって普通の男子学生、にかまけているのだろう。
自分は有馬といると楽しい。だが気の利いた会話のできる大人の女の人とお付き合いしたほうが、よほど彼にとっては心地よいだろうに。
漠然としたもやもやを胸の隅に抱えていた慧だったが、ここにきてそれが一気に現実味を帯びて重石みたいに心にのしかかるようになってきていた。
学校の友人たちのなかに、ぽつぽつと「彼女ができた」と言い出す者が出てきたのだ。
あからさまに彼らの付き合いは友情中心から愛情中心へとシフトしていった。
恋人が一番、友達は二番。
食事に出ても遊びに出ても、これまでより集まる人数は確実に少なくなっている。
会話の真っ最中にだって彼女からの呼び出しがあれば、相好崩して『悪い、急用』といきなり帰ってしまったり。
そんな気持ちはわからぬでもないし、自分にだってそういう幸福が訪れる日が来るかもしれないのだから文句もあまり言いたくない。
「ま、しかたないよな」
なんて、いまだ彼女のいないグループは苦笑しつつ、なんとない疎外感やら寂寞感を覚えながら我が身の不幸を嘆きあうしかない雰囲気となっていた。
「むさくるしい男どもでつるんでるより、彼女といるほうが楽しいのは自然の摂理ってもんだ」
誰かが発した自嘲気味な言葉を聞きながら、慧はなるほどとこっそり頷いた。
有馬だって、きっと同じだ。
今日にだってあの男に美しい恋人ができるもしれない。そうなったら慧よりも恋人を、あの男は絶対に選ぶだろう。
なんの躊躇いもなく。
それが自然の摂理だ。あの男に釣り合うのは、少なくとも自分なんかではない。
しかたないことのはずなのに、考えるだけで胸が潰れそうなほど痛んだ。
それなら考えなければいい、それなのにどうしてだか頭の中は彼のことばかり。打ち消しても打ち消しても、泡みたいに後から後から浮かんでくる。
有馬に恋人ができたら。
もう電話を入れても、
「待ってるから、おいで」
そんなふうに、柔らかな声で誘ってくれることはなくなるのだ。
退屈なわけでもないのにソファに座って居眠りしてしまって、 ふと目が覚めるとすぐ隣で有馬が書類かなにかを眺めていたりすることも、もうなくなる。
それどころか、あの部屋に行くことはできなくなる。慧の居場所を奪うように、そのヒトが彼の傍にいるようになるから。
初めから友達とも知り合いともつかぬ微妙な関係だったのだ。会わなくなったらあっという間に、有馬の中で自分は思い出にすらならず消え去ってしまうに違いない。
なにもなかったように。
そんな日がいつか必ずやって来るのだ。
いやだ。いやだ。いやだ。
慧は唇を噛みしめる。
そんなのは、いやだ。
だったら自分が先んじて彼女を作って、有馬のもとに足繁く通うのをやめればいい。
有馬に寄りかかった今の生活から、さっさと抜け出すように心がければそれでいいはずだ…。
それなのに。
それもいやだ。
どんどんと、この心は我儘になっていく。
行きずり。ただ偶然に知り合っただけの近所に住む、年上の同性の友人。
それだけだったはずなのに、こんなにもあの男は自分を惹きつけてやまない。
もう今日が最後。これきり、あの家に行くのはやめよう。
有馬の家からの帰り道、何度となく慧は心の内で誓った。それなのに、気がつけばスマホを握り締め、彼に連絡を入れている。
バカじゃないのか、と自分を罵りつつ、ここしばらく堂々巡りをする毎日を悶々として過ごしていた。
そんな慧の思い悩んだ表情を思慮深げとでも思ったらしい同じ学部内で、入学当初から可愛いと人気があった女の子から、付き合ってほしいと声をかけられた。
その申し出を、自分でも驚くほどいとも簡単に断った。
そして、慧はようやく思い知った。
有馬でなくてはダメなのだ。
有馬が欲しいのだ。
認めてしまえば簡単なことで、自分はあの男を好きで好きでたまらない。
ひたすらに彼を独占したいと願う恋心を、慧はどうしたっていなすことなどできなくなっていた。
そこで慧は帰り道、例によって立ち寄った有馬の部屋で、
「一緒に暮らさない?」
コーラを飲みながら、さりげなくそう言ってみた。
なけなしの勇気を集め、奮い立たせ。
ありったけの空元気を総動員。
祈るような気持ちで伝えた。
それなのに。
有馬から帰ってきた返事は素っ気ないものだった。
「なに?」
だなんて。
失敗。完敗。
やはりこちらからの一方通行、よくある片思い。
有馬は慧に対して、友達プラスアルファの感情なんて無かったのだ。
こういうのは失恋、とも言えないんだろうな…。
慧はグラスを傾け、角のなくなった氷を口に含む。
「で、今なんて言ったの?」
有馬は椅子に座りなおすと慧に向かって、テーブルに身を乗り出すようにして尋ねてきた。
「……おかわりはいらない、って」
カリカリカリ。
氷を噛み砕くと、つんと痛いみたいに冷たかった。
初めて逢った時はまだ春で、でもばかみたいに焦って汗だくになっていたのを思い出す。
「そうじゃなくて、さ」
有馬は減っていない自分のグラスと慧のグラスとを取り替える。おかわりを持ってくる代わりに。
いらないと言っておきながら、どうも、と口の中で呟いてから慧はそれを受け取った。
「もう一度、言ってくれない?」
有馬の声は、少しばかり強張っている。
「…やだ」
「慧」
慧の心臓が、きゅうっと痛む。
有馬の潜めた溜息が、耳に届く。
「な、なにも…言ってない」
考えてみれば、有馬はいつも慧のご相伴でコーラを前に置く。だが口を付けることは滅多になかった。
お付き合いということだ。
今更ながら律儀な人だ、と慧は感心した。
グラスの側面を流れ落ちる水滴。
黒い液体の中を立ち上っていく小さな気泡。
有馬が口元を引き締めて、刺さるような視線で見つめてくる。皮膚がジリジリと焼けるように痛む、気がした。
「もしも、俺の聞き間違いじゃなければ―――」
「やめ、」
誤解と言いがかりに満ち満ちた台詞を繰り返し言わされるのは、恥ずかしすぎる。とにかく嫌だ、ときっぱりと跳ね除けた。
「それは、ただの聞き間違い…だ…」
慧はグラスの中身を一気に煽って、飲み干した。
ともだちにシェアしよう!