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第5話

 喉を落ちる炭酸の刺激は心地よいはずなのに、ひどくむず痒い。 「ごちそうさま」  テーブルに置いた空のグラスの中で、からん、と氷が小さく音立てた。 「僕、帰るから」 「帰るって、どうして…いきなり」  慧の言葉に、有馬は明らかな狼狽の色を見せた。  帰って。  寝て。  もしかしたら、ちょっと泣いて。    そうしたら全部、終わりしよう。  二度とこの家には来ない。  今度こそ絶対に、ここに来ることは…ない。 「ごめん」  心底悪いと思いながら、慧は言った。    忘れたりはしない。  忘れるにはもったいないくらい有馬はいい男だったし、彼と知り合いでいたこの三ヶ月間を、いつか誇らしく思える日がきっと来るだろう。 「それじゃ、」  格好よく立ち上がって、颯爽と部屋を出て行く。  そんな自分の姿を想像したが、実際には立ち上がるどころかグラスに添えていた手を有馬に掴まれて、慧はびくりと肩を震わせて顔を上げただけだった。 「慧」  有馬の真摯な視線は慧を刺し貫く。  目を逸らすことができなかった。 「帰らないで」  有馬がきつく慧の手を握りしめる。少し痛くて、慧は目を細めたが、有馬は掴んだ手を緩めようとはしない。 「初めて慧がここに来た時も、俺は同じようなことをお願いした」  そうだったか?  慧は動揺する意識の底で懸命に記憶を手繰り寄せる。 「あの時は、夕飯を食べていってくれないかって…」 「ああ、」  そんなこともあったな、と…懐かしくさえ感じる。  あの時から。  あの頃から既に自分はこの家を立ち去りがたくて、呼び止める声を、手を願い求めていたのに違いない。  それなのに、今はこうして有馬と対峙している。ーーー辛くて、哀しくて、たまらない。 「あの時は引き留めてもらって、嬉しかった……でも、今日は帰る」  もう二度と来ないから、『帰る』という言葉を使うのはおそらく最後になる。 「さようなら、諒介さん」 「慧」  有馬の手はいまだ慧の手首を握り締めている。逃がさない、とでも言いたげに。 「帰さない」 「もう帰る…」 「帰さない!だって、一緒に暮らしてくれるんだろ?」 「―――!」  ギクリと慧は竦みあがって、真っ直ぐ見つめてくる有馬を見返した。 「それ、は…」 「そう言った、さっき」  きちんと聞こえていて、それで知らん振りしていたなんて…ずいぶんと酷いじゃないか。慧は頭の中で文句を言い立てたが、それはひとつとしてまともな言葉にはならなかった。 「あ、あぁ…の」  有馬の掌の熱が、重ねられた手からじわりと伝わって腕を這い上がり心臓にまで届いてくるようだ。熱さが動悸に変わって、どくどくと激しく脈打つ心臓。  熱は全身に伝播していく。見なくても、顔が真っ赤になっているのがわかる。 「ち、ちち、ちがくて」  ようやく、なんとか否定してみたが、 「違わない」  大きく否定し返された。 「なっ、あ、えぇ…あっ、…聞き間違え!」 「慧の言葉を聞き間違ったりするもんか」  目の前の男は、なにを断固と言い張っているのだろう。当事者たるこちらは、違うと言っているのに。 「どうしても帰るっていうなら…帰ってもいいーーー」  両手で手を包み込まれる。有馬の掌は大きいな、なんて思いながら、こうして手を握られたのは初めてだ、などと他人事みたいに思っていた。 「ーーーでも、ここで一緒に暮らすんだから慧が帰る場所はここだろ?」  それは詭弁というヤツだ。そんなこと言われたらどうしたって自分の家には帰れなくなる。    帰りたくない。  だが、そもそも有馬は慧の問いにはちっとも答えていない。  『一緒に暮らさない?』  そう聞いてから、イエスともノーとも返事をしていないではないか。それなのに……。  言葉はぐるぐると心の内を駆け巡るのに、ひとつも唇を突いて出てこない。慧は困ったようにちらりと上目遣いで有馬を見上げた。 「そうじゃ、なくて」 「そうだよ」  有無を言わさぬ厳しい瞳が覗き込んでくる。 「ちがう……」 「ちがわない」  睫毛が触れそうなほど近くに有馬の顔がある。これまで見たことのない、思いつめたような男の表情。 「慧は俺こと、ただの話し相手にしか思ってないんじゃないかって…ずっと悲観してた」  どくり、どく、どくどく。  自分の心臓の音は、きっと有馬の耳に届いているに違いないと慧は思った。 「慧はまだこっちで知り合いが少ないから、寂しくてここに来てくれる。だからそのうち…大学で友達がたくさんできて。ついでにかわいい彼女なんかできたら、俺なんてお役ごめんで捨てられると思ってた」 「捨て…」  意外な言葉に目を見張る慧に、有馬は力なく微笑みかける。 「来てって頼んで、慧が躊躇う。それが遠慮なのか拒否なのか…わからないままで怖くて、怖くて。確かめることもできなかった」  慧は思わず睫毛を瞬かせた。 「だって…僕だって、その、迷惑に思われてるんじゃないかって、仕事とか、あの…いきなり押しかけたりしたらその、図々しいって思われて、嫌われるんじゃないかって」 「いつも俺が来てってお願いしてたのに?」 「行っていいか聞いてたのは、いつも僕だけど?」 「そう―――そうだね、それはわかってた」  混乱しながら答える慧を見て、有馬は少しだけ口元に笑みを乗せた。 「電話もくれるし、家に来てもくれるしーーー嫌われてはいないはずだ、と自分を慰めてた。だから長期戦でいいと思ってた。無理やり迫ったり奪ったりしないで、今のままの関係を少しずつ深めていけば、いつかきっと俺の気持ちに気づいて、応えてもらえるはずだって…信じてた」  ぼーっとする頭の中で、慧は必死に有馬の言葉を整理した。  もしかして…目の前の男は、自分のことを好きだとでも言いたいのだろうか。   「結局は、自分に自信がもてなかったから…結論を先延ばしにしていただけだったんだ。そうしたら、いつか俺が伝えたいと願っていたひと言を、先に言われた」 「なんの、こと?」  首をかしげた慧に、有馬はしごく真面目に答えた。 「いっしょに暮らそうって」  言われて、またも慧は真っ赤になった。その反応に意を得たように、有馬は畳み掛けてくる。 「最初は空耳だと思った。まさか慧からそう言ってもらえるなんて…考えてもみなかったから。でも間違いなんかじゃなかった」 「あ、れは、別にちょっと…その、深い意味は……」 「慧の言葉を聞き間違ったりしない」  男は、こちらの言い訳などまったく聞く耳持たぬ素振りで会心の笑顔を浮かべた。 「嬉しかった。でも、ちょっと悔しかった。俺がそれを言いたかったのに、って」  慧は大きく息を呑んだ。  やっぱりどうも、そうらしい。  目の前の男は、自分を好いてくれているのだ。 「ありがとう、慧」 「…っ、」  いささか茫然自失状態の慧に、有馬は嬉しくてたまらないといった風情で礼を言った。  言葉に詰まる慧の火照った頬が、大きな掌に包み込まれる。逃げ場を奪われた慧は狼狽した瞳を有馬に向ける。  もういったいなにがどうして、どうなっているのだろうか。 「俺と、一緒に暮らそう」  ぐッと身を乗り出してくる有馬の、その端整な顔が目の前に迫る。 「これだけは俺から先に言わせて。慧、君のことを……」  項に手がかかり、逃げられないように引き寄せられる。  そして、男の甘く熱い囁き。  「愛しています」     何も考えることなどできなくなるほど深い口づけが慧を襲う。  もう眼を閉じて、流されるように有馬にすべてを任せる以外になかった。

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