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第6話

 慧が目を覚ますと、時刻は既に深夜だった。  怠さと空腹感で意識が浮き上がり、ぼんやりと瞼を開けるとそこは薄明かりの灯った見知らぬ部屋。さらに見知らぬベッドの中にいる。  いまだはっきりせぬ記憶を手繰りながら重い身体を動かそうとしたが叶わず、とりあえず辺りを窺うべくそろりと頭を巡らした。  途端、視界に飛び込んできたのはやけに整った男の寝顔。  あー、そうだ…!    この男と、寝たのだ。    腕枕なんかされていることに、いまさらながら羞恥がこみ上げてくる。    頬が燃え立つように、かっと熱くなる。埋もれてしまいたいほどの恥ずかしさ。  一緒に暮らそう、とは言ったものの、そのままなし崩しに一線を越えることまでは想定していなかった。  まさかの急展開ぶりに驚くしかない。  でも、よかった。  よかった、という言葉がなにを指ししめすのか、よくわからないが慧は思う。  受け入れてもらってよかった。   捨てられないでよかった。  片思いじゃなくてよかった。  恋人になれた、みたいでよかった。  そして慧はさらに顔を赤らめて、こっそり付け加えてみた。  キモチよかった。  あと。諒介さんでよかった。  そんなことなど知らぬとばかりに、有馬は小さな寝息をたてている。  慧をしまいこむかように腕の中に包み込んで。  腕枕というのをされるのは初めてのことで、なんだか居心地が悪い。重たくはないのだろうか。  ずっと同じ格好で腕を圧迫されていて、有馬は辛くないのだろうか。  どことなく落ち着かなくて、そっと頭をどかそうとする。しかし、気配を察したのかぐいっと抱き寄せられてしまった。 「うわっ!」  閉じ込める檻のような腕の中、驚きと羞恥で身動きが取れない。  有馬の胸に頬が触れる。  とくりとくり、と優しい鼓動が規則正しく耳に響いてくる。  生きてるんだな。なんて、バカみたいなことを思いながら、すりすりと胸元に鼻を埋めると、有馬は擽ったそうに身じろぎした。  その仕草がなんだか可愛らしく見えて、慧は意地になったように有馬の胸に更に鼻先を押し付けた。  とにかく、心地よい。  上目遣いに男の頬から顎のラインを眺めてみる。  なんていい男なのか。つくづくと感嘆してしまう。  それに比べて…。  慧は眉間にシワ寄せて考え込んだ。  おそらくは自分の寝顔を、この男は眺めたことだろう。その時どんな感想を抱いたものか。  口を半開きにして寝ていたりしただろうか。まさか、いびきや変な寝言を言ったのではないか。  悶々と悩んでいるうちにきゅーと腹の虫が鳴いて、色気がなさすぎる自分に慧が心中憂いていると。  いきなりくっと有馬の身体が震えた。  驚いて慧が顔を上げると、有馬は眼を閉じたまま口元をひきつらせ、必死に笑いをこらえていた。  起きていた。そう理解した瞬間、火を吹き出すんじゃないかと思うほど全身が熱くなる。 「……り、諒介さん!」  グイと腕を突っ張って、その胸に委ねていた身を慌てて離す。  有馬はくすくすと笑いながら、何度か目を瞬かせて慧を引き戻す。 「そんな、いきなり逃げなくても…」 「起きてるなら起きてるって、いっ、言って!」 「たった今、目が覚めた」 「うそだ…」  慧は顔を真っ赤に染めて文句をつけた。 「タヌキ寝入りだ!いつから起きてた!」  よくそんな嘘を白々と吐くもんだ。どう見たって、有馬は起き抜けという顔ではなかった。 「寝てたよ。可愛い子猫が胸の辺りで戯れる夢を見てた」 「うっ―――」  熟したトマトみたいに赤くなって返事もできないでいる慧を、有馬はぎゅっときつく抱きしめた。  苦しくて、思わず強く背中を叩いたけれど男の腕は緩まなかった。   「あんまりにも幸福なものだから、夢じゃないかと思ってた。本当に目が覚めたんだって、信じられなかった」 「いっ、いたっ、諒介さん!」 「でも現実なんだ。もう自分を無理やり諦めさせたり宥めたりしなくていいんだ」  腕の中で暴れる慧を押さえつける力をほんの少しだけ弱め、息がかかるほど近くで瞳を覗き込んでくる。有馬はさきほどまで浮かべていた笑みを消し、慧が目を疑うほど真摯な表情を見せた。 「―――寂しかった」  慧は大きく目を瞠る。  寂しい、なんて。およそこの男の言うに似つかわしからぬ言葉だ。 「慧が、『じゃあ』って言って帰るたびに胸が潰れそうなくらい寂しくて…腕を掴んで無理にでも引きとめたいって 、いつも思ってた」  返す言葉に窮して口を噤んでいる慧に、有馬はしごく真剣な声で続けた。 「でもこれからは、どこへ行っても必ずここへ戻ってきてくれる。背中を見送りながら、もう来なかったらどうしよう、なんて心配しなくていいんだね」 「りょ…」 「もう『待ってる』だの『いつでもおいで』だの…他人みたいな寂しいこと言わなくていいんだね」  畳み掛けるように問われて、慧は息が吐けなくなる。  自分より遥かに大人である有馬が、まさかそんなことを思っていただなんて。唇を震わせて答える声を探す慧に、まだ足りないとばかりに有馬は掻き口説く。 「その代わり、ただいまとかおはようとか…おやすみとか。毎日、言えるようになる―――夢みたいだな」  知らなかった。  有馬の抱えていた想いを。  安堵とも感嘆ともつかぬため息が唇から零れて、慧はそっと目を伏せた。なんだかわけもなく恥ずかしかった。閉じた瞼の向こう側で、有馬が微笑むのがわかる。 「でももう夢じゃない。捉まえた。絶対離さない。一緒に暮らすんだから、慧が帰るのは俺のところだ―――そうだね?」  慧の顎を引き上げる、優しい指。けれど、たじろいで顔を背けようとするのを許してはくれないほど、強かな指だった。 「いいね?」 「あっ、」  質問したくせに答える間も与えない。  痛いほど強く唇を重ねられる。 「いい?」  有無を言わさぬ直向きな声が、触れ合った唇越しに念を押してくる。その熱に浮かされるみたいにして、慧はキスを受けたままコクリと小さく頷いた。 「よかった」  求めたものが得られたからか、有馬は慧をようやく解放しほっとしたように目元を緩ませた。 「ありがとう」  見ている慧のほうが照れてしまいそうな、幸福に満ちた笑顔を浮かべている。 「いただきます。ごちそうさまは勿論、お土産買ってきたよ、今日は早く帰るーーーあぁ、言ってみたい言葉が山ほどあるんだ。ご飯とお風呂とどっちが先?なんて…もう最高だよね。そういうのが楽しみでしかたない」  きらきらと瞳を煌めかせて口にする有馬は、いつも見せる落ち着いた大人の男の雰囲気など微塵も感じさせない。まるで子供のようだ。  男の意外な一面を発見して、思わずまじまじとその顔を眺めてしまう。 「慧にもそういうこと、たくさん言ってほしい」 「へ?」 「おやすみとか、おはようとか…毎日言ってよ!」  約束、ね?  駄目押しみたいに、大人の男は首を傾げる。  有馬は世界中の幸福を独り占めにしたような顔で慧を見つめている。  この男にそんな顔させているのは自分なのだ。  そう思うと慧もまた、心も身体もじんわりと満たされていくような温かな幸福を覚えた。  自分の気持ちで手いっぱいで、今まで有馬の感じていた不安も寂しさも、ちっとも理解することができなかった。  ごめんなさい。  これからは、きちんと理解していくようにするから…。慧は心の内で、そっと誓った。  これから、今まで知らなかった有馬をもっともっと知っていくことになるだろう。  そう思うと、有馬には申し訳ないけれど、知らない部分があることが逆に嬉しくさえ思えた。一つ一つ発見するみたいにして、彼のことを毎日少しずつわかっていくなんて、それこそ夢のような楽しい生活ではないだろうか。 「慧に『行ってらっしゃい』とか言われたら、たまらないだろうなあ」  有馬はにこにこと、子供のように嬉しそうに呟いている。こんな意外な彼の姿を、きっと自分だけが見つけることができる。  そうして有馬だけが、慧の本当の姿を知ることができるのだ。  たくさん知りたい。そして、知ってほしい。    これから先はそうやってふたりで過ごしていくのかと思うと、どうしてだか瞼の裏が熱くなる。ぎゅっと眉を寄せて、慧はようやくそれを堪えた。 「ーーーただいま」  眦に滲み出しそうな涙を見つからないように、有馬の胸に顔を埋めて潜めた声でそう言ってみる。すると、頭の下にある有馬の腕がびくりと震えた。 「これでいい?」 「慧…」 「ただいま。で、諒介さんも―――おかえりなさい」  一生懸命、掠れた声を絞り出す。  強がって隠して見せたって、今にも泣きだしそうなことくらい有馬にはバレバレだ。それでも彼はこんな自分を好きでいてくれるのだろうから、かまわない。 「でもって…これから、ずっと、よろしく、」  有馬は目を眇め、そっと慧の髪を撫でる。 「ただいま、慧」  小さくそう言って、慧を胸元に包み込んだ。 「ずっとよろしく」  帰ってきた。  身も心も蕩けだしそうな肌の温もりがそう教えてれる。  有馬の掌が慧の掌を包み込んで、もう解けないんじゃないかと思うほどきつく指を絡めてくる。 「慧―――」  熱っぽく有馬が囁くのと同時に、 「お腹、空いた」  照れ隠しみたいに慧が呟く。  しばし見詰め合ったあとふたりは同時に笑い出し、絡めた指先は解かぬままベッドから抜け出すとキッチンへと向かった。  きっと互いのその手を離すことは、もうない。

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