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第1話
イギリス、ロンドン、ベーカー街211B、21時。
二人の男が銃口を向けあっている。
一人はこのフラットの住人、シャーロック・ホームズ。
そしてもう一人は。
アメリカからやって来たフロリダ州マイアミデイド署警部補、ホレイショ・ケインその人だった。
今から四時間前。
診療所のアルバイトを終えたジョン・ワトソンは気分が良かった。
今日は金曜日でアルバイトは土日は休みだし、『本業』の方も大きな事件が無い。
大きなというか、ジョンの同居人シャーロック・ホームズの興味を引く事件そのものが無い。
だから今夜はシャーロックとゆっくりディナーを取り、土日は何処か近くの自然豊かな場所への列車旅行なんか良いんじゃないかなあとジョンは考えている。
シャーロックは自分の興味を引く事件が無くて、『退屈』がそろそろ口癖になって来たし、通常通り引きこもってバイオリンを弾きまくるか、『精神の宮殿』へ飛んで行くかのどちらかの日々だからだ。
そろそろシャーロックが爆発するのは目に見えている。
それにジョンも『二人で』環境を変えたい事情があるのだ。
そして診療所の前の通りの角をジョン曲がった時だった。
見覚えのある黒塗りの高級車がジョンの横にピタリと止まる。
ジョンがため息をつく間もなく、後部座席のスモーク硝子の窓が三分の一程下がる。
ジョンはあれ?と思った。
何故なら傘の持ち手が見えたからだ。
ジョンは思わず叫んでいた。
「マイクロフト!?
あなたなんですか!?」
スーッと窓が下がり全開になる。
そして車内から、マイクロフト・ホームズが眉を寄せて、「ジョン。大声で私の名を呼ぶのは止めてくれないか」と言った。
ジョンも負けじと言い返す。
但し、普通の音量で。
「だって!
あなたはいつも秘書を寄越して、回りくどい持って回った現れ方をするじゃないですか!
何で今夜は自らやって来たんですか!?」
マイクロフトが淡々と答える。
「まず言わせて欲しい。
私との面会を君が『回りくどい持って回った現れ方』だと思っていたとは心外だ。
では本題に入ろう。
私がわざわざ現れたのは、是非ジョンに医師として頼みがあるからだ。
車に乗ってくれるな?」
ジョンは一瞬、きゅっと唇を一文字に結び、握り拳を作ると、スタスタと車の後ろを歩き、後部座席の反対側のドアを開いたのだった。
シャーロックはこの曲を弾くのは何回目だろうと思いながら、窓辺に立ってバイオリンを弾いていた。
すると「シャーロック、ジョンはまだなの?」と穏やかな女性の声がした。
このフラットの大家のハドソン夫人だ。
シャーロックが手を止めハドソン夫人をジロッと見る。
「見て分からないですか!?
この部屋の何処にジョンが存在していると言うんです!?
ジョンは16時51分に『シャーロック、急用が出来た。今夜のディナーはキャンセルしてくれ。』とメールを寄越したっきり、もう3時間が過ぎようとしています!」
ハドソン夫人が小首を傾げる。
「あら、変ね~?
私にはついさっき電話があったから、てっきりあなたにもあったと思ったわ」
シャーロックが「電話!?」と怒鳴り目を剥く。
ハドソン夫人はシャーロックに動じることも無く、ニコニコと続ける。
「そうよ~。
私のマイアミ時代の知り合いが困った事になってるの。
それをジョンが助けてくれてるのよ!
素敵な巡り合わせよね~!
あら?
インターフォンが鳴ったわ!
いらっしゃったみたい!」
シャーロックの耳にもインターフォンの音は聞こえたが、耳から耳へと素通りしただけだ。
ハドソン夫人がいそいそと二階から降りて行く。
シャーロックはフンッと鼻を鳴らしバイオリンを弾こうとした…が、階下からの人々のざわめきの中に、ジョンの声を確かに聞いて耳を澄ませる。
するとトントンと階段を登る足音がしてひょいとジョンが現れた。
ジョンは出し抜けに、「君、手が空いてるならちょっと手伝ってくれない?」と言った。
シャーロックを待たせた謝罪もせず。
シャーロックがバイオリンを椅子に置き、マントルピースの上に置いてある拳銃を掴む。
そして「つまらん!」と言うと壁に一発撃つ。
ジョンが慌てて怒鳴る。
「シャーロック!今はまずいって!」
「つまらん!つまらん!つまらん!」
バンバンバンと銃声が響く。
すると誰かが階段を駆け上がって来る足音とそれに続く数人の足音、「警部補、待って下さい!」という珍しく慌てたマイクロフトの大声がした。
そしてドアの付近で駆け上がって来た男が立ち止まり、銃を構えて言った。
「動くな。
拳銃をゆっくり床に置いて、両手を挙げて跪いて頭の後ろで組め」
シャーロックが銃を手にしたまま、くるっと男の方に向く。
「何だと!?
僕を誰だと思っているんだ!?」
男は低い凄味のある声で続ける。
「もう一度だけ言う。
動くな。
そして拳銃をゆっくり床に置いて、両手を挙げて跪いて頭の後ろで組め。
でなければ、撃つ」
するとシャーロックの兄、マイクロフトがササッとその男の後ろに現れる。
そして顔を真っ青にしながらも、穏やかな口調で切り出す。
「ケイン警部補。
あれが診療所で説明した私の弟です。
弟は社会不適合者なんです。
今、私が銃を下ろさせますから、ケイン警部補も銃を下ろして下さい」
「なぜ?」
「は?」
「なぜ社会不適合者と呼ばれる人間に銃を持たせているんですか?
なぜ部屋で銃を発砲している人間を逮捕しないんですか?
御託はいいから警察を呼んで下さい。
私が撃つ前に」
マイクロフトが『ケイン警部補』の迫力に思わず黙ると、今度はジョンが素早く『ケイン警部補』と呼ばれた男とシャーロックの間に立った。
「ドクター、どういうつもりですか?」
「ジョン!どういうつもりだ!?」
『ケイン警部補』とシャーロックの声が重なる。
ジョンが深いため息を飲み込み、『ケイン警部補』に懇願する様に言う。
「ケイン警部補、僕がシャーロックから銃を取り上げます。
事情は後程じっくりとマイクロフトから説明させます。
ですからここはどうか僕に免じて、銃を下ろして下さい。
『彼』のここでの治療の準備も早くしなくちゃいけないし」
そして今度はシャーロックに向かうと、目の前の銃を掴む。
「ほら、君も銃を渡せ。
それとも僕を撃つか?」
ぐっと詰まるシャーロックの指から力が抜ける。
その途端にジョンが銃を掴み、振り返ると、「ほらね」と『ケイン警部補』に銃を見せる。
『ケイン警部補』が流れるような仕草で銃を下ろし、ホルスターに収める。
するとシャーロックが突如として喋り出した。
「この無礼な男はさしずめマイクロフトの大切な客だ!
なぜならマイクロフトが秘書任せでは無くマイクロフト自身が同行しているのと、今の態度で分かる!
ついでに言うなら発音でアメリカ人だと分かる。
そしてマイクロフトの大切な客の友人は左足を捻挫、もしくは打撲している。
マイクロフトのバカでかい部下に支えられてはいるが、明らかに左足を庇っている。
しかし骨折はしていない。
骨折をしている状態の治療は施されていないし、骨折をしていればいくらマイクロフトがこのフラットに泊めたくても、階段を登らせる様な真似はジョンがさせない。
そしてなぜこの無礼な男がマイクロフトの大切な客だと確信出来るかと言うと、治療をさせる為にジョンを選んだからだ。
口が固く誠実な医師で僕の親友なら、無礼な男とその友人の存在をペラペラ他人に話したりしない。
そしてなぜここに連れて来たのか?
それはこの無礼な男がマイクロフトからジョンが弟の親友だと紹介され、この221Bでジョンと僕が共同生活しているとジョンかマイクフトが話したからだ。
どうせ空港までわざわざ来て頂いてなとど礼を言われて、お気遣い無く実は…などと言って口を滑らせたのだ。
それでこの無礼な男は閃いた。
友人の男は若く、見るからに活動的だ。
自分が仕事をしている間、若い友人に一人でロンドンの街をウロウロされるのを心配して、エレベーターの無いこのフラットに連れて来た。
どうせジョンの医師としての心情をつついてジョンから招かせたんだろう。
それにマイクロフトとジョンは、他人と共同生活出来ない僕に黙って二人を連れて来て、僕に不意打ちを喰らわせた!
僕を説き伏せられる反論が出来るなら言ってみろ!
どうなんだ!?
ジョン!マイクロフト!」
ジョンが深いため息をつき「ひけらかすなといつも言ってるだろ…」と呟き、マイクロフトが天を仰ぐ。
その時、「…ホレイショ…」と小さな男の声がした。
『ケイン警部補』がシャーロックを完全に無視して、素早く振り返り、その声の主に向かう。
その声の主は身長2メートル体重120キロはある逞しいボディガードに支えられて立っている。
ジョン越しにシャーロックもその男をじっくりと見る。
美しい男だとシャーロックも認めざるを得ない美貌を持つ若い男だ。
「ホレイショ~俺、疲れた。
足もまだ痛い。
腹も減った~」
『ケイン警部補』がその男に駆け寄り、頬にすっとキスをする。
皆が…シャーロックも含め…唖然と『ケイン警部補』とその美貌の男を見るが、『ケイン警部補』はそんな周りの視線を全く気にする事無く、やさしく微笑むと言った。
「ディーン、可哀想に…。
でも食欲が出て良かったな。
くだらない事で待たせて済まなかった。
さあドクターワトソン。
治療の続きをお願いします」
「何回同じ話をさせれば気が済むんだ?」
ジョンが椅子に身体を預けると深いため息をつく。
シャーロックは自分用の椅子に足を縮めて乗せて座っている。
そして「もう一回だ」とボソッと告げる。
「何で?」
「嘘は完璧には繰り返せない。
必ずボロが出る。
特に君は」
「だから三回も話させるのか?
僕が嘘をついてると?」
「もう一回だ」
ジョンは自分のこめかみを指先で解すと口を開く。
「診療所を出て角を曲がったらマイクロフトに車で待ち伏せされてた。
マイクロフトは僕に『医師として頼みがある』と言ったから、病人が出たんだろうと思って車に乗った。
そしたら空港の特別室に連れていかれた。
そこにはマイクロフト曰く『私の大切なアメリカからの客人達』がいた。
君に銃を向けたホレイショ・ケインとその連れのディーン・ウィンチェスターだ。
ホレイショ・ケインはアメリカのフロリダ州マイアミデイド署の警部補でCSIのチーフをしている。
ロンドンには英国警察アカデミーのセミナーで科学捜査について来週の月曜日から講義する為にやって来た。
滞在期間は1週間。
来週の金曜日の夜便で帰国する。
英国警察アカデミーは以前からケイン警部補に講義を依頼していたが、毎回『忙しい』の一言で断られていた。
そこでアカデミーの学部長がマイクロフトの友人だった為、マイクロフトにケイン警部補のイギリス訪問実現を依頼した。
司法省が動いたので、ケイン警部補は嫌でもイギリスに来ることになった。
そこでケイン警部補はイギリスに来たことが無い恋人を連れて来た。
それがディーン・ウィンチェスター。
だけどディーンは大の飛行機恐怖症で、ケイン警部補はディーンの為にCSIの検死官の医師に特別に処方して貰った酔い止めと精神安定剤を飲んでいた。
ところがそれでもディーンは飛行機が怖くて、ケイン警部補の隙を見てウィスキーを飲んでしまった。
そして薬と酒という最悪な組み合わせでフラフラになったディーンは、空港で目眩を起こして転んでしまった。
その時に足首を捻挫した。
捻挫は全治2~3日の軽症。
だから僕が呼ばれた。
後は君の推理通り。
そしてディーンの捻挫が治るまで僕が治療をして、その間僕の寝室を二人に貸す事になった。
僕はソファで寝ても良いし。
どう?
納得したか?シャーロック」
シャーロックがブスッと「ファーストネームで呼んでる」と言う。
ジョンが眉を寄せる。
「……なに?
ああ…ディーンか?
ディーンが治療中に僕が『ウィンチェスターさん』って呼んでたら、『ディーンでいい』って言ったからさ。
もういい?
夕食にしよう。
腹ぺこだよ」
「いらない」
ジョンが立ち上がる。
「そう?
僕は頂くよ。
なんたってマイクロフトがケイン警部補とディーンの為に、五つ星ホテルからわざわざデリバリーさせたディナーだ。
ディーンが完治してホテルに移るまで毎食届くんだし!
僕達の分も!
なんとハドソンさんの分も!」
うきうきとキッチンに向かうジョンの後ろ姿を恨めしそうに見るシャーロック。
ジョンは今にも鼻歌を歌い出しそうだ。
そして1分もするとシャーロックに向かいにっこり笑った。
「ほら、シャーロック。
一口で良いから食べてみろよ」
「~~~!!」
シャーロックが顔を赤くしてガバッと立ち上がる。
ジョンがクスッと笑うと、スタスタとシャーロックの前までやって来る。
そしてシャーロックの手を掴む。
「一口でいいからさ」
シャーロックは思う。
ジョンは自覚が足りない!
その笑顔は銃など足元にも及ばない強力な武器だ!と。
そして仏頂面のシャーロックと「美味い!」を連発するジョンが夕食を終えると、いつもの通り開けっ放しのドアをコンコンとノックされた。
シャーロックは無視している。
ジョンは笑顔で立ち上がる。
「ケイン警部補!
何かご用ですか?」
シャーロックの肩がピクリと動く。
ホレイショは正に風呂上がりという姿だ。
髪こそドライヤーが使われているが、胸に五つ星ホテルの刺繍が入った真っ白なバスローブを着て、やはり真っ白なタオルを首に掛け、素足に真っ白なスリッパまで履いている。
ジョンはきっとマイクロフトがバスローブやタオル類なども夕食と一緒にホテルから届けさせたんだなと思った。
「今、ハドソン夫人のバスルームをお借りしたんですが、寝室に戻ったらディーンが目覚めていたんです。
身体を拭いてやりたいが、今夜はもう点滴などの処置はありませんか?」
ジョンが頷く。
「痛みや吐き気を訴えたりはしてはいませんか?」
「いいえ」
「でしたら大丈夫ですよ。
もし湿布や包帯も変えるのなら、お手伝いしますけど」
「ありがとう、ドクター。
それは私がやります。
夜分に失礼しました」
「とんでもない!
ディーンの具合が少しでも悪くなったら、夜中でも構わないので呼んで下さい」
「ええ」
ホレイショが微笑み、去って行く。
ジョンがふうっと息を吐く。
そして後ろ姿のシャーロックに語りかける。
「まるで君に銃を突き付けた時とは別人だね!
よっぽどディーンがかわいいんだろうなあ」
シャーロックが後ろ姿のまま、フンと鼻を鳴らす。
「そんなこと、アイツが僕に銃を突き付けた時から分かっているじゃないか!
アイツは警察官としての使命からだけで僕に銃を突き付けたんじゃ無い!
あのディーンっていう恋人が、『僕の銃弾』という危険に晒されるのが我慢ならなかったんだ!
全くつまらん動機だ!」
「……そうかなあ?」
ジョンが腕を組み、うんうんと頷きながら天井を見る。
シャーロックがチラッとジョンを見る。
「何だ?
僕の推理に疑問があるのか?」
ジョンは天井を見ながら答える。
「そうじゃなくて。
あの男前だけど強面のケイン警部補が、ディーンを手放しで愛してるって隠さずに行動に移すのが…何か良いなあって…」
シャーロックの眉が釣り上がる。
「愛!?
君は何歳だ、ジョン!
恋する乙女か全く…だいたいアイツは…」
その時、クスクスと笑う声が密やかに、だが確かに、シャーロックとジョンの耳に届いた。
『くすぐったいって!』
『じっとしていろ、ディーン』
『…だって…わざと変なとこばっか拭いてるだろ!?』
『それはディーン次第だ。
俺は君にさっぱりして貰いたいだけだ』
『…う、嘘つき!
あ、あぁ…っ…』
『シーッ…。
ドクターに聞こえたら失礼だぞ、ディーン』
そうして密やかな息遣いとシーツの擦れる音までも。
ジョンがボッと赤くなりシャーロックをチラリと見上げると、シャーロックは青ざめて固まっていた。
ジョンはため息をつきたくなるのを必死で我慢する。
但し、ケイン警部補グッジョブ!と心の中でガッツポーズを取りながら。
そして務めて明るく言った。
「今夜は君の寝室借りていいかな?」
シャーロックが固まったまま、ギギギと錆びついた音をさせるように首を下に向けた。
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