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第2話
翌朝、ジョンが目覚めると、裸のシャーロックに後ろからガッチリ抱きしめられていた。
シャーロックの規則正しい心臓の鼓動を感じながら、ジョンは考える。
昨夜は固まったシャーロックをリビングに放置し、ジョンはシャワーを終えてリビングに戻った。
すると横長のソファの端に大きな身体でちょこんと座り、固まったまま『精神の宮殿』に飛んでいるシャーロックがいた。
ジョンはシャーロックをまた放置し、一人、シャーロックの寝室に向かい、ベッドの半分に横になった。
シャーロックとジョンの関係は『恋人』で間違い無い。
なんたって『あの』シャーロックから、「愛してる」と言って、ジョンを抱きしめて告白して、しかも泣いたのだから。
ジョンも「僕も愛してるよ」と返して二人は晴れて恋人になった…筈だった。
なぜ『筈』かと言うと…ハグやキスに問題は無い。
シャーロックは孤高の人間だが、ジョン相手となるとスキンシップは過剰気味だ。
だがある日、ベッドの中で『事件』は起きた。
そしてジョンの気持ちなどお構い無しに、シャーロックはその『事件』に対して自分の殻に閉じこもってしまった。
シャーロックはジョンと一緒に寝たがるくせに、絶対に同時にはベッドに横にならない。
シャーロックが先に寝るか、ジョンが先に寝てシャーロックが後からやって来る。
そして背中合わせで寝る。
だが起きてみれば、今朝のように裸のシャーロックにジョンは抱きしめられているのだ。
その繰り返し。
ジョンとしては何とかシャーロックにあの『事件』に向き合って欲しいと考え、色々試そうとしたが、相手はシャーロック。
ジョンの作戦は全て実行前に不可能にされてしまう。
誰かに相談したいと考えもしたが、ジョンがいくら人望があるとは言え、このデリケートな『事件』を相談出来る相手はいない。
仕方無い…ディーンとケイン警部補がこのフラットから去ったら、また作戦を考えよう…
今はディーンの治療…と言ってもただの捻挫だけど…に専念だ。
ジョンはそう頭を切り替えると、そっとシャーロックの腕から逃れ、すやすや寝息を立てるシャーロックの額に一瞬キスを落とし、ベッドから出て行った。
ジョンが自分の寝室に向かうと、ディーンは朝食も済ませていたし、ゆったりとした部屋着に着替えて、枕をクッション代わりにしてヘッドボードに凭れてパソコンで動画を観ていた。
ホレイショの姿は無い。
ジョンを見てにっこり笑うディーンの美しさにジョンは思わず後ずさる。
そんなディーンは「ドクター、おはよう!俺もう治った?全然痛くねーんだけど?」とジョンを急かしてくる。
ジョンが「し、失礼」と言ってディーンの足元の掛け布団を捲る。
そこにはどこの有能救命士が巻いたんだ!?と言わずにはいられない程、きっちりと包帯が巻き直されていた。
ジョンが「ケイン警部補が巻いたのかな…?」とポツリと言うと、ディーンが子供の様にあははと笑った。
「そうなんだよ~。
俺が動けないって分かってるくせに、ホレイショが悪戯してくるから、包帯がズレちゃったんだ。
そしたら湿布を替えて包帯も巻いてくれた」
ディーンはそれが当然という態度だが、ジョンは危うく「あの強面のケイン警部補が!?」と叫び出すところだった。
確かに昨夜『それは私がやります』と言ってたけど、まさか本当にやるなんて…!
しかもこのレベルの高さ…!
すっごい…まめまめしいというか…甲斐甲斐しいんだな…きっとディーンだけにだろうけど…それに悪戯って!悪戯って!悪戯って!と斜め上の方向に感心しながら顔を赤らめるジョンだったが、手を休めずテキパキと湿布と包帯を替えて点滴の準備をする。
ディーンは「まだ点滴すんの?」と少しぷっくりとした唇で口を尖らす。
か、かわいい!!
また心の叫びをごっくんと飲み込むジョン。
「そ、そうだよ。
君が痛みを感じないのは鎮痛剤が効いているだけで、診たところまだ炎症を起こしてる。
だから抗炎症剤を点滴すれば口径で薬を取るより早く効くし完治も早くなる。
君だってわざわざロンドンまでやって来て、寝たきりなんて嫌だろう?」
ディーンがパッと腕を出す。
「うん。
ホレイショとロンドンの街を歩きたい」
「じやあ点滴するね。
鎮痛剤も点滴するから、少し眠くなるかも。
そうしたら我慢しないで眠って。
昼前には起きれるから心配しなくていいよ。
それと分かってるだろうけど、痛みが無くても薬が効いているだけだから、なるべく足を動かさないで。
さあ、これでいい」
ディーンに点滴の処置を施すと、ふとジョンは思った。
ケイン警部補は何処だ?
そんなジョンの心を読むようにディーンが言った。
「ホレイショならもう仕事に行った。
土日は月曜日からの講演の準備だって。
つまんねー」
急にディーンがショボンとして、ジョンはディーンは美くしいしカッコイイけど、やっぱりかわいいなと思った。
「そうなんだ。
じゃあ点滴が終わったらリビングに来れるように、自分で動かせる車椅子を用意しようか?
僕で良ければ話し相手になるし、テレビもあるよ?」
ディーンがぱあっと明るい笑顔になる。
「ホント?」
「ああ、勿論。
緊急事態に備えて医療道具一式と一緒に、ハドソン夫人の地下室に置かせて貰ってるんだ。
折り畳み式だから点滴が終わる頃、持って来ておくよ。
一人で乗れなかったら僕を呼んでくれ」
するとディーンが上目遣いでしみじみと言った。
「…ドクターってやさしいんだなあ…」
ジョンの胸がドキッと跳ねる。
「べ、別に。
医者の義務だよ」
「でもさ、昨夜も空港で俺を怒ったりしなかったじゃん。
薬を飲んでるのに酒なんか飲んだ俺が悪いのに、ホレイショもドクターも俺を一言も責めなかった。
ドクター、『よっぽど飛行機が怖いんですね』って言ってくれたし。
早く治してあげたいからって、このフラットにも招待してくれたし。
サンキュ!」
きらきらと眩しい笑顔がジョンを照らす。
ジョンは「さあ、もう横になって」と言って医師の顔を必死に保つと、ディーンの枕を元に戻し、ディーンを横にしてやると、そそくさと寝室を出て行った。
それからジョンはハドソン夫人の部屋を訪ねると、「はい、あなたとシャーロックの朝食よ」と料理の乗ったトレイを渡された。
ジョンはディーンに車椅子を使わせてやりたいので、後で地下室にまた来ますとハドソン夫人に告げた。
するとハドソン夫人がポッと頬を赤らめ、「ディーン!あのボーイは良い子よね~!」と言った。
「何がです?」
キョトンとしているジョンの肩をバシッと叩くハドソン夫人。
「だって!
朝食はケインさんが取りにいらしたんだけど、その時ケインさんに頼まれたの。
自分は食事を取ったら直ぐに仕事に出かける、ディーンにはゆっくり朝食を取らせてやりたいから1時間後に食器を取りに行ってやって下さいませんかって。
とっても丁寧に、ね!
ケインさんは紳士よね~。
勿論私は了承して、1時間後にあなたの寝室に行ったの。
そしたらウィンチェスターさんが、『わざわざありがとう、ハドソン夫人』って言ってウィンクしたのよー!
あの睫毛バサバサの瞳で!
バチンと音がしたわ!
だから私、思わず『早く治るといいわね』って言ってウィンチェスターさんのおでこにキスしちゃったの」
「えぇ!?」
「あら、別に良いじゃない。
あなた達ボーイズには手を焼かされてばかりだけど、ウィンチェスターさんは違うんですもの。
礼儀正しくてその上セクシー!
そしたらウィンチェスターさんが、『俺はディーンでいいよ。俺もキスをお返ししてもいい?美しいハドソン夫人』って言って私の頬にキスして来たのよー!」
バシッバシッバシッ。
ジョンの肩がまた叩かれる。
ジョンはトレイを傾けないように必死だ。
「そ、そうですか…。
それにしてもディーンも大胆だな…」
「大胆?
それは違うわ」
今迄のはしゃぎようは何処へやら、ハドソン夫人が冷静な声音で言い返す。
「ディーンは超モテる人生を送ってきたのよ!
だから女性への接し方を良く分かってるの。
それに引き換えうちのボーイズときたら…」
はああ~と言うハドソン夫人の深いため息を聞きながら、ジョンは素早くその場を離れ、逃げるがごとく階段を登って行ったのだった。
ジョンが二階のリビングに戻ると、シャーロックは長いソファの端に裸の身体にシーツを巻いて、大きな身体を縮めてちょこんと座っていた。
「朝食にしようよ」「いらない」を三回繰り返したので、ジョンは一人で食事を終わらせ、黙々とシャーロックの朝食を冷蔵庫にしまい、またハドソン夫人の部屋に向かった。
ハドソン夫人はまだご機嫌で、地下室から車椅子を運び出すジョンに向かって「ディーンに不便が無いようにしてあげてね!」と言った。
ジョンは「分かってます」と答えると、階段を登り自分の寝室に向かった。
そっとドアを開けるとディーンは眠っていた。
ディーンの寝顔は美しく、あどけない。
まあこの顔で生まれてモテない人生送る訳無いよな…
ジョンはやっかみでは無く、素直にそう思える。
それにディーンは人当たりも良い。
美貌を鼻にかけたりしないし、少し子供っぽい言動もルックスとのギャプがあって魅力的だ。
シャーロックだって綺麗な顔立ちしてるし、背も高いし、モテ要素は十分なんだけどなあ…
ジョンは無意識にハドソン夫人と同じ深いため息をつきながら、ディーンの点滴を外してやり、車椅子を広げてベッドサイドに置いてやったのだった。
それからの午後のリビングは賑やかだった。
ディーンは食事を一人で食べるのは嫌だと言い出し、食事はハドソン夫人がリビングに運び、ディーンは車椅子に乗って自分で動かしてリビングにやって来た。
ディーンはシャーロックの裸にシーツの格好を見て、まず爆笑した。
そして「あんたって絶対頭良いだろ?なのにそんなウケ狙いするんだ?おもしれ〜!」と言ってのけたのだ。
ハドソン夫人はぷッと吹き出して、足早に部屋を出て行った。
自室で爆笑する気だろう。
シャーロックはこめかみをピクピクさせながら青ざめているが、ディーンは「ドクター、あったかいうちにメシ食べようぜ」と全く意に介さない。
ディーンはシャーロックに向かって「なあ、あんたも」と声を掛けたが、シャーロックは「いらない」と言ってシーツをズルズルと引きずりながらリビングを出て行ってしまった。
だがディーンは「おもしれ〜ヤツ!」と笑って、これも全く意に介さない様子で昼食を食べ始める。
ジョンはシャーロックを追うべきかと一瞬考えたが、ディーンに食後の薬を飲ませなければならないし、足の具合も確認したいので、ディーンと昼食を共にした。
そして食後にディーンに薬を飲ませ、捻挫を確認して湿布を取り替えて包帯を巻いてやった。
その時、シャーロックがきちんといつものスーツ姿でリビングに入って来た。
ジョンが「温め直そうか?」と訊くが、シャーロックの答えは「いらない」だ。
「でも君、朝食もまだだろ?」とジョンがまた訊くと、ディーンが「…ドクター…やさしいのは良いけどデリカシー足りてないよ?」と言った。
シャーロックとジョンが揃ってディーンを見る。
ディーンは小声で「ダイエットしてんだよ。あのパツパツのシャツ見て分かんない?」と続けた。
今度はジョンがぷッと吹き出してしまった。
シャーロックは鬼の形相でディーンを睨んでいたが、フンとディーンから視線を外すとバイオリンを手にして弾き出した。
するとディーンが「すげぇ!こんな近くで生のバイオリン演奏初めて聴いた!」と言ってニコニコ笑った。
シャーロックの演奏は続く。
そんなシャーロックを見て、ジョンはせめてもとシャーロックの為にコーヒーを入れたマグカップをテーブルに置こうとして落としそうになる。
シャーロックが照れてる…!
いや、喜んでる…!
恐るべし、ディーン・ウィンチェスター!
ジョンはそっとテーブルにマグカップを置きながら、何だか楽しくなってきた。
ディーンの存在が221Bに新風を吹き込んでいる。
もしかしたらシャーロックとジョンの間に立ちはだかるあの『事件』にも、良い影響を及ぼすかもしれない。
ジョンはシャーロックを見上げているディーンの楽しそうな完璧に整った横顔を見ながら、期待に胸を膨らませていた。
だが、人生そんなに甘くない。
元軍医のジョンも予想だにしない事が起こってしまった。
それは平和な午後。
シャーロックはいつも通り長いソファの端に大きな身体を縮めてちょこんと座り、『精神の宮殿』に飛んでいて、ジョンは自分のブログをディーンに紹介していた。
ディーンは面白がって色々とジョンに質問して来て、それを答えるのもジョンは楽しかったし誇らしかった。
そして午後三時。
ハドソン夫人が「皆でお茶にしましょ」とレモネードと焼きたてのマフィンに手作りのジャムを数種類持ってリビングにやって来た。
ディーンがパッと笑顔になり、「サンキュ!ハドソン夫人」と言ってハドソン夫人にウィンクする。
ジョンは確かにバチンと音がしそうなウィンクだと思った。
それにきらきらが飛んでいる。
ハドソン夫人がデキャンタから氷がいっぱい入ったグラスにレモネードを注いでは各々前に置いていく。
そしてハドソン夫人もキッチンから椅子を持って来てディーンの隣りに座った。
ディーンはハドソン夫人に「美味そう!もうこれ食べて良い?」と子供の様に訊いている。
ハドソン夫人がお返しとばかりにウィンクをして、「どうぞ」と言う。
ディーンはパクっと一口食べると「うんまあ~い!」と仰け反り、またパクパクと食べ進める。
そんなディーンを愛しそうに見つめるハドソン夫人。
ジョンも「じゃあ僕も…」とマフィンに手を伸ばす。
ジョンもその味に「美味しい!」と声を上げた。
ハドソン夫人は満足そうに頷き、自分でも一口食べると「本当ね!大成功!」と嬉しそうだ。
そして三人でわいわいとレモネードとマフィンを堪能していると、ふとディーンが言った。
「俺さあ、ドクターにお礼がしたい」
「……へ?」
ジョンの手と口が止まる。
「俺、分かってるんだ。
ドクターとシャーロック・ホームズさんは恋人同士なんだろ?」
ハドソン夫人が「流石、ディーンね!」とうっとりとディーンを見つめる中、ジョンが何も言えずにいると、ディーンが続ける。
「でもドクターは悩んでることがある!
だからそれを解決する手伝いをしたいなって」
慌ててジョンが答える。
「いや僕は別に悩みなんか無いよ!
それに医者として当然のことをしたまででお礼なんて…」
「照れるなよ、ドクター!
今が一番良いタイミングじゃん!」
ディーンにニコッと笑って言われるが、ジョンにはディーンの言いたいことがイマイチ分からない。
そんな考えが顔に出たのかディーンがまた口を開く。
「今は美人で良い女代表のハドソン夫人もいる!
なんたってハドソン夫人はマイアミでマフィアのトップだった旦那を死刑送りにして、ロンドンの一等地でフラットを貸すなんて優雅な暮らしをしてる。
こんなこと、ただの美人じゃ出来ないぜ?
まずマフィアのトップを夢中にさせて結婚までさせる魅力があって、しかも賢い!
こんな良い女が傍にいてくれることに感謝しなきゃ、ドクター!」
ハドソン夫人が頬を赤く染め、「ディーン!美しくて賢いのはあなたよ!」と言ってディーンの頬にキスをする。
ディーンは余裕でキスを受けると「ほらな」とジョンに向かって言う。
ジョンがおずおずと話し出す。
「確かにハドソン夫人は美人で良い女だよ。
僕も同感だ。
で、でもさ…それと君の言う僕の悩み…というか、その悩みも分からないし、ハドソン夫人とどう繋がるのか分からないんだけど…」
ディーンがガシッとジョンの両肩に手を置く。
「だからさ!
百戦錬磨のハドソン夫人にもドクターの悩み相談に乗って貰うんだよ!」
ジョンの眉が八の字形になる。
「だから…その悩みが分からないんだよ…」
「照れ屋だな~、ドクターは!
俺とハドソン夫人は恋愛相談を漏らしたりしないぜ?
俺達を信用しろよ」
ハドソン夫人がうんうんと頷き、ディーンがウィンクをする。
バチンと音をさせ、きらきらを振りまき。
そしてディーンは言った。
いや、爆弾を投下した。
「ドクターの恋人なのにシャーロック・ホームズさんが童貞で悩んでるんだろ?」
その時。
ガシャンとグラスの割れる音がリビングに響いた。
『記憶の宮殿』にいる筈のシャーロックの手から落ちたグラスの割れる音が。
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