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第10話 歓迎会②
銀縁メガネの奥にあるキリッとした目は冷ややかで、不機嫌な様子を全く隠そうとせずに俺らを睨みつけている。師長に先に挨拶に行ったのが気に入らないようだ。甲斐先生の雰囲気に、直斗が隣で身体を強張らせるのがわかったので、俺が率先して挨拶する。
「挨拶が遅くなってすみません。新人の野澤と永江です。これから沢山学んでいきたいと思いますので、ご迷惑をかけるかもしれませんがよろしくお願いします」
「あーはいはい」
ぞんざいな態度に笑顔が引きつる。
「……よかったらお酌をさせて……、」
「お酌はしないで。俺ビール嫌いだから。ってか信用してない人の酒なんて飲めないよね」
「…………」
形だけでもお酌しようとしたが、甲斐先生は嫌味ったらしく言ったあと、コップを持つことなく、すぐに俺たちから顔を晒してテーブルに並べられた料理に箸をつける。挨拶をしてもしなくても態度が悪い。
甲斐先生の今のような態度は今回だけではない。Ω病棟での勤務態度はいいものではなく、スタッフ・患者さんとは必要最低限でしか話さないし、甲斐先生が出した、わかりにくい指示を確認すると、自分のことを棚に上げてネチネチと言葉で蔑んでくる。そして指導医である蒲田先生に付いて病棟に来る以外は絶対に来棟しない。
蒲田先生が何度か態度を改めろと注意している場面を見たが、言われてもどこ吹く風な態度だった。けれどαが相手だと、途端に笑顔で品行方正な態度をとる。
直接的にΩが嫌いとは言わないが、α至上主義の典型的な奴だと園さんが吐き捨てるように言っていた。
甲斐先生への挨拶は早々に切り上げて、他の研修医に挨拶をする。甲斐先生の発言を注意するでもなく、ただ気まずそうに聞いていた研修医達に、同じ同期で注意することも出来ないのかと呆れて、当たらずな態度で接した。研修医から離れた場所で直斗が一気に疲れた顔で話す。
「はぁ……。俺、甲斐先生苦手。絶対嫌われてる」
「あんな奴気にするな。性別で嫌われるならどうしようもない。向こうも最低限しか関わらないようにしてるし、俺らも最低限でいいんだよ」
「まぁ、そうだよなぁ」
その後の挨拶回りでは、みんなは心良く返してくれた。回り終わった後は次々と運ばれてくる食事を食べつつ、先輩たちのお酒を注文したり、談笑したりして時間が過ぎていく。
研修医たちが時々大声で笑ったりしているのが気になりながらも、そろそろ飲み会は終盤に差し掛かってきた時だった。
「お前おかしいんじゃねーの?俺は絶対Ω病棟担当なんて嫌だねー」
研修医がいる方向から聞こえたので目線を向けると、顔を赤らめ、上機嫌に研修医たちに向かって言っている甲斐先生が見えた。テーブル1つ分離れているがはっきりと聞こえる声だったので、結構大きな声を出して話しているのがわかる。
俺だけではなく、その言葉が聞こえた数名のスタッフも会話をやめて、研修医の方に目線を向けた。それを感じ取った気の弱そうな研修医が、甲斐先生の話を止めようとするが、酒で気が大きくなったのか、甲斐先生はΩ病棟の歓迎会に参加しているにも関わらず、物怖じせずに切れ目なく喋り続ける。
「今までΩ病棟なんてなかったのは必要なかったからだろ。たった1人αが死んだぐらいで、お涙頂戴の話でβどもの気持ち盛り上げてさ、こんな利益にもならない病棟作って国も馬鹿だよな。あれは政治家の票集めのための茶番だよ。Ω病棟への助成金も首輪も薬も税金の無駄。勝手に発情するんだから自己責任さ。政治家の言葉に踊らされちゃってさ、βは無能だし、Ωは動物だよ」
電波するように、楽しげだった雑沓が嘘のように静かになった。甲斐先生の声の大きさは変わらないのに、静かな空間にはうるさいほど大きく響く。
俺は不意に出てきた話題に身体を強張らせた。まずい。最近聞かなくなっていたから油断していた。頭の中で警告音が鳴る。
この前のように息がしづらくなってきて、みんなの前で過呼吸になるなんてダメだと思ってしまったことが更に悪く、軽いパニックになる。
やばい、このままじゃ過呼吸になる。
この場から去らないとダメだ。
俺はシンとしている会場からおもむろに立ち上がった。みんなの視線が集まるがそれどころじゃない。みんなのいないところ……、トイレに逃げないと。
「あ、昭仁?」
戸惑う直斗の声がする。
「ヒッ……、と、トイレ……っ」
「!俺も行く!」
直斗も勢いよく立ち上がり、俺を支えてくれた。手取り足取り居酒屋のスリッパを履かせてくれて、俺の腕を首にかけ、腰を抱くようにトイレに連れていってくれる。俺たちの突発的な行動に周りは唖然としていたけれど、園さんが俺を支えるのを手伝ってくれようとしてくれた。気を遣ってくれて嬉しい。でも俺は見られたくない。その気持ちを代弁してくれるように、直斗は大丈夫です!と返事をして他の人が来ないようにしてくれる。
「はっ、はっ……、ご、ごめっ」
「いいって!ゆっくり息するんだよ。息吐いて〜、ゆっくり……。息吐いて〜……」
直斗とは学生時代からの付き合い。俺は直斗の前で何度も過呼吸になったことがあって、直斗は今の俺の状態をわかっている。
過呼吸になったときのルーチンを頭の中でする。一樹、一樹……っ。
トイレのドアの鍵を閉める音がすると、俺は更に呼吸を意識する。本当は横になりたいぐらいキツいけど、出来ないので便器の蓋に頭をつけて、床に膝をついて前屈みの姿勢になった。
直斗はゆっくりと俺の背中をさすってくれる。
「はぁ〜……、ひっ、はぁ〜……」
どれぐらいたったかわからないが、呼吸が徐々に落ち着いてくる。酒が入っていたので、過呼吸が長く感じたし、落ち着いてきても、頭がはっきりしなかった。でも苦しさは引いてくる。
「……良くなってきた?」
「ふぅー……ふぅー……。ああ……」
「そっか、良かった」
「ごめん……、ありがと」
「全然いいよ」
直斗がホッとした様子で笑ってくれた。俺も力なく笑顔を返す。
その後は、身体のキツさがなくなり、飲み会に戻っても大丈夫だと思えるぐらいになるまで、しばらくトイレで休んだ。気まずいタイミングで抜け出したので、直斗と2人でおそるおそる飲み会の席に戻ると、大変なことになっていた。
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