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1 出会い~七瀬晴希~
街路樹の葉が赤く染まり、澄すんだ空を遥か遠くに感じ始める秋の日の夕方――。雑居ビルの一階にテナントで入っている古い楽器屋には、ピアノの旋律が響いていた。その音はとても繊細で透明感があったが、どうしたことか。色を失くしていた。
……からっぽだった。色も感情もない。あんな演奏、聞いたことがなかった。
地下鉄、新御茶ノ水駅を降りて、数分歩いていった先。楽器専門店が軒のきを連ねる通りにある馴染なじみの楽器屋。七瀬 晴希 はそこに週に一度、必ずといっていいほど通かよい詰めているが、彼を見たのは初めてだった。
ストレートの黒髪はさらさらと揺れ、鍵盤 を叩く指は細く長い。背丈は高く、すらりとしていてどう見たってスタイルがいいし、着ているものもシンプルだが実にしゃれていて、それが腹が立つほど似合っている。しかし、彼の持つ雰囲気だけは頂けなかった。まるで、どんよりと重い空気を纏 っているように見えたからだ。
なんだ、ありゃ。
そう広い楽器屋でもないので、店内にいる人間は、誰もが一度は彼に目を向けていた。晴希も、もちろんそうした。妙な男だと思った。
なにかに取り憑かれたように鍵盤 を叩きながら、揺れる髪の間には時折、瞳が覗 く。まるっきり意志を失くした眼差しには、どこか恐ろしさすら感じてしまう。この曲はたしか――『カノン』だ。クラシック界では有名な作曲家、パッヘルベルの。クラシック音楽をよく知らない晴希でも、これは何度か聞いたことがあったし、知ってもいる。
時々、この楽器屋では、ピアノの購入を考える客の試し演奏を聞くことができた。だが、これは明らかに試し演奏とは言えない。弾きたいから弾いている。彼はそういう感じだ。きっと、買うつもりなどないのだろう。
晴希はそれに驚きはしなかった。そういう『ただ暇ひまつぶしに弾きに来るだけの客』も、ここではよく見かける。楽器屋の店主がお人好しなせいだ。
黒髪の青年の弾くピアノの音を聴きながら、晴希はいつものように店内を見て回る。しかし、ほどなくして、眉 をしかめた。
こいつ、相当上手 いな……。上手 いけど――。
気に食わなかった。いや、上手い演奏者の音は好きなのだ。晴希はピアノは弾かないが、聴くのは嫌いではない。しかし、彼の音には意志や感情がまるで感じられなかった。誰かに言われて弾いているようでもあるが、それにしてもひどい。感情の乗っていないまま、楽譜通りに鍵盤 を叩いているそれは、音楽とは言えない。少なくとも晴希はそう思った。
しかし、なぜなのだろう。彼の指先から放たれていく旋律は、確かに面白みのないものなのに、嫌いではない。そもそも彼は、間違いなく上手うまかった。これはちょっとピアノを習っていたことがあるとか、ピアノが趣味だというレベルではない。ピアノを弾く。それを生活の中心において、来る日も来る日も、練習を重ねてきたような感じだ。
ただ、からっぽだった。感情がない。上手に弾けさえすればいい、とでも言うようなその演奏には虫唾 が走った。
晴希はそばにあった試し弾き用のアコースティックギターを目にすると、それを素早く手に取って抱 え、弦を指で弾 き、黒髪の青年の演奏に合わせて、音を奏 でる。ちょっとしたいたずらをしてやろう、と思ったのだ。
途端に、店内にいる客のほとんどが振り向いた。彼らの視線はいっせいに晴希に集まる。思った通りの反応だ。晴希は口角を上げた。
晴希はギターを弾くことを生業 としている。ほかの仕事との兼業ではなく、ギター一本で、生計を立てている。東京都心のとあるミュージックバーでギター演奏スタッフとして雇われ、来る日も来る日もギター演奏を披露し、金銭でもって、その対価を頂戴する。そういう職業である。
正直言って、ギター演奏の腕には自信があった。その辺の奴には負けない。そうでなければ、客の前で演奏するうえに、決して安くはない金銭など要求できるものか。
ほんの一瞬、ピアノを弾く青年と視線がぶつかったような気がしたが、晴希は気が付かないフリをする。思うがままに演奏を続ける。当然、青年の音に合わせて晴希が演奏していることには、そこにいる誰もがすぐに気付いたはずだ。青年は驚いたようではあったが、指を一度も止めなかった。だから、晴希もそれに負けじと、指を止めずに音を奏 でた。しかし、しつこいようだが、これほどに感情の乗っていない音を聴くのは初めてだ。
こいつの音は嫌いじゃない。だけど――。
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