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1ー2~七瀬晴希~
やがて、曲調が激しさを増してクライマックスに入る。すると、青年が目配せをし始めた。晴希は再び眉 をしかめる。言われなくてもわかっている。最後はうまくまとめよう、とでも言うのだろう。
ナマイキな奴だ、と晴希は彼を一瞥 する。すると、彼が視界の隅 で微笑 んだのがわかった。晴希は鼻を鳴らして仰 せのままに、流れるように指を動かして弾く。一番盛り上がったところでヘマをするような鍛 え方はしていない。
やがて、互いの音がぴったりと合わさって、ちょっと不思議なセッションが終わった。弾き終わった後の感想は、「とにかくつまんねえ演奏」だった。
割れんばかりの拍手の中、晴希はすぐにギターをあった場所へ戻して、逃げるように店を出る。あの店へなんのために行ったのか、買いにきたものがなんだったのかを忘れてはいなかったが、そんなものはまた買いにくればいいと思った。なにから逃げていたのか。それは、ほかでもない。あの黒髪の青年だった。
彼は演奏が終わった途端、すぐ晴希に目を向けた。しかも、わずかに目を潤ませ、頬を染め、笑みを浮かべてこちらへ近づいてきたのだ。それが別に気持ち悪かったとか、その顔が気に入らなかったとか思ったわけではない。ただ、彼はあの瞬間、演奏をしていたときよりも遥かに――輝いていた。そのせいで晴希はぎょっとしてしまったのだ。
「あの……っ」
慌てて店を出ようとしたのに、呆気 なく彼に手を掴 まれる。あんなに激しい演奏をした後だというのに、ひどく冷たい手だった。
「あの、セッションしてくれて、ありがとうございます!」
「あ――?」
目の前に立つ彼を見て――いや、見上げて思う。改めてこうして見ると、余計に彼はデカい、と。晴希は背丈が百七十センチほどあるが、彼はおそらく、百八十センチを超えているだろう。ミュージックバーで働く同僚が、たしか――百八十センチだと記憶しているが、彼はそれくらいは確実にあった。おまけに真正面からまともにその顔を見れば、彼はムカつくほど爽やかで、実に端正な顔つきをしていた。
「すごくお上手で驚きました! えっと、俺――」
「いやいや。どうでもいいけどさぁ……」
言葉を遮 ぎったのはわざとだ。晴希は少し苛立 っていた。彼は友好的で、口調には嫌味がなく、とても上品だった。明らかにお育ちが良さそうな雰囲気があるが、その一方で、どこか暗い影をも感じる。――と言っても、そういうところもまた魅力的だ。感じが良くて美しい彼の、どこにも非はなかった。ただ晴希は、演奏者としての彼に魅力があるとは思えなかったのだ。 彼自身が、自分で自分を粗末にしてしまっているような演奏に、晴希は苛立 っていた。彼なら、もっと心の中をかき乱され、揺さぶられるような演奏ができるはずなのに。それだけの技術はあるはずなのに。それをくしゃくしゃに丸めて、その辺に投げ捨ててしまったような、本当に粗末で面白みがなくて、もったいない演奏を、彼はしていた。
そもそもこんな演奏に、ここの店のピアノを使う必要があったのだろうか。本当にその音を誰かに聞かせたいと思って、ここで弾いたのだろうか。それすら疑問だ。
「あの――……」
「君、なーんかつまんない演奏するねぇ。すっげえお上手なのに」
ズバッと、思いきり真実を言ってやった。本当なら、ここはお世辞 でも「素敵な演奏ですね」とか言ってやるのが礼儀なのかもしれない。だが、相手は技術も店のピアノも粗末にするような奴だ。お世辞 などくれてやる必要はない。もちろん、喧嘩を売るつもりはないので、とびっきりのスマイルを作った。その直後、晴希の手を握った冷たい手は、離れていった。
駅前通りには、冷たく乾いた秋の風が吹く。握られた手は、彼のせいでまだ冷えていた。その手をポケットに突っ込んで温めながら、晴希は先ほどの『つまんねえ演奏』を思い出していた。
彼はさっき、ピアノをとても上手に弾いて、鍵盤 を正しく叩いていた。顔もスタイルもいい彼の姿は、視覚的に言えば、実に魅力的だった。また、あれだけ辛辣 な言葉をぶつけたのにもかかわらず、なにも言い返してこなかったことを考えれば、たぶん、悪人でもないのだろう。けれど、あれだけ外見に恵まれて、それなりに正しく上手に弾くことに長 けてはいても、ピアニストとしての彼はなにか大切な部分が欠けている気がした。おそらくそれは、彼の音がからっぽだったせいだ。
もったいない。あれだけの技術があるのに、どこも間違ってはいないのに、その技術は曲の中にまるで活 かされていないのだから。ただ、弾いているだけ。機械のように、正しいだけ。そんなものは音楽ではない。ピアノの演奏に最適であろう彼の細く長い指も、その悲しさに堪 えきれず、泣いているようだった。
もったいねえ演奏しやがって。指が泣いてるっつーの。でも、あれだけの技術を持ってんのに、なんであんなに粗末にして曲を弾くんだろ。あんなに感情を失くして、からっぽの音で……。
普通、演奏者はどうしたって弾く曲に感情を乗せてしまうものだ。弾く自分に、あるいは旋律に酔いしれて、自分なりの音を出すことこそが楽しいのだから。あんなに教科書通りに弾くのはむしろ難しいかもしれない。きっと、とてつもなく器用な人間なのだろう。
晴希はそこまで考えてから、ふと、思う。彼がああなったのには、なにか理由があるのだろうか。
理由――。失恋でもしたか。
あぁ、くだらない。と晴希はかぶりを振った。そんなことはどうだっていい。別にへたくそな演奏者がいようが、金持ちの道楽で音楽をやる人間が演奏者を気取ろうが、自分よりも遥かに上手な演奏者がいようが、晴希はどうだってよかった。それがイケメンでもそうでなくても。さっきみたいに技術ばかりの演奏者は珍しいが、他人がどうあれ、自分は自分だ。彼が晴希と違っても、ちょっと珍しくても、気にすることはない。
けれど、どうしてだろう。晴希はまだ、彼にこんなにも苛立 っている。足早 に地下鉄の駅を目指して歩きながら、まだ耳に残っている彼の奏 でる旋律を思い出しては、また鼻を鳴らす。
そもそも感情を乗せたり、演出するというのはセンスだ。と、すると、彼にはセンスがないのかもしれない。あの長身に似合っていたしゃれた服も、もしかしたら彼女にコーディネートでもしてもらって着ているだけなのかもしれない。そこに意思などないのかもしれない。そう思うと、あの演奏にも妙に納得してしまった。
それにしても正確な音ではあった。あのセッションも悪くはなかった。暇 つぶしにはちょうどよかった――と思ったところで、今日、あの店に行った理由をもう一度思い出す。
明日また、店行かなきゃな……。
ちょうど、地下鉄のホームでは埃 くさい風に乗って、電車が入ってくるところだった。晴希は階段を駆け下りて、一番端 の扉から電車に乗る。その一番端 の席に座って、イヤホンをポケットから取り出し、ケータイに差し込む。指先はすぐにお気に入りの曲を慣れたように探した。ほどなくして、好みの曲が耳元で流れ始めると、晴希はゆっくりと目を閉じた。
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