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2 再会~花菱和臣~
ある週末、金曜日の昼すぎ。大学の講義を終えた、気怠 い帰り道にかかってきた一本の電話は、奇跡の始まりだった。
今日は朝からずっと曇天 だ。まだ昼すぎだというのに、空は今にも日が暮れてしまいそうなほどに暗い。そのせいで、街灯や立ち並ぶ商店の看板はすでに煌々 と光っていた。歩くうちに、湿った土と雨の匂いがしてくるようになって、和臣は今朝の天気予報がバッチリ当たることを悟 る。
降ってきそうだな……。
出がけに折り畳み傘を持っていこうか悩んだすえ、荷物になることを億劫 に思って玄関へ置いてきたことを悔 やみながら、自宅への帰り道を急ぐ。東京都大田区、田園調布にある自宅は駅から十分ほど歩かなければならない。濡れるのは面倒だ。自宅で帰りを待つ、過保護で過干渉な母親にやれ髪を拭きなさいだの、風邪をひくから先にお風呂に入りなさいと、いつも以上に構われることになるのは目に見えている。
花菱 和臣 は地元東京にある、青藍 学院大学に通う三年生だ。同期の中にはすでに就職活動を始めている者も多く、みな、忙しい毎日を過ごしていた。ただし、中にはこれまでと変わらない毎日を、ただぼんやりと過ごしている者もいる。和臣はその中の一人だった。
両親は就職活動を始めるそぶりも見せない和臣を心配してか、その理由を毎日のように問いただしてきたが、最近になって、ついに父親の経営する会社への就職を強く勧 めるようになっていた。まったく鬱陶 しい。けれど、この展開を迎えることは端 からわかってもいた。それに、このまま大学を卒業するだけして、働きもせずにいることが許されるなんて思っていない。そもそも、今後の自分の将来について、なにも考えていない――わけでもなかった。
「はぁ……」
曇天 を見上げ、ため息を吐 く。それから自分の手の平を見つめ、ぐっと握った。和臣は今、捨てきれない夢をこの手の中に握っている。いつまでも夢を追いかけている場合ではない。現実を見なければ。そもそも、自分にそういう生き方は似合わない。全部わかっているのだ。けれど、幼い頃からの夢を潔 く捨て去る上手なやり方を、和臣は知らなかった。
そんな時だった――。不意にポケットに入れていた和臣のケータイが、ブルブルと震え出した。
尾木 先輩……?
電話をかけてきたのは、大学の先輩、尾木だった。尾木はおととし、この青藍 学院大学を卒業していて、今は、社会人二年目。在学していた頃、和臣は彼にずいぶん世話になった――というか、どちらかといえば散々、世話をしていた。それは今もまったく変わっておらず、酒を飲むと少々面倒なことも多くなる男なのだが、普段は毒気 が無く、気さくで明るく、面倒見もいい。とにかく、いい先輩だった。
卒業した後も、彼は時折こうして、酒でも飲もうと誘ってくれる。だから、その日の電話も、おそらくこれまでと同じだろうと思った。声を聞く前から和臣の脳内には、数時間後、馴染 みの居酒屋チェーン店でスーツ姿の尾木と、酒を飲み交 わす自分の姿が思い浮かんだ。
『おう、和臣ー? 元気か』
「はい。尾木先輩、お久しぶりです」
『なんだ、お前も相変わらずのカタブツだなぁ! 今日の夜、暇 だろ?』
「なんで暇 だって決めつけるんですか」
『えっ、まさか予定あんの?』
「……いえ。暇 です、けど」
誘ってくれるのはありがたいのだが、なぜかこの男は、いつも和臣を暇人 扱いする。それにはちょっとだけ癪 に障 った。たしかに、和臣はそんなに友人が多くいないし、バイトもしていない。ひょうきんな尾木のように、会話の中で面白い冗談なんかも思いつかないから、話していてもたいして面白くはないだろう、と自分でも思う。それでも幸い、それなりに容姿には恵まれたので、暇 を持て余 して彼女を作るくらいのことはあった。しかし、大抵 は「一緒にいても楽しくない」と三ヶ月でフラれる。
先月は新記録を出した。告白されて付き合って、一ヶ月でフラれたのだ。思えば恋人らしいことも彼女とはしていない。セックスをする前にフラれたのは初めてだった。
『やっぱり暇 なんじゃねーか。実はさ……、最近すっげえいい店見つけたんだ……! 今日連れてってやるよ』
和臣は途端に眉 をしかめる。笑みを含ませながら、漠然と『いい店』と言ったのが、どうも怪しかった。どうせ、ピンク色の看板を掲 げた明らかにいかがわしい店に違いない。しかし、これまで尾木にそういった店には一度も誘われたことはなかったから、もしかすると、彼は会社の先輩なんかに連れていかれて、すっかりその道にハマってしまったのかもしれない。和臣はため息を漏らした。尾木のことは嫌いではないが、残念ながらさすがにその誘いには乗れそうにない。
「……申し訳ないんですけど。俺、そういう店は嫌ですよ」
『そういう店?』
「あれでしょ。女の子のいる……エッチな……」
ここは公共の場。一応は声量を最小限に落とし、誰かに聞かれていないだろうか、と周囲を見回した。もっとも、そんな会話を誰かに聞かれたところで、どうということはないわけだが、マナーは大事だ。
ところが、それを聞くなり、尾木はケータイの向こう側でぶっと噴き出し、げらげら笑った。
『ばぁか!』
「え……?」
『そういう店も別に嫌いじゃねえけど、今日は違うの』
「違うんですか。じゃあ、いい店って……?」
『まぁ、お楽しみにしててくれよ。お前の好きそうな店だからさ。んじゃ、また連絡する』
俺の好きそうな店――?
なにかイタズラを企 んでいるような声がそう言って、電話は一方的に切られた。
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