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3-3~七瀬晴希~
「あー、疲れたぁ……」
明け方になって店を閉める頃、晴希はぐったりと疲れ果てて、店のカウンターテーブルに突 っ伏 した。愛斗や、ほかの従業員はまだ片づけをしている最中だ。
「ハルくーん。暇 ならテーブル拭いてきてよ」
「無理っす……。おれ今日、HP使い果たしてるから」
「また甘えたこと言って。あーあ、せっかく今日はハルくんの好物の他人丼 、作ってやったのになぁ……」
そのひと言で、晴希はむくりと体を起こす。
「どこ拭けばいいんすか……」
「おっ、素直! ステージ前の方、まだだからよろしく」
愛斗は笑みを浮かべて、ダスターと除菌スプレーを晴希に手渡した。晴希はそれを受け取ると、端 のテーブルから順番に拭いていく。愛斗が作ってくれる賄 いメシは、実に身に染みるようなうまさがあった。バーで凝 った料理を出すことはほとんどないが、それがもったいないと感じるほど、彼は料理が上手だった。
「なぁ、ハル。どうでもいいけどお前、あの犬みたいな奴、どこで拾ってきたわけ」
不意に晴希にそう訊 いたのは、この店のベーシスト、内海 大河 である。
「犬……?」
「犬みたいだったよ。お前に懐 いちゃって、全然離れなかったじゃん」
「演奏中も釘付 けになられてましたしね」
「あぁ、うん……」
さて、彼らにどう説明したらいいものだろうか。そもそも、彼との出会いを語るのは非常に面倒だった。どうせ、なにをどう説明したって、この四人には冷やかされるに決まっているのだ。ところが――。
「でも、かっこよかったな、彼。あのまま、晴希にプロポーズでもしそうだったじゃん」
笑みを浮かべながらそう言ったのは、ドラマーの碓井 滋 だ。
「はぁ……? シゲさん、なに言ってんの……」
「だって、そんな感じだったよ。ねぇ、マスター?」
「うん。でもおれ、一瞬ビックリしちゃったー。二週間前にハルくん、あいつとエッチしたのかと思ったからさ」
それには思わず顔が引きつった。どうせ、そんなことだろうとは思ったが、たぶん愛斗は、セッションとセックスを聞き間違えでもしたのだ。
「やめてくださいよ……」
この途方もなく疲れているときに、笑えない冗談はよしてもらいたい。ところが、大河もそれに続くように言った。
「おんなじようなもんじゃね? あいつ、二週間前にしたお前とのセッションがすごく良くて忘れられなくて、ずっと探してたんだろ」
「おんなじじゃねーし! えらい違いだっつの!」
「な、きもちよかった?」
「大河ぁ……。本気で殴るぞ」
晴希と大河のやり取りを見て、けらけら笑っている愛斗を睨 みつける。実を言うと、愛斗は同性愛者である。彼にはひと回りも年上のパートナーがいて、たびたび、この店にも連れてくることがあった。同性間での恋愛に抵抗のない彼はきっと、今回の件を微笑 ましい、とでも思っているに違いない。
もっとも、彼が同性愛者であることに対して、晴希は嫌悪感など持ったことはない。それはこの店の全員、同じだろう。しかし、偏見 はなくとも、晴希はノーマル。ごつごつした男なんかと抱き合うのはごめんだ。
「おれはノーマルですからね」
「わかってるってば。そんなに怖い顔しないの。あぁ、そうそう。それから帰り際 、彼にハルくんの音楽活動のアカ、教えといたからね」
「あぁ、そうすか……って、えぇ――っ!」
「なに、いつもお客さんに教えてんじゃん」
「おっ、お、教えてるけどぉ……っ!」
たしかにそうだ。晴希はSNSのアカウントを作り、ネット上でも音楽活動をしている。それは愛斗にも了承を得てあり、ベーシストの大河や、ドラマーの滋も同じくSNSを利用し、音楽配信活動をしていた。そういった三人の活動は、多少なりともこの店の宣伝になっていて、集客にも繋がっている。実際、「動画を観て、店へ来ました」という客は少なくない。
また逆に、この店へ来て気に入ってくれた客に、三人のSNSアカウントを教える、ということもあった。ただし、あの花菱和臣という男と、SNSで繋がるのは非常に、面倒である。
「へえ。なに、ハルくんはそうやってお客さんを選 り好みするんだ」
「違うけど……! だってあいつ、なんか面倒くさいでしょ? ちょっと会って、気まぐれでセッションしたからって、その後、ずっと忘れられなくて探すとか――」
「……相当、きもちよかったんだな」
「あぁ」
大河と滋が顔を見合わせて頷いている。
「おい……! あんたらのその言い方は完全に悪意あるよねぇ?」
喚 く晴希を面白がって、ふたりはげらげら笑っている。冗談じゃない。彼はどうせまたそのうち、絶対にここへやってくるだろうに、SNSまで繋がった暁には、鬱陶 しく絡 んでくるに違いなかった。
もういい……! フォローされたらブロックしてやる!
そう心に誓ったが、愛斗はまるで、晴希の思考を読み取ったかのように言う。
「そうやってすぐ怒らない! ハルくん、面倒かもしんないけど、あのアカウントはうちの宣伝にもなるんだからね。言っとくけど、いいお客さんになってくれようとしてる人を面倒とかでブロックしたら、おれにも考えがあるよ」
急に声色 を変え、真剣な目で見つめられてギクッとしたのは言うまでもなかった。まさにそれを考えていたとは口が裂けても言えないが、一応、念のために確認する。
「考えって……?」
「賄 いのおかずが、肉からイワシに代わります」
マジか……。
毎日楽しみにしている愛斗の賄 いメシがすべてイワシに代わるのは極力、避けたいところだ。別にイワシは嫌いではないが、彼の作る賄 いメシから肉が消えるというのは、上京して都内で一人暮らしをする晴希にとっては、とてつもない痛手だった。
「わかりましたよ……」
仕方なくそう答えると、愛斗はにんまりとした笑みを見せ、頷いた。
さて、いつもよりも少し賑 やかな片付け作業が終わって、始発電車で帰る途中、晴希はおそるおそるSNSアカウントを確認する。予想通りだ。音楽活動用のアカウントには二件の新着通知があった。そこには『かずおみさんにフォローされました』とある。なんと、ご丁寧にダイレクトメッセージまでくっついているではないか。
絶対あいつじゃんか……。
深いため息を吐 き、嫌な予感を確かに感じながらも、晴希は愛斗の言葉を思い出し、仕方なくフォローを返した。メッセージはあとでゆっくり見ることにして、ひとまずイヤホンをすると、彼の配信動画を眠い頭でぼーっと眺める。動画は二十件ほどあったが、すべてがピアノの演奏だった。
和臣の演奏を聴きながら、彼の細く長い指が鍵盤 の上で軽やかに踊るのを見つめる。音はやはり正確で、わずかな狂いもない。晴希はピアノは詳しくないが、彼が技術的に高いものを持っているということは明らかだった。ただし、やはりそこに色はない。感情が乗っていない、からっぽの音だ。だが――。
あれ……。これだけちょっと違う、かも……。
それは最新の動画だった。日付を見ると、つい二日前に投稿されたもののようだ。たしか、これはとても有名な音楽家の曲だったはずだが、クラシックに疎 い晴希には、その音楽家はおろか、曲名もわからない。
ええっと……。曲紹介とか、なにか書いて――。
指をスライドさせて、動画の紹介文を見るなり、晴希は目を瞠 る。音楽家はリスト。曲名は『愛の夢』とある。途端にじわりと全身に汗が滲 み、ごくりと唾 を飲んだ。動画紹介の最後の一文にはこう記してあった。
『最近、とても素敵な人に出会ったおかげかな。指がとても軽いです』
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