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3-2~七瀬晴希~

 やがて曲を弾き終わると、指笛とともに拍手が鳴り響いた。同時に「ハルくーん!」という明るい声が飛んでくる。愛斗の声だ。  先ほどまで、彼は忙しく笑顔を振りまきながら、カウンター内で注文の酒を作っていたが、ようやくそれが一段落ついたらしい。彼は晴希と目が合うと笑みを浮かべ、(あご)をしゃくった。そろそろ休憩しろ、という意味だ。  やっと、この青年の視線から解放される、と内心ホッとしながら、晴希はステージを降りる。ところが、それを待ち構えていたかのように青年は駆け寄ってきた。おかげで声をかけられた瞬間、露骨に怪訝(けげん)な顔を見せてしまった。 「あの、ハルキさん」 「……なんでしょう?」 「お疲れさまです。今日はもう演奏、終わりなんですか」 「いや。これから休憩行くだけっす。うち、閉店は五時なんで、それまでは弾くんで」 「五時まで……! うわぁ、それはすごいですね!」  満面な笑みで話す彼を、ジトっとした目で見る。晴希は今、明らかに友好的ではない表情も態度も見せているはずなのに、彼はどうもそれを察してくれない。とは言っても、ほかの客の前で「鬱陶(うっとう)しい」と言うわけにもいかないのだ。晴希は参ってしまった。 「あの――……それで、おれになにか?」 「いえ、なにかってほどじゃないんです。ただ、お礼が言いたくて――あっ!」  話の途中で、彼は突然、思いついたように声を上げた。晴希は思わずビクッと肩を震わせる。 「ハルキさん。俺、名前をまだ言ってませんでしたよね」 「名前……? いや――」  視界の(すみ)では愛斗がニヤニヤしながらこちらを気にしていた。これは嫌な予感がする。きっと彼はろくでもないことを考えているに違いなかった。おそらくだが――なにか突拍子(とっぴょうし)もない勘違いでもしているのだ。晴希はため息を()く。 「俺、ハナビシカズオミといいます」 「はぁ……」  にこやかな彼を目の前に頬を掻く。別に名前など知らなくてもよかったし、興味もない。しかし、彼は店の紙コースターの裏側に、いつの間にか自分の名前を書いているではないか。それを差し出されて、しぶしぶ、晴希はそれを受け取った。 「お花に菱形(ひしがた)(ひし)って書いて、花菱(はなびし)和臣(かずおみ)は平和の和に、大臣(だいじん)(じん)です」 「はぁ……。ご丁寧にどうも……」  花菱、和臣……。 「俺、ハルキさんのこと、忘れられなかったんです。二週間前にしたセッション、すごくよかったから」 「あぁ……」 「ここのギタリストさんだったんですね。どおりで上手なわけだ」 「いや、まぁ……、恐縮です」 「あのときは本当にありがとうございました。俺のピアノをあんなに()めてくれた人なんか、今までいなかったから、俺、すごく嬉しくて……。また会えてよかった……」  参ったな、こいつ……。  和臣というらしい彼は、休憩へ行こうとしている晴希を呼び止めて、ステージの前で話を続けている。一方で、愛斗はまだニヤニヤしながらこちらを気にしていた。また、ベースとドラムだけで演奏が始まった今、背後から視線が刺さっているのも、間違いなく気のせいではないだろう。実に面倒だ。  そもそも、晴希はあの日、彼を()めてなどいなかった。どちらかといえば(けな)したのだ。『つまんない演奏』としっかり言ったではないか。彼はなにか、記憶違いをしているのだろうか。 「あの、おれ、()めましたっけ……?」 「()めてくれましたよ。すごく上手だと言ってくれました」 「あぁ、それは――」  この場でまさか「あれはあなたを(けな)したんですよ」とは言えなかった。もっと言えば、それは事実でもある。たしかに彼のピアノは下手ではなかった。非常に正確だった。ただ、それだけだったのだ。  ずいぶん、ポジティブに取ったんだなー……。  その思考回路は(うらや)ましい、と思いながら、ひとまずその場を乗り切ろうとして、晴希はここ一番の笑みを作る。 「そうでしたね。悪いんすけど、おれ、これから休憩なんですよ。おれが行かないと後ろがつっかえるんで、申し訳ないんだけど、この辺で」 「あぁ、すみません……!」 「いえいえ」  カウンター横をくぐって、急ぎ休憩室へと入る。ソファに座って、またため息を()く。すると、くたびれた体がソファに沈んでいく。大好きなタバコを吸う気力も、今はない。たった数時間の演奏でこんなにも疲弊(ひへい)するなんて、これもみんなあの妙な青年のせいだ。  ほどなくすると愛斗がやってきた。すっかりくたびれている晴希を見るなり、彼はくすくす笑いながら、(まかな)いメシを用意して言う。 「ハルくんの熱烈ファンみたいだね、彼」 「放っといてください……」  それから一時間後。晴希が休憩を終えて、再び店に戻った頃、あの和臣という青年はいなくなっていた。連れの男も一緒にいなくなっていたのを見る限り、帰ったようだ。それを確認して、晴希はホッと息を()いた。

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