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FILE 01:水神の棲む沼 01
―――昔、すすき山の巳縄沼 なる沼地に、注連縄のごとき太さの白き蛇の水神あり。
気まぐれに田畑をからし、幼子を沼に引きずり込むなど、まことに恐ろしき神なりき。
或る日、村の男が山へ入りしに、一服せんと煙草に火をつけたところ、
その灰がポトリと落ちし先に、水神の伸ばしし長き舌あれば、
苦しみのあまり水神は男を絞め殺し、怒りのまま村の田を干上がらせけり。
村人、水を与ふるやうに、水神に懇願せるなり。
すと水神、村の若き女を嫁に欲しがれば、村人はみなに語らひて、一人の娘を嫁に行かせけり。
娘が嫁入りせる日、夜もすがら雨降り続き、乾きし田はみるみるうちに水に満ちけり。
それ以来、村人は祠作りて水神様やむごとなく祀り、けして山の中には煙草を吸はざりきといふ。
「巳縄沼に水神のありしこと」
河野稲 郷土史編纂室『河野稲史』第3巻、136貢 より
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「―――吉野忠幸 、さん。ですね。はい、ご案内します」
受付でそう告げた婦警は、先ほどから延々、俺を連れて暗い廊下を歩き続けている。
自分が配属されたはずの捜査第二課のプレートはさっき通り過ぎた。ここじゃないんですか? と声をかけるのもためらわれて、黙々と進む彼女の後を追う。
先月、自分宛てに県警の刑事部への異動通知が届いた。警察官となって6年、地域の交番勤務から地域課へ配属されて、まさかこんなにも早く刑事部へ配属されるとは。
花形部署たる刑事部への異動。脳裏には、栄転の二文字が輝いていた。配属当日のこの日も、緊張と喜びでいっぱいで、受付では無駄に大きな声を出してしまい、窓口にいた婦警を驚かせてしまった。
捜査第二課の部屋を素通りした瞬間は肩透かしを食らったが、なにか別の部屋で手続きなどがあるのかもしれない。
俺は今日だけで何度直したかわからない襟元をもう一度整える。初日の印象は大事だ。刑事部は実力主義の厳しい仕事場だ。
服装は隙なく整えてきているが、どうにも不安がぬぐえない。もともと、目つきがきついせいで、学校に通っていたころはよく難癖をつけられていた。
警察も上下関係にはうるさく、学校ほどでないにしても、先輩の警官にはよく「ちゃらちゃらしやがって」と言われ続けてきた。
もちろん、身だしなみには気を付けていたし、髪の毛も既定の範囲に収まる長さだ。あとは態度でカバーするしかない。
そうこうしているうちに、俺と婦警は建物のはずれまでたどり着き、ようやく脚を止めた。
目の前には一つの扉がある。婦警は静かに、その扉をノックした。
「失礼します。本日配属の方をお連れしました」
「―――あ、はい。ありがとうございます」
中から答える声がする。一人だけだ。
俺はにっこり笑う彼女に静かに黙礼し、緊張の中、部屋の扉をくぐった。
「失礼します、」
部屋の中は狭く、薄暗い。中には人が二人いた。
デスクでPCに向き合っている若い男と、部屋の奥に立っている壮年の男。その、小柄だが頑健な体つきの、慣れ親しんだ姿を見て、思わず緊張を忘れて声を上げた。
「―――前原さん!」
「よう、元気そうだな、坊主」
にかっ、と笑った男は、俺が昔から親のように慕ってきた人で、これから自分の上司となる男。前原だ。
力強く頼りがいのある、朗らかな笑い方は、昔から変わっていない。
前原は、俺の父の昔からの幼馴染で、俺が小さなころから家族ぐるみの付き合いがあった。県警に努める前原と、田舎の駐在に勤務する父とでは、住んでいる場所も離れていたが、それでも年に数回ほど、前原は吉野家に遊びに来てくれた。
正直、昔の俺にとっては、毎日交番で落とし物や自転車盗難の相談ばかり受けている父より、日夜危険な事件とかかわっている前原のほうが圧倒的に憧れの存在だった。
小学校の時に父が早死にした後、前原は以前よりも頻繁に吉野家を訪れるようになり、俺はそんな前原のことを、第二の父親のように慕った。いつか、前原のようにかっこいい警察官になりたいと思うのは、ごく自然なことだった。
反抗期の時分には派手に喧嘩をして、思い切りぶん殴られもしたが、なんだかんだあって結局、前原が憧れの存在であることは変わりない。
警察官になって、刑事部に配属されて、ようやく、目指していた場所にたどり着くことができた。
少し感動しているのを悟られたくなくて、俺は前原に笑いかけ、わざとらしく敬礼をしてみせた。
「本日より捜査第二課に配属されました、吉野忠幸巡査部長です。よろしくお願いします」
「はは! 一丁前に挨拶しやがってまったく。いいからこっちに来い」
顔中で笑う、という言葉が似合う豪快な笑い方で、前原は俺を歓迎してくれた。背中をバシバシとたたく手の強さも変わらない。
前原は、部屋の中にいるもう一人の人物のもとへ、俺を連れて行った。PCの前に座っている男性が、座った姿勢のままこちらを仰ぎ見る。明るい茶髪の似合う若い男だった。最近のアイドルにこんな奴いたかな、と思ってしまうような、小綺麗な顔をしている。
「こいつは浦賀だ。浦賀洋一 。巡査だ」
「どーも、浦賀です。よろしくおねがいしまーす」
へらっ、と笑う浦賀に一瞬面食らった。序列の厳しい警察界隈において、目上の人間に対する礼儀は厳しい。多分、ほかの真面目な警察官相手なら、怒鳴られたうえ厳重注意だ。
だが、そもそも俺は敬われることには慣れていなかったので、別段怒りを感じなかった。むしろ、人懐っこく笑う浦賀に親しみを感じた。
「よろしくお願いします。浦賀巡査」
「呼び捨てでだいじょぶっすよ、吉野さん。刑事部の人間なんてみーんな俺に、敬語なんて使わないっすよ」
「そうか? じゃあ遠慮なく」
お言葉に甘えて敬語をやめると、浦賀は満足そうに、にっこり笑った。
そんな浦賀の横をすり抜け、俺は前原に連れられるまま、部屋の奥へといざなわれる。部屋の左奥には、パーテーションで仕切られたスペースがあり、中には簡易的なテーブルと椅子が置かれている。灰皿や観葉植物なども置かれていて、どうやら簡単な応接スペースのようだった。
俺と前原は、対面でその椅子に腰かける。きゅっとひざを詰めないといけないような、手狭な空間だった。
何となく、この部屋に入る前から感じていたもやもや感がよみがえる。ここはなんの部屋なのだろうか。捜査二課の部屋は、ここよりもずっと大きな部屋で、すりガラスつきの壁の向こうからは、大勢の捜査員の気配が感じられた。この薄暗い部屋とは、同じ署内での物理的な距離も、雰囲気も、遠くかけ離れている。
先ほどからずっと疑問だった。ここはなんの部屋だ? 捜査二課に配属と聞いていたはずなのに、どうしてこんな、前原と浦賀の二人しかいないところに連れてこられたんだ? じわじわと、違和感が強くなる。
「あの……前原さん。俺、捜査二課配属って聞いたんですけど、」
「ああ、捜査二課だよ」
「ええっと……他の人は、」
「二課の大部屋にいるぞ」
はあ、という声しか出なかった。そうだろうな、部屋を通り過ぎてきたからわかる。
そんな俺の様子をみて、前原が頭をかきかきぼやく。
「坊主が思ってることはわかってるよ。なんでこんな狭っ苦しい部屋に、二人しか捜査員がいねえんだってな」
ああ、もう坊主とか呼んでちゃあ駄目だな、公私混同だ。ぐにゃぐにゃぼやいて、前原が続ける。
「ええと、吉野巡査部長。俺たちは捜査二課だが、その中でも、ちっと特殊な立場でな」
「はぁ、」
「俺と浦賀、そしてお前は、正式には、捜査二課、特殊捜査支援班、所属だ」
「とく……は?」
大雑把でがさつな前原に似合わない、小難しい肩書が出てきた。なんだ、その怪しげな組織は。異動通知には、そんな名前はどこにも書いていなかった。―――特殊、捜査支援班?
「き、聞いてないですよ。そんなこと」
「ああ、言ってねえもの」
しれっと言う前原。とっさに口を開いて何か言おうとした俺を制して、前原が続けた。
「捜査二課と言っても、実際はいくつかの班に分かれて動くっていうのはお前も知ってるだろ」
それは知っている。刑事部の課に所属する警察官は、その中でもさらに細かい班に分かれて、捜査を行う。警察関係者でなくても、刑事ドラマを見る人ならだれでも知っていることだ。
「その中の一つだよ、支援班っていうのは。異動通知にそんな細けぇとこまで書かんよ。それに―――」
ふっと口をつぐんで、前原は目線を横に滑らせる。次にこちらを見たときの前原は、俺のあまり見たことのない、腹の底が伺い知れない表情をしていた。
「この班は、表向きには存在してないからな」
「……え?」
しばらく言葉を頭の中で吟味して―――それでも、理解できなかった。“表向きには存在していない”?
前原は、心の準備をするように一つため息をついた。そして語られた内容は、俺の想像をはるかに超えるものだった。
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