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番外編:冬に青い春1
* * *
そのきっかけは突然で。
『奥寺くん、映画とかに興味ある? 良かったら一緒に見に行かない? 半額券貰って』
『映画、ですか?』
『一人で行くには心細くてさ。その映画、見に行こうと思ってたやつで。奥寺くんは気軽についてくるってだけでいいから。どうかな?』
迷う心にだめ押しだと言わんばかりの両眉を下げる攻撃とも思える仕草に、奥寺には首を縦に振る選択肢しかなかった。
明滅する大きなスクリーン。柔らかな雰囲気のラブストーリーが流れる。周囲は女性客ばかりで、だが照明が落とされてしまうとその内容に目が釘付けになる。ファンの間では大評判な、奥寺がずっと観たいと密かに思っていたものだ。
日曜日。奥寺は書店員の柏木と揃って並び、約二時間の映画を堪能することとなったのである。
「――あ〜幸せ」
感無量といったような言い方に、奥寺も同意した。
「実写化とか不安しかなかったですけど良かったですね」
「うん。奥寺くんと見れて良かった」
少々ずれた受け答えに目を剥いてしまう。
「え、あ、そ、そうですか?」
「うん。一緒に観てくれる人、奥寺くんぐらいしか思い浮かばなくて」
「ぁ……喜んでくれたのなら、良かったです……」
柔らかな笑顔に、こちらまでも口角が緩んだ。
もうすぐ三十路だという彼は年齢を感じさせない、整った顔立ちの柏木だが、BLという一般的には特殊なジャンルを好きな一面もある。今回観た映画もそういうもので、柏木が奥寺を誘うのはある種の必然性が隠れていたのであった。
「俺も、柏木さんと一緒に観れて嬉しかったです」
「あぁ本当? すっごく嬉しい」
「……っ」
今日一番の笑顔に奥寺の心臓が音を立てる。
……最近、なんだかおかしいと思うようになった。
柏木を見ていると、まるで、恋をしているみたいに心臓が高鳴って。暑くもないのに頬が火照る。
どうしてだろう、と深く考えることが多くなっていた。
「この後も時間ある?」
「へっ?」
思いがけない問いに間抜けな声が飛び出す。
「映画に誘っただけだったから。時間があるなら、お昼も一緒にどうかなって。贔屓 にしてる喫茶店が近くにあるんだけど、料理も美味しくて」
「きっ、さてん」
なんとお洒落な所に出入りしているのだろう。
柏木のことを更に大人だと認識して、奥寺は子供っぽく頷いた。
「はいっ、行きたいです!」
* * *
からん、と涼やかな音色が鳴る。と、店の主人らしき初老の男が顔を上げた。
「――あら、柏木ちゃんじゃないの!」
厳格そうな外見が途端に柔和になり、人懐っこい笑みを浮かべる。
「こんにちは、マスター」
「マスター……?」
思わぬ呼び掛けについ口に出してしまった奥寺を振り返って、柏木が笑う。
「もしかして例の子かい?」
「あ、はい。連れてきちゃいました」
「やっと見せてくれる気になったんだ。柏木ちゃんの秘蔵っ子」
「ふふ。可愛いでしょう?」
手を引かれ、柏木の隣に並ばされる。
状況を上手く判断できぬまま、マスターと呼ばれた男性を見ると、にんまりとした笑みを向けられた。
「実に柏木ちゃんが好みそうなタイプだ!」
「マスター」
「はいはい。好きな席に座っちゃって」
「奥寺くん、こっち」
二人の間で視線を右往左往させていた奥寺はまた引っ張られ、人通りが見えない店の奥に連れていかれる。
「ここ座って。何食べる? 僕のおすすめはね、」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「うん?」
「ま、マスターについては何もなしですか」
なんだか分からないままうやむやにされそうな気配がして追及すれば、案の定、柏木は困ったように眉尻を下げた。
しかし、初対面でこんなにも唖然としたのは初めてである。
マスターの外見と中身のギャップももちろんだが、柏木の言葉にも奥寺の感情は大仰なまでに反応を示したのだ。
『可愛いでしょう?』
まだ脳内で再生できる。
柏木は自分のことを可愛いなんて思っているのだろうか。
考えれば考えるほど、妙に恥ずかしくなって顔を隠してしまいたい気持ちになる。
きっとこれは自惚れなのだろうけれど、柏木を真っ直ぐ見ることができない。
「マスターとは、長い付き合いで……」
そうとは知る由もない柏木は、困った様子で言う。
「奥寺くんのこと話題にしたことがあって、それで会ってみたいって言われてしまって。ごめんね? 勝手に。でも決して悪口を言ってたとかじゃ――」
「俺のことって……何を話してたんですか?」
他人に話すような出来事が果たして今までに幾つあっただろう。
純粋な疑問だったが、些か声が固くなっていたらしい。
柏木が慌てたように取り繕ってきた。
「ご、ごめんっ。いないところで話題にされるなんて嫌だよね、ごめんね。ただ僕は、こんな僕に優しくしてくれる人がいるってことを話したくて……毎日のように本を買いに来てくれて、ただの店員なのに笑顔で話しかけてくれて。嬉しくて……すごく可愛い子がいるって、話してしまったんだ……本当に、ごめん」
「…………柏木さん」
「う、うん? お詫びに何でも奢るから好きなもの――」
「柏木さん、好きです」
「…………へ?」
「やっぱり俺、柏木さんみたいな人、好きです」
「……」
目の前の瞳がぱちくりと瞬く。
その様子が年齢に似合わず可愛らしく、奥寺は自分が何を口走っているのか理解もせずに続けた。
「なんだか最近おかしいんです。柏木さんを見ると嬉しくなったり、声を聞くだけで胸がドキドキしたりして……。今も」
「っ」
「可愛い、って言われただけなのに……男としては嬉しくない言葉なはずなのに、嬉しい」
「奥寺、くん」
「これって何ですか?」
「お、大人をからかっちゃだめだよ!」
「からかう?」
「勘違いしてしまうよ」
「勘違い……」
――恋、だと思っていいのだろうか。
恋愛漫画や小説は飽きるほどに見てきたが、奥寺自身、恋愛経験はないに等しい。だが、自分が抱く感情はそれらの中で恋に悩む登場人物と同じ心情なのだ。
つまり、自分は恋をしている。柏木に。
創作はフィクションだが、過程は現実を当て嵌めても頷けるものがあるだろう。ならば――。
白石に何度好きだと言われても揺らがなかった心が、柏木が自分の名前を呼ぶだけで感情が波のように上下するのだ。
「柏木さん」
「……おく、でらくん」
気付けば勝手に口を開いていた奥寺は時間など巻き戻せないし、今をなかったことにもできないことを知っている。
柏木の返答を待つしかなかった。
彼は開いたメニュー表に視線を落としたきり、何も言わない。
客は奥寺と柏木だけで、マスターはどうしているのか、窺い知ることはできそうにない。柏木が喋る一音を聞き逃さないように、目を逸らさないようにしていたからだ。
しかし、次の瞬間。柏木の答えは、予想していたものと違う言葉であった。
「白石くんは?」
「……白石?」
ここにはいない、自身との交流もないはずの同級生の名を口にされ、奥寺は怪訝な顔をしてしまう。
二人が会ったのも、あの初詣の時が最初で最後だろう。
「どうして白石の名前が……?」
すると、柏木こそ分からないような表情をする。
「え、だって白石くんは……――」
柏木は次の瞬間ぐっと言葉を飲み込む。
焦燥感を煽るような雰囲気に、奥寺は知らずと前のめりになっていた。
「てっきり白石くんは、」
「白石がどうかしたんですか? 今俺は柏木さんと話してるのに」
「……」
見つめられる。
何かを考えているのは一目瞭然で、だが柏木は何を言うでもなく、黙ったままだ。
そうして白石の名が出されてから空気は悪くなるばかりで、せっかく頼んだハンバーグ定食の味もよく堪能もせずに飲み込んでいた。マスターが空気を読んで沈黙を破かなかったのも、相当な二人の雰囲気を感じ取っていたのだろう。
その日、妙な別れ方をして、奥寺は書店から足を遠ざけることになったのだった。
* * *
「――奥寺、どうした?」
異変に気付いたのは、言うまでもなく白石だった。
新学期を迎え、二年生になった奥寺は運が良いのか悪いのか、白石と同じクラスになった。顔見知りはいれど、仲のいい同級生が他にいなかったのだから、前者だろうか。運が良かったのだ。でなければ、どんなに重い溜め息を吐いても、こんなふうに席までやって来て顔を覗き込んでくるはずがない。
「うーあー」
「奥寺」
机に突っ伏したまま顔を横に向けた奥寺と目を合わすように、白石がしゃがんで視線の高さを合わせてくる。
「……白石、やっぱり女子が言うようにイケメンだな」
「……? 本当にどうした」
褒めてやったというのに、彼は怪訝そうに眉を寄せて奇妙なものでも見たと言いたげだ。
ますます溜め息を溢す奥寺へ、白石は逡巡し、くすっと笑う。
「そうだ、奥寺。デートしよう」
「デートォ?」
「そう、デート。放課後デートだ」
* * *
「白石、とうとうこっちの道に進んだの?」
「いや、全然。お前好きだろうと思って。調べてみたら結構評判いいじゃん? なら観てもいいかなって」
「あ……そう」
手中にあるのは、いつか観た温かく柔らかなラブストーリーの、顔のいい男性俳優が互いに背を向け双方に手を伸ばしている構成が目を引くパンフレット。
そう、あの日、柏木と観た映画である。まさかもう観たとは言えず、白石と二回目の鑑賞となる。
そうとは知らず、白石はどこか楽しそうで。
それが奥寺を何故か苦しい思いにさせる。
* * *
約二時間の上映を終え、エンドロールが流れる中、周囲は余韻に浸るでもなく足早に席を立ちはじめる。
「奥寺、」
「っむり」
白石が酷く困っていると理解しながらも、ぐずぐずに涙に溺れた顔を上げることはできなかった。
【来世の君を知りたい】
そう題が打たれた映画は、最後まで結ばれることはない物語 だ。互いに惹かれながらも伸ばす手をあらゆる理由によってことごとく離れさせられてしまう。一見、現実を感じさせない題名は主人公となる男が呟く最後の台詞に起因していた。
どうしてこんなにも胸を締め付けるのか。涙が溢れてくるばかりで自分でも訳が分からない。
映画に感情移入しているのか、はたまた……。
「苦しい……っ」
「――ありえない、同性とか」
「――ちょっとびっくりしたね」
「――ちょっとじゃないって。あー最悪な気分」
不意にそんな会話が奥寺の意識を全て持っていった。
声からして女性だが、映画の内容に少なからず衝撃を受けているようで。きっと、よく知らないで、足を踏み込んでしまったのだろう。終始最悪だと言ってその嫌悪に満ちた声が、聞こえなくなった。
「そんなに苦しいのか?」
静かになったその場所に白石だけの声が響く。
「苦しい、よ。みんな、みんな俺を苦しくさせる……っ」
――全然そんなことない。白石の思いやりはちゃんと感じてる、と言いたいのにその言葉を紡げないのは絶えず漏れる嗚咽のせいか。
「元気出してもらおうって連れ出したけど、逆効果だったみたいだな。奥寺、」
「――お客様」
誰かが割り込んでくる。
「申し訳ありませんが、既に上映時間を終えていますので……」
「すみません。連れが少し体調を悪くしてしまったみたいで」
冷静に館員と思われる人物と白石が会話しているのがどこか遠くに聞こえた。
「大丈夫ですか? 救護室が完備されているので、よろしければそこでお休みになられますか?」
「あ、いえ、大丈夫です。すぐに出ますから――奥寺、行くぞ」
強引に腕を取って、彼は奥寺を立ち上がらせる。館員に口を開かせまいと素早く映画館を出た白石の歩みは、しばらくして止まった。
その頃には奥寺の涙もすっかり塞き止められていて、ただただ泣き腫らした顔を誰にも見られたくなくて俯くばかりだ。
「奥寺」
「……ん」
人影が遠退く、大通りから外れた小道で足を止めた白石は、人がいないことを良いことに道のど真ん中で口を開いた。
「まだ、苦しいか?」
「……わかんない」
「その苦しさって……奥寺を苦しめてるのは、俺、だったりする?」
「……白石だけじゃない」
柏木も、映画も、最悪だと呟いた女性も。理由は判然としないものの、全てに苦しく感じてしまう。
気を緩めたらまた泣けてきて、すんと鼻を鳴らせば、
「俺、最低な奴だ」
自己嫌悪と反省がない交ぜになった感情が目の前の彼から紡ぎ出された。
「俺がしてたことは奥寺を傷付けていたのかもしれない。俺は、奥寺を苦しめる為に好きになったんじゃないよ」
「……」
「ずっと勘違いしてたのかもしれない。BL好きだからって、男が好きってわけじゃないよな。ごめん、奥寺」
「……っ白石は、何も悪くない! 自分でもどうしてこんなに苦しいのか、泣いちゃうのか分からないんだよ」
「でも負担だっただろ? 俺が好きって言うのは必ず奥寺が一人の時だ。それがいいと思ってた。だけどそれは奥寺を苦しめてただけなのかもしれない」
「……っ」
じわじわと、塞き止められていた涙が決壊寸前であった。
何が苦しいのか、何が悲しいのか。奥寺が見るもの全てが苦しく、悲しい。けれど訳が分からなくて、自分の感情ではないみたいで。
「奥寺が泣くのは見たくないよ、俺」
一歩二歩、近寄ってくる白石がいやにスローモーションに見え、奥寺は顔を隠すことも忘れ、ただその様を見ていた。
ふわり。瞬間、白石の匂いが、鼻の奥をつんとさせるのだった。
「ふ……ぅっうぅ」
「奥寺」
「し、しら、白石……っ」
「好きな人、いるだろ? 俺じゃない、誰か」
抱き締めてくれる腕は温かいのに、その言葉は氷の冷たさのように強張っていた。
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