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番外編:冬に青い春2
* * *
【シェイクスピア】
その喫茶店は夜になるとお酒を扱うバーに変身する。客層もぐっと高まり、様々な企業のお偉い方が集まる社交場と化す。
その中で、カウンター席に陣取る比較的年若い男は琥珀色の液体が入ったグラスを片手に、熱く火照った頬をひんやりとしたテーブルに押し付けていた。時折、うーと唸っては身動ぎする。
「柏木ちゃん、そのくらいにしておいたら?」
厳しそうな外見に反して、柔らかすぎる声音を耳にして、男──柏木は酔った顔を上げ、ぼんやりと店主である初老の彼を見つめた。
「マスターぁ、僕は、不甲斐ないばかりで……」
「何があったのか分からないけど。麦茶に変えてあげるから」
「やだ。今日は飲みたい気分なんれす」
「こっちこそイヤだわ。舌回ってないじゃない」
心地よい低温をBGMにグラスに残っていたお酒を一気に煽る。
それを見たマスターがあーあと呆れたような声を漏らして、呼ばれた客の方へ行ってしまう。
その姿がついこの間の出来事を思い出させて、より柏木を酔いたい気分にさせた。
「僕は……僕は」
「――こんばんは」
「へ……?」
「一人で飲んでるの?」
「は、はぁ……?」
ふと、柏木に声をかけてきた人物があった。
長めの髪を緩く後ろへ撫で付け、目元の黒子が印象的な男である。歳は、三十路近い柏木とそんなに変わらないように思える。童顔な柏木と比べれば、遥かに年上の大人に見えるが。
彼は笑顔でこちらを見つめ、話しかけてくる。
「ずっと見てたんだけど、可愛いなと思って」
「かわいい? ……僕が、ですか?」
「君以外に誰がいるの」
「……」
その瞬間、酔っていた頭が急激に冷めていった。
これは望んでない展開だと悟り、柏木は気を引き締める。
「可愛いと言われても嬉しくありません。そういうのは女性とか、本当に愛らしいものに言うべき言葉です」
口調も強めに。
――ナンパなど御免だった。
「まさか。今は可愛いという言葉は全世界共通だと言うじゃないか。ならば、可愛いも何億通りあると思わない?」
「……っ」
太ももに男の指が這う。明らかに誘う仕草で。
柏木は心の中で溜め息を吐く。
ときたまこの店に現れるこの手の輩には何度も会ってきたが、ここで靡 く自分ではない。
……自分には、心に決めた相手がいる。
「やめてください」
「どうして?」
「貴方が好みではないからです」
「っ! ……ふふ、手厳しいな」
「――こら、牧田 くん。何してるの。私の店はそういうのを許すような緩いところじゃないんだけど?」
「おや、マスター」
「第一、嫌がってるんだからやめなさい」
「ふふっ。残念」
気が変わったら声をかけてね、と爽やかささえ感じさせるほどの軽さに柏木は顔をしかめる。せっかくの気分が台無しだ。
「マスター、ありがとうございます。助かりました」
「いや、可愛い柏木ちゃんの為だもの。なんにも苦じゃないよ」
「……ふっ」
同じ可愛いでも言う人が違うだけで、嫌悪を感じたり逆に笑えたりしてしまう。それが好意なのだろう。
「マスター」
「うん?」
「申し訳ないですが、麦茶、下さい」
「はあい」
安心したような笑顔を向けられて、柏木は小さく息を吐く。
自分は何しているのだろう。
上手くいかないことに落ち込んで、悩んで、嫌になって。そこから人の力を借りなければ立ち上がることもできないなんて困った体である。
よく見る、人間は一人では生きられないという名言は案外真実だ。
「はい、麦茶。大丈夫? 頭痛くない?」
「大丈夫ですよ。これ飲んだら帰ります」
「それはいいけど……。どうして無理をしてまで酔う必要があったの? 柏木ちゃん、仕事で失敗してもお酒の力は借りたことないじゃない」
「……」
「なに」
「いや、よく知ってるなって」
「何年の付き合いだと思うの! お互いの異変にいち早く気付くぐらいには仲、いいでしょ」
「はは、そうですね」
「で。柏木ちゃんをそんなふうにさせるのは、この前一緒に来た子でしょう?」
「…………はい」
普段は酒の力を借りるなんてことはしない柏木である。今日だって浴びるように飲むつもりはなかった。
だが、一人で黙ってちびちびと飲んでいると、思い出すのは数日前の出来事で。忘れたくない思い出になるはずだったのに、その様相を瞬く間に変えてしまった日曜のこと。
「なんか雰囲気が変だと思ってたけど……」
「やっぱり分かりましたか? すみません、お店の中でああいうふうになるつもりじゃなかったんですけど。……思わず、汚いところが出ちゃったんです。そのせいで、彼を傷付けてしまいました」
何度も脳裏をよぎる、“彼”の別れ際の表情。
「僕は大人なのに子供っぽいことばかりしてます」
「……そう」
マスターが相槌を打ってくれる。
「でも、生きていれば汚いところも出てくるよ。人生ってそれを受け入れてくれる人を探す旅でもあるんだよ、きっと。だから隠すことはない。柏木ちゃんの汚いところなんて可愛いものだよ」
「……はぁ」
と、マスターの目がみるみるうちに見開かれていく。
「ど、どうしたんですか?」
何か驚くようなことでもあったかと問えば、マスターは一瞬狼狽 えつつも苦笑を浮かべた。
「いやね、本当にあの子のことが好きなんだと思って」
「……はい。でもその言葉は、最初に奥寺くんに聞いてほしいから」
「あらぁ。本気なんだ? 相手は高校生だっけ」
「はい。三十路のおっさんが高校生相手にどんな感情抱いているんだって話ですけどね」
「柏木ちゃん」
「はい?」
少し怖い顔をしたマスターは小さい子に言い聞かせるような早さで言った。
「自分を下卑 る、それが一番やっちゃいけないことなんだよ」
「……でも、年の差は変えられない事実ですよ?」
「だからって下卑る理由にもならない、そうでしょ? 人を好きになって何が悪いの」
「うーん」
「うーん、じゃないっ。大人だって自覚してるんでしょう? だったらどれだけ傷付いてもまた立ち上がる術は身に付いてるんだから、思うままにやってみなさい。あ、でも無理矢理はだめよ?」
そう言い、再度他の客に呼ばれ柏木の前から去っていってしまう。
麦茶を一口喉に流し込んだ柏木は嘆息する。
人生の先輩だけとあってマスターから発せられる言葉には、目に見えない力があるようなのだ。無論、役者が吐くようなくさい台詞もたまにあるのだが、それが笑いを誘って元気にしてくれる面もある。
マスターの人柄もあり、この店には様々な客が集まることが考えずとも分かることだった。なんせ、自分がその一人なのだ。
しかし、悩みは柏木の内に巣食ったままで。
手持ち無沙汰にグラスの表面を撫でてみるも、何かのきっかけになるわけではない。
ここには彼もいないし、呼べもしない。
何故なら、連絡先を知らないから。二人は、客と店員の関係でしかないのである。
その壁を壊したくて誘った日曜の結果があれでは、もう彼は自分の目の前に現れないかもしれない。数日経った現在、彼の姿はまだ見ていないのであった。
「……」
好きな人に、好きだと言われて怖じ気付いたのは――柏木が大人である為だろう。
「――ねぇ、柏木チャン?」
「! ……まだいたんですか」
唐突に突っつかれた肩に反応してそちらを見ると、誘うことに失敗して自身の席に戻っていった男が再び近くに立っていた。今度は隣に座る有り様で、柏木の嫌そうな顔が見えていないのか、依然と笑顔で喋りかけてくる。
「酷い言い種だね。でもそんなところも素敵だ」
「……。牧田さん、でしたっけ?」
「新二 で構わないよ?」
「“牧田”さん。僕に構わないで下さい。今日は一人でいたい気分なんです」
「つれないねぇ」
「はっきり言って迷惑です」
「そこまで頑なな理由は、僕の“名前”が原因だろう?」
「……!」
「マスターが名前を口にした時、僅かに顔色を変えたよね? すごく些細な変化だった。でも、嘘を見破るのが仕事の探偵の前でする仕草ではなかったね。……僕もその反応を見るまでは自信なかったけど……、柏木耀行 、その名前を忘れたことは一度たりともないよ」
『――ユキくん!』
『――ユキくん』
『――ユキくんとの約束、ちゃんと守るね――』
「牧田、新二さん……。杏佳 のお兄さんだったんですね」
「君にお兄さんと呼ばれる筋合いはないし、杏佳を呼び捨てにしないでほしい。君の愛は嘘だったのだから」
「……」
「五年、五年だ……やっと君を見つけた、柏木耀行」
マスターが止めに入る声が聞こえた気がした。
しかし構わず、柏木は真っ直ぐに牧田の睨むような眼差しを受け止めていた。
忘れたくても忘れられない記憶。酒に溺れたとしても片時も離れない、姿、声音がある。それは、
「さっきの話、悪いけれど聞かせてもらったよ……。僕は許さない。杏佳を不幸にして自分は幸せになろうって言うのか? そんなの、僕が許さない……ッ」
柏木の過去の亡霊と言ってもいい、変えられようもない思い出の正体だ。
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