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番外編:冬に青い春3
* * *
何かが変わってしまった。いや、何か、なんて朧気ではない。奥寺の日常が、変わってしまったのだ。苦しいと泣いてしまった日から、何もかも。
今思えば、あれは日常が崩壊していく凄まじいまでの崩落の様子であったのだろう。今はただ……何もなくなった場所で、日常という形を成していた欠片を呆然と見つめている。
「はああぁぁ」
一人廊下を歩き、目的もなくさ迷い歩く。今になって運動系の部活に入っておけばよかったと後悔しても遅い。グラウンドを見渡せば白石を発見してしまうし、目を逸らせば柏木とのことが頭をよぎる。加えて今回のクラス替えで一緒になったのはあの高宮湊 。彼は仲の良い三人とは綺麗に分かたれてしまったようだが、奥寺に差違はないのだ。奥寺を悶々とさせるのは高宮である。
もちろん、日常が壊れたせいで白石が告白紛いの愛を囁いてこなくなったし、柏木とは書店に足を運んでいないのだから会ってもいない。悩みの種はたくさんあるのだが……。
「うー……っ!!」
髪の毛を乱雑に掻き回し、ぐちゃぐちゃな脳内を真っ白にしたい衝動に駆られる奥寺だったが、考えることを止めてはいけないと思っていた。
白石が高宮達の関係を理解したように、自分も悩みに悩んで、考えて、考えて。一つの答えを出さなければならない。それができることなのだ。
けれど。
「うぁ〜……ッ!!」
現実はそう、上手くいかない。
「――ねぇ、まっきー。最近、全然萌え補給ができてないのだけれど」
「うわ!」
口を突いて出てしまったのはそんな驚き。
「まっきー」
薔薇園の集いの長、三条がいつの間にか隣に立っていた。
* * *
その名前から既に想像もつきそうだが、由緒正しき家系の生まれで、正真正銘のお嬢様である彼女だが、誰とも違わない教育を方針とする両親のお陰で普通の公立校に通うことになり現在に至るようなのだが、端々から感じ取れる、やはり品の良さというものが彼女から滲み出していることだろう。高飛車ではない、高嶺の花とはまた違う魅力で、女子生徒に人気の先輩である。
「さっ、三条先輩がどうしてここに?」
すると、黒い瞳がこちらを見る。窓から吹き込む風に、同じ色をした長髪が揺らされて可憐さが際立っていた。
「質問しに来ましたの」
「質問?」
「いいですか?」
「ど……どうぞ……?」
普段と違ってにこりともしない彼女に違和感を覚えながらも続きを促す。
と、彼女は奥寺から視線を離し、開け放たれた窓に顔を突っ込むようにしてグラウンドを覗き込んだようだった。
廊下に、この光景を見る者は他にいない。
「最近、まっきーに元気がないって、会内で持ちきりです」
「あ、あぁ、すみません」
「謝るってことは元気がないのですか」
「えぇ? ……あー、いや……」
「歯切れが悪いですわね」
「う、うん……」
一瞬の沈黙。
「別にでしゃばりたいわけではないんですのよ。ただ仲間として、元気がない者を放ったらかしにできる私じゃない」
「三条先輩は、青春ってなんだと思いますか」
奥寺はグラウンドから目を逸らしたまま、彼女の風に揺れる黒髪を見る。
「辞書では、人生の若く元気な時と見たことがありますわ」
「三条先輩、青春を辞書で引いちゃった時あるんですね……」
思わず出た感想が癪 に障ったのか、きっと涼しげな瞳が奥寺を一瞥 した。
「……っ」
「そういう時が青春なのでは?」
「そ、そうですねっ」
「……きっと今は語り合う気分ではないのでしょう。また今度」
「あ、はいっ。すみません、迷惑をかけて」
「迷惑はかけてもらった記憶はありませんわ。ですけど、心配はかけてました」
「あー……ははは」
「じゃあ、まっきー、また明日にでも」
そう言い残して颯爽と去っていく姿は綺麗で美しかった。
「やっぱ背筋はぴっと伸ばすべきか……んん」
窓枠に手を置き、意識しなければしっかりと伸びない背骨に集中しているところへ、新たな尋ね人がやって来る。
「――奥寺! いいところにいた」
「!?」
「ちょっと助っ人として来てくれないか?」
その声、喋り方の特徴、文字と文字の合間の息遣いとか。声優の声音を覚えてしまう感覚に似ていて。
「おい、奥寺」
すぐに、振り向くことはできず、あからさまな態度で振り向いた時、彼は奥寺の心情を痛いほど理解しただろう。
「……白石……」
「俺をじゃなくていい。サッカー部を、ひいては学校を助けると思って! 手を貸してほしい」
「な、何があったの?」
白石が妙な態度をとりはじめるからどうしようか悩んでいたこととか、意味なく泣いてしまったところを見られた気恥ずかしさとかを丸ごと吹き飛ばすような切羽詰まった様子に、奥寺は応えてしまう。
* * *
「何やってんだ、俺」
珍しく焦った様子の白石の後を追い、グラウンドに向かった奥寺。
道中聞いてみれば、マネージャーが不在らしく、代わりにマネージャー業務をしてくれというものであった。そんなの一年生に、と言いたいところだったが、一年生でも戦力である彼らの練習時間を奪いたくないという立派な理由を口にされてしまえば、いくら気まずくとも友人の頼みである、断ることなんてできなかったのだ。
故に、ドリンクを人数分作る為、容器に素となる粉と分量通りの水を入れて上下に振っている最中である。マネージャーをしたことはないが、知識として蓄えてあった為、なんとか力になれるだろう。どうしてなのか、という問いには動機が不純すぎて言うまでもない。
「白石が話しかけてこなかったのも大会に集中したかったからなの……?」
あれほど目を逸らしていた白石を目で追いつつ、ぼーっと考える傍らでてきぱきと作っていく。
一年生ながらレギュラーを勝ち取ったという白石は進級して、部の中心メンバーになっているようである。広いグラウンドによく通る白石の声が、奥寺の意識を離さなかった。
やがて休憩の声がかかり、奥寺は名前分けしたボトルとタオルを両手に次々と呼んで反応した者に渡していった。何も言われず逆に笑顔でお礼を言われてしまうから、いい方法を思い付いたと心中でほくそ笑んでしまう。
そんなことを知ってか知らずか、白石へ最後に手渡せば、こちらを凝視しているのだ。
思わず、何と冷たい声色で放つと視線はそのままにぽつりと呟いた。
「てきぱきしてんのな」
「……?」
どういう意味か聞き返そうと思った瞬間、その会話は三年のキャプテンだという立林 に遮られてしまった。
「――いやー助かったよ。マネージャーいなくなっちゃってさぁ」
「は、はぁ」
直感的に思う……この人、苦手なタイプである。
「まぁ、これも必然っていう感じ? みんなオレのこと愛しすぎちゃってるから」
「白石、この人、ナルキッソスなの?」
「え?」
「……」
真面目な顔をして返されたので、なんでもないと首を振る。
だが、奥寺は立林を怪訝に見ることしかできない。また、彼のせいで数人いただろう女子マネージャーが何らかの理由でサボタージュしてしまい、自分が駆り出されたのだと理解させるこの男に危機感を覚えたのだ。
今にでも自分はイケメンだと自称しそうな立林は他も認める外見をしているだろう、奥寺もそれは素直に認める。しかし、自己陶酔しているところや一つ一つの仕草を見てしまうと、やや性格に難ありだと判断してしまう。恋愛にもだらしなさそうだ。
「奥寺、ありがとうな」
「へ」
ふと、白石に言われる。
「助かったよ。キャプテンもこんなだけど感謝の気持ちは本物だと思うから」
続き、四方八方からお礼の声を向けられた。
気付かぬうちに、囲まれていたらしい。
見れば、なんだか顔の整った集団で、一気に自分の存在を嘆いた奥寺は
「ど、どういたしまして……!」
そう答えるのに精一杯だった。
これは女子がマネージャーをやりたがる訳だと納得して業務に専念していると、部活動終了間際になって見知らぬ人物に声をかけられた。サッカー部のジャージを着ているところからして関係者であるようだが、彼は柔らかな微笑みを湛え、松葉杖をついている。右足には厳重なほどまでに包帯、ギプスが嵌められているのであった。
「初めまして。ぼくは柏木咲麻 。三年三組の四番」
「はっ、初めまして。奥寺です、奥寺まさき」
「まさきくん、ね。うん、覚えた」
にっこり笑顔を向けられ、内心していた警戒が緩んでいく。
立ったままでは辛いだろうとベンチに座ることを勧め、奥寺もその隣に腰を下ろす。
現在試合形式の紅白戦を行っている最中だが、さすがにルールを知らない奥寺が記録をつけるわけにはいかないとなったので待機をしているところだったのだ。
柏木、という名字に特別性を感じているのか、ただ呼ぶことに抵抗があるのか。咲麻と呼んでもいい許しを得た奥寺はさっそくその名を口に出す。
彼の笑顔は、どことなく“柏木”を彷彿とさせる。
「刹 から連絡をもらってね」
「刹、さん?」
「うん。あ、キャプテンのことね。あのくそ女たらし。加えて趣味悪男」
爽やかな見た目と笑顔で悪態を吐くものだから唖然としてしまう。
が、咲麻は特に気にした様子も見せず笑みを浮かべて言うものだから追及はできなかった。
「全然交流もなかった後輩が手伝いに来てくれてるって」
「あ……白石が、友達で……特に用もなかったし、役に立っているか分からないけど」
「立ってないわけがないよ。些細なことでもサポートがあると選手は自由に動けるんだ」
「だと、いいですけど」
「ふ、謙虚なんだね、まさきくんは。かわい」
「あ、あー……先輩はその、足……」
「うん、試合中にね。一生懸命治れって願ってるけど、なかなか。思うようにいかないよね。お医者さんには、もうサッカーはできないかもって言われてるんだ」
「っ……」
顕著に息を飲んだ奥寺の反応を見てか、横でくすくすと笑って咲麻は自由に動く仲間達を目で追っている。
「実はここに顔を出したのも一ヶ月ぶり」
「えっ?」
「あ、冬休み入れたら一ヶ月半? とにかくぼくは一人拗ねてたんだ。ここに来たってサッカーはできないし、役にだって立たない。みんなに心配させるだけで、上級生なのに情けなくて。でも、見ず知らずの君が応援に来てるって知ったら、一応、部に籍を置いてる三年生としては顔を見せないとダメじゃない? だから、来てみた」
「……」
「ふふっ。君はサッカー部始まって以来の功労者かもしれないよ」
「?」
「誰もが腫れ物に触るみたいに遠巻きにして、唯一、刹に誘われても重たい腰を上げなかった頑固なぼくを外に連れ出したんだから。元エースストライカーのぼくを」
「エース、ストライカー」
「そう。白石とダブルエースね。それも原因かな。まだエースはいるんだからぼくがいなくても試合には勝つだろうし、って。本当に拗ねてたんだよ」
「でも……言ってもいいか、分かんないですけど」
「いいよ、なに?」
「一ヶ月半振りに来たのに、特に反応ありませんよね……?」
恐る恐る口にし、試合をしている彼らを見遣る。
咲麻の姿に気付いていないわけではない。現にちらりと視線を寄越すものもいる。キャプテンの立林だってそうだ。
が、至って行動や表情に変化はない。いくら試合をしているとは言え、一ヶ月半も顔を見せなかった仲間がふとそこにいたら中断して駆け寄ってきてもおかしくはないはずである。
なのに、視線をくれれど、声をかけてくる様子もないのだった。……白石でさえ。
そんな奥寺の不信感を、咲麻はやはりくすくすとおかしそうに笑って一蹴した。
「きっと何かしたら逃げるとでも思ってるんだよ。前科があるからね」
「前科?」
「部活に来なくなったぼくをみんなで追い回してきたんだよ。足が不自由なぼくを全員でだよ? さすがにその時は腹が立って、刹を含めその場に並ばせて説教したね。以来、どうしたらぼくを誘き出せるか、考えるようになったらしい」
「それは……なんというか」
「考えなしでしょ?」
「……ハハ」
全員と言うのだから、そこには白石も参加したのだろうか。
松葉杖をつく人間を追い回すだなんて、想像しただけでも悪者は追っている者である。
提案したのは立林だろうかと予想していると、またもや咲麻は声を立てて笑った。
「君、なんだか面白いや」
「え?」
「考えてることが手に取るように分かるみたい。今、ぼくを追い回すように指示したのは刹だと思っただろう?」
「……」
「ははっ! ごめん。っ……うん、本当に面白い」
「…………」
「あ。どうして初対面の先輩にこうも笑われなくちゃいけないのか――」
「!」
「ぷっ、く……はは! 当たった?」
「先輩はエスパーなの?」
意地の悪い笑い方で肩を揺らすから、奥寺の態度にもだんだん敬いが消えていくのは必然だ。
眉を深く寄せる奥寺を見ても、咲麻は口元の緩みを正す気はないようで。
奥寺はとうとう唇を尖らせて顔を逸らした。
柏木咲麻という男はとらえどころがないようだ。
端から見ても奥寺がご立腹だと分かるだろうに何がそんなに彼をおかしくさせるのか、くすくすくすくす笑うばかりなのでますます顔を逸らす。
「――なあに、サクちゃん。楽しそうじゃん」
「あ、女の子のお尻ばっかり追ってる刹じゃん」
「……まだ怒ってるようだね、サクちゃん」
「ふふ。ぼくはこう見えて根に持つ方だよ?」
選手交替を行ったのだろう。試合がまだ続いている中、立林がやって来ると、瞳だけをそちらに向け咲麻は笑んだままだった。逃げる様子はない。
二人だけにした方がいいのかと逡巡していれば、静かに咲麻が口を開いた。
「ぼく、またサッカーがしたい」
「……うん」
この時ばかりは、立林の軽薄な性格は消え去り、真剣さだけが浮き彫りになっていた。
「その為には、この足を治さないと……治るか、知らないけど」
「うん、サクちゃん」
「あと一年もない。それでも待ってるって言ってくれる?」
「うん、待ってるよ。ずっと待ってる」
「……ん。じゃあ、頑張ろうかな」
立ち上がって、くしゃりと笑う。
「でも、ぼくは怒ったままだからね。どうにかして機嫌をとるんだよ?刹」
「え……なんでっ?」
「ふははっ」
「ここはいい感じに終わるべきじゃないの?!」
「いやいや。誰がいい感じに終わらせると思ってるの。今、誰一人としてマネージャーがいないのは刹のせいでしょ?」
「う……」
「そのせいで迷惑を被ってるのは、誰かな」
「ぐぐぅ!」
「はっはっはっ」
「…………」
――なんだか青春の一ページがたった今、目の前で刻まれているらしい。
二人の会話についていけるはずもない奥寺だったが、この一瞬が二人には思い出になるのだと分かった。
こういうのが青春と言うのだろうか。
ぼーっと一心に見つめすぎていると理解していながらも見続けていると。
視線に気付いた咲麻が微笑みながら腰を屈めて、顔を近付けてくる。
「ぁ、先輩?」
「ちょ、さ、サクちゃん? な、なにする気? オレ、イヤな予感がするんだけど!」
「しっ」
立林の声を無視して、目と鼻の先まで距離を詰めてきた咲麻はしなやかな人差し指を奥寺の口の前で立てる。
「なんだか気に入っちゃったよ、君のこと」
「……!」
次の瞬間。
「あああぁぁああぁあぁ!」
立林の悲鳴を横に。
「……」
しっとりとした唇を押し付けられた奥寺は事態の深刻さを忘れ、瞬いた。
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