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番外編:冬に青い春4
* * *
『――はっは、またね』
そう言って咲麻が去った後、立林に肩を掴まれ揺すられたところで奥寺は我に返った。
「あ、れ」
「ごめん、ごめんごめんね! あいつ昔っからキス魔で……しかも自分が気に入ったらところ構わずするから! あぁっ、どうしよう! 思春期の高校生にチューするなんて!」
「……」
「わわわ、帰ってきて奥寺くん! 意識を手放すにはまだ早いっ!」
「――キャプテン……何騒いでるんですか。もう試合終わりましたよ」
「あっ白石! いいところに! お前の友達が大変だよぉー」
「はい? ……奥寺? おい、奥寺。どうした」
「……、た」
「え?」
「ちゅー、された」
唇の感触がまだ残っていて。今でも咲麻のそれが重なっているようだった。それほど彼の唇は柔らかく、弾力がほどよかったのだ。
「どっちがよかった? 俺と、柏木先輩」
怖い顔をした白石が問いかけてくる。
「えぇ? ……えっと、」
「ちょ! 何その会話! 怖すぎるんだけど!」
「咲麻、先輩……? の方が、気持ちよかった、かも」
「ちょっと君も何答えてるの!」
「くそっ」
「もうやだ、オレ二人が怖いよっ」
少々大仰な反応だが、立林の素直な感情を顕著に表しているとも言えるだろう。立林が騒いでいるから何事かと他の部員が集まってくる。しかし、現状を話す立林ではなかった。なんでもないと一言で場を収め、件の柏木が顔を出したこと、柏木に待ってるっと言ったこと、紅白戦を受けての言葉をキャプテンらしく簡潔にまとめて伝えていた。そこだけを見れば立派なキャプテンであり、締め括った言葉は立林の性格そのもので、
「まぁ、このオレについてくれば迷うことなんてないさっ」
なんとも残念なやつだと思うしかなかったのだが。
* * *
無事にマネージャー業を終え、白石との帰り道。とうに陽が暮れ、街灯が点いている。部に所属しない奥寺がこんな時間に帰るのは初めてだった。薔薇園の集いも女子が多い為、陽が暮れる前に門を出るのが決まりだったりするのだ。
いつもこんな時間に帰るらしい白石の歩みは普通の速度で、奥寺といるのが苦痛ではないようだ。
このままでは何も話さずに別れることになるだろうか。
あの放課後から、意味も分からずただ苦しくて奥寺が泣いた日から、白石が愛の囁きを口にすることはなくなっていた。二人きりでいても何の変哲もない会話をするだけで、体に、指先にでさえ彼は触れなかった。
それが嬉しいのか、ほんの少し寂しいのか。奥寺には正直、分からない。
いまだ書店にも通えず、柏木と会うこともない。あの時、口走った告白は本音である――とは、言い切れない自分がいて。会うにはその時の話が出るのは必然で、自分はそれが本当なのか、嘘だったのか、はっきり宣言しなければならないだろう。明瞭としないが故に、会いに行く決心がつかないのだった。
そして。それだけでも既に頭が一杯なところへ、咲麻の存在が瞬く間に飛び込んできたのである。
先程は事の重大さまでに思考が及ばなかったが、大変な事態には違いなく、後々に奥寺は口をつぐむべきだったと気付いたのだ。
どうして自分が好きだと言っている白石に、他の男に口付けされたと素直に言えるだろう。
……言えてしまった数十分前の自分を張り倒したい気分である。
静かな空気中に二人の靴音が響く。白石は口を開かない。自分から口を開くべきか。が、話題は何にしたらいいだろう。
無言の彼の隣で考えに耽っていれば、小さな声が聞こえた気がした。
「まだ苦しいか」
「え……」
「……」
「……」
――まだ苦しいか。確かに、白石はそう言っただろう。聞き返した体を装っても白石は歩き続け、目を合わせてくる気配がない。
確証がないまま、奥寺は答えてみた。
「この前は、いきなり……ごめん。あんな風に泣くつもりは、なくて……」
「今は?」
「え?」
「今はまだ泣きそうか?」
思いの外、優しさを帯びている声で何故か安堵する。
「ううん、大丈夫。白石の前で泣いたのはあれで二回目だよね」
「どっちも号泣とか驚く」
「ふふ、ごめん」
「お前がそれで楽になるならいいけど」
「……ぇ」
「奥寺?」
急に止まった奥寺にどうしたのかと白石が目を合わせてくる。さっきは会わせてくれなかったのに……そう思うより、奥寺の心を支配しているのは衝撃だった。
ただ、白石が自分のことを“お前”と言ったことに。
「白石に、お前って言われたの初めてだ」
「? そう? 何度も言ったことがあると思うけど」
「そうなの……?」
では、どうしてこれほどの衝撃を伴い、心臓をわし掴むのか。鳩尾の辺りがぞわぞわと、ざわざわと騒いでいる。
「今までなんでもないようなことに反応する」
「ぇ、え」
「それって少なくとも俺のことが気になってる?」
「…………」
「……ごめん。言わない約束だった」
「約束、」
なんてしたっけ? ――。最後まで言えなかった。聞くまでもない。白石は奥寺が苦しいと泣いたのを見て、奥寺自身も分からないその理由が、自身が愛を押し付けているからだと誤解したのだ。だから、囁くのを止めた。奥寺に近付くことさえ、自重していた。一緒に帰ることを提案したのは方向が同じだけで誰でもないが、白石としては、この状況は不本意なのかもしれない。
しかし、白石との溝ができるのは嫌なのだ。
ずっと仲良しでいたい。一生、死ぬまで友達でいたい。
その思いは叶えられそうにありながらも、白石が望んでいるのは“恋人として”という条件の元で。
「遅くなっちゃうから早く帰ろう」
白石が歩き出す。
小路に二人の足音。帰宅時間が重なっている為か、背広姿の男性もちらほらと帰路についているようだが、奥寺はただただ白石から発せられる音だけに耳を向けていた。
外の音に紛れて白石から啜り泣く声が聞こえないだろうか。ふと気になって、奥寺は彼の顔を覗き込むようにして追いかけた。
「白石は? 白石は、苦しくない?」
「……俺は大丈夫だよ」
半瞬にも及ばない無音が、痛く心に突き刺さった。
言ってしまえば、普段、恋愛をテーマにした創作物を活力としているせいで、彼の感情が分かってしまうようなのだ。
好きでも、好きであるせいで相手を傷付けたくないし、遠退いてほしくない。その為には我慢が必要で。
奥寺の問いは酷だったかもしれない。
だが、確認しなければ気が済まなかった。
「白石」
「うん?」
「白石は、俺といる方が辛いんじゃないの」
「……どうして?」
「だって俺に応えてもらえないし、俺そっけないし、酷いこと言うし。全然白石が好きになった俺はどこにもいない!」
「ふはっ、自覚あったんだ?」
「! じゃあ、」
「――好きだ」
「っ」
「誰よりも。俺は、奥寺真崎が好きだ。こう言えば納得する?」
――どうして、どうしていつもこうなんだろう。
「すぅ……、白石!!」
「ぅわっな、なに?!」
「白石はバカだ!! 大バカだ!!」
「……」
「どうしてそんなに俺のことが好きなの? どこが好き? ……分かんない、俺白石が分かんない……っ」
「……最近、涙腺緩くなった?」
「うるさぃ」
涙を乱暴に袖口で拭い、白石を睨むように見る。
と、白石は一つ溜め息を吐いて、呆れたように見返してくる。
「それは俺が今まで奥寺に言ってきたこと、伝わってないってことだよな」
「! ……ちがっ、」
「前聞いた時には答えてくれなかったけどさ」
「しら、」
「柏木さん、でしょ?」
「……っ」
「分かる気がする。奥寺のことを見てれば。正直、あのおっさんのどこがいいか分からないけど、関わりがある奥寺にはそれが発見できたってことだろ?」
「……白石」
「なに? あ、振られた? もしかして」
白石の精一杯の虚勢だったのだろう。
しかし、途端に表情を曇らせた奥寺の異変に勘づいたのか、白石が眉を潜める。
「まさか……本当なのか?」
「……」
「おい、奥寺っ」
肩に手をかけられ、顔を向き合わせられる。
「俺って、振られたの?」
言えば、白石の顔が怖くなった。
「好きって言ったのか? 返事は? ダメだって?」
「よく、分からない」
「分からないってなんだよ! おい、奥寺……っ」
「好きです、って勢い誤って言ったら――」
「うんっ」
前のめりに白石が頷く。
「……白石のこと聞かれた」
「……ぇ……はあ?」
「だよね、その反応だよね」
「どういうことだよ?」
「それが分からないんだ。そのまま変な雰囲気になって……特に何も話さないまま帰って」
「それで苦しかったんだな?」
「うん……」
首を縦に振ると、白石から深い息が吐き出された。
「そうか……そっかぁ」
「白石?」
「それから柏木さんには会った?」
「え? あ……ううん。本屋さんにも行きづらくて……会ってない」
「じゃあ、会えよ」
「……え」
白石にしては珍しく強い口調である。
「だってそうでもしなきゃ話は進まないだろ?」
「そう、だけど……」
「俺が見てる限り、奥寺達は両想いだと思う」
「ぇ?」
「だから自信持って会いに行け」
「……白石は俺のことが好きだって……」
「言ってたって? 好きだよ。だからこそ、奥寺のことを応援するんだ。俺のこと見てなくても、奥寺が望んでいることは叶えてあげたいと思う。……まぁ、上手く行かなくて泣いてる奥寺を慰めてあわよくば、なんて気持ちは少しあるけどな」
悪戯っ子のように笑い、肩を小突いてくる。
「大丈夫。いいから会いに行け。俺のことは気にしなくていいから」
「……」
「障害はあるだろうけど、奥寺が選んだなら、応援するし助けもする。それが……、……“友達”だろ?」
「白石……っ」
言い澱んだ理由が分かるようで。だが、それを不躾にも口にする奥寺ではなかった。
込み上げる涙を飲み込み、白石を真っ正面から見据えて、しっかりと頷いて見せる。
「白石はいい友達だ」
「……あぁ、そうだろ? こんなにいい友達はいないよ」
──最低な宣告を、した。
* * *
翌日。学校が休みなのを良いことに、開店と同時に書店に足を運んだ奥寺。
あれだけ遠退いていたというのに人間、勇気付けられてしまうと意外な行動力を身に付けるものである。
店内を歩いて柏木の姿を探すが、さすがにシフトが合わなかったのか、探している人物は見つからなかった。
それでも諦めきれず、BLコーナーにいた若い男性に声をかけた。
男性は、あーと言いにくそうにしながらも容易にその言葉を奥寺に浴びせかけたのである。
「柏木さんなら、三日前に辞めましたよ」
「三日……? どうしてですか?」
「えっと、理由まで俺からはちょっと。柏木さんのお知り合いっすか?」
「ぇ、ぁ……すみません。ありがとうございます」
「あ、待って。もしかして“奥寺”くん?」
完全に初対面だろうに名前を言い当てられて驚く奥寺に、若い男性は慌てて言い付け足してきた。
「お、俺は柏木さんの後を継いでここのコーナーを任されてるんだけど……柏木さんとは仲良くさせてもらってて。奥寺という学生さんに伝言を頼まれてるんだ。奥寺さん、で間違いないですか?」
おずおずといった感じに奥寺もよく分からないながらも肯定する。
すれば、男性は安心したように笑みを浮かべて、預かったという伝言を一言一句同じように口にしようとしているのか、ゆっくりと言ってくれた。
「“突然のこと、驚いたかと思います。急遽、仕事をやめなくてはいけなくなりました。遠くへ引っ越すことにもなりました。最後に会いたかったけど、叶いそうもないので同僚の涌井 くんに伝言を頼みます”……“奥寺くんが言ってくれたこと、すごく嬉しかったです。会えたら直接言うつもりでしたが、それが唯一の心残りです。同じ趣味を持ってて、話し相手ができたようで、お客さんの君が来てくれるのが楽しみで仕方ありませんでした。ありがとう、奥寺くん”……で、ここから先は俺の記憶力にかかってるって言われたんですけど」
そう前振りした男性はくすりと笑む。
「“奥寺くんを一生忘れません、さようなら”――と。さすがに最後の大事な別れの挨拶を忘れる人はいないっすよね! その前の方が長たらしくて……。あ、店長だ。すみません、話してたら怒られてしまうんで。じゃあ、確かに伝えましたから」
言って、奥寺が反応を示す前に業務に戻っていった。
「……」
しかし、衝撃なのは柏木の伝言だという言葉の数々である。
「さよう、なら……?」
もう会うつもりもないのか。連絡先を託してくれてもよかっただろう。
言いたいことはたくさんあるのに、それをぶつける柏木とはもう会えない。
その非現実めいた事実が、奥寺の思考を奪い取っていった。
【もう会えない】
三日前だったら会えていた。逡巡などせず、もっと早く足を踏み出していたら……もっと、もっと。
後悔ばかりが募っていく。
どうして連絡先を交換しておかなかったのだろう。どうして、どうしてだろう。
「……っ、っ」
ギュッと胸元を押さえる。痛くて、苦しかった。
「柏木さ……っ」
奥寺の恋は、淡く、簡単に終わりを迎えるようだった。
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