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番外編:冬に青い春16
* * *
「――ようやく秋も深まってきたねぇ」
感慨深げに呟かれたそれに奥寺は苦笑する。
隣に座った咲麻がそれにくすくすと笑う。
「肌寒くなってきたね」
「そうですね」
「……」
「……」
「ぼくは結局、間に合わなかったわけだけど」
足を見つめ、彼はグラウンドで走り回る仲間を見遣り、寂しそうに笑んだ。
最近になって分かったことだが、いつでも笑っている咲麻にも感情の変化は表面上にも表れていて……。微細な変化だが、笑みにも喜怒哀楽があるようなのだ。
「これでよかったと思ってる。頑張れたんだ。一度は諦めかけた足も回復はしてるし、未来が絶望的ってことじゃないようだしね」
「……」
「でも、サッカーはもうやらないと思うんだ」
「え?」
「ふふ、新しくやりたいことができた。今はそれに専念しようと思っててね」
「やりたいこと、ですか?」
「そう」
「……それって?」
聞かれるのを待っている様子に応え聞けば、咲麻はおかしそうに笑った。
「ふふふっ、知りたい?」
「知りたいです」
「それはね、動物と戯れること」
「へ……?」
「こういうふうに顔を近付けてね、ちゅっちゅしてあげると喜ぶんだよ」
「わ、わ」
鼻の頭やら頬に再現されてしまう。だが、決して唇には触れてこない。
あの雨の日、いつの間にかその存在を忘れていた咲麻のことだが、翌日学校で会うと彼はにっこりと笑って昨日は大丈夫だった? なんて聞いてきて。それを境に、唇や体に触れることはなくなった。
奥寺も自然とジャージの下に短パンを履くことをやめ、咲麻はそれを咎めることなくただ笑っている状態である。
どうして触ってこないのか、聞くことはしない。
「――あーっサクちゃん! 何してるの!」
「なに、刹」
「冷静!? 浮気はダメだからね、って何回言ってると思ってんの!」
「浮気? どこが? ぼくは後輩に親しみを込めて可愛がってるだけだよ。ねぇ?」
「は、はは」
「ほら! 奥寺くんも困ってるから離れてっ」
「ああもう」
奥寺と咲麻の間に、サッカー部元キャプテンの立林刹が腰を下ろす。
夏の大会をもって三年生である咲麻と立林は引退。今は受験や就職に向けて活動していると聞くが、時間ができるとこうしてよく部活動を見に来るのだ。
彼らにとって最後の大会。夏真っ只中の、大地を焼き焦がすような陽光と最早恵みである微風。
咲麻はピッチに立つことができず、奥寺の隣で試合終了のホイッスルを聞いた。
次こそは優勝しようと、その夢を後輩に託していた刹は最後の最後でキャプテンらしく見え、誰にも見られないよう一人で悔し涙を流していたところを奥寺は目撃した。
――準々決勝、敗退。
それが夏の大会、サッカー部の戦績である。
「やっぱりあれだけ練習してたのに、いざ勉強ってなるとさ。体が鈍るって言うか……ね? サクちゃん」
「いや、ぼくは鈍ってないけど」
「いやいやそこは同意するところ!」
「だってぼくは練習もしてないし、試合に出てたわけでもない」
「うっ……またサクちゃんはそうやってふて腐れるー」
「よく考えて発言するように。刹は何しに来たの? 割り込まれて少し腹が立っているんだけど」
「えっ……?」
「全く。真崎くん、こっちおいで」
来い来いと手招かれてしまい、奥寺は立林の様子を窺いつつ、咲麻と横に移動する。
と、抱き込まれるように頭を引き寄せられた。細い指先が頭皮に触れ、優しく撫で回す。
「ん〜、やっぱり真崎くんはかわい」
「ぅ、咲麻先輩っ」
「かわいいな、猫みたい。ちょっとにゃーって鳴いてみて?」
「ぅええ?」
「ほらほら。喉も撫でてあげるからさ?」
「っ……にゃ、にゃあ? ――わっ」
「ちょっと何してるの!!」
急に体が斜めになったかと思えば、
「……刹」
立林が二人を引き剥がそうと咲麻を引っ張ったらしい。が、咲麻は奥寺から手を離さなかった為に二人して立林にもたれ掛かるような形となってしまったようで。
「何してるのかな」
不機嫌極まりない眼差しが立林を威嚇する。
「お、おお怒ったってダメなんだからね!」
「威力なし」
「サクちゃん!」
「くっつくぐらいいいでしょう? ぼくは真崎くんで癒されたいの」
「ダメ! サクちゃんにはオレがいるでしょ?」
「はっ、冗談?」
「サクちゃんっ」
あの日を境に変わったのは奥寺と咲麻の間柄だけではなく、立林との関係も何か変化があったようなのだった。立林は咲麻によく独占欲をぶつけるようになった。
好き、なのだろうか。
咲麻は全く意に介してないが。
もしかしたら咲麻が触れてこなくなったのも、立林との関係の変化のせいなのかもしれないと奥寺は想像する。
「――先輩達、一体ここに何しに来てるんですか」
ふと、冷たい言葉が飛んできた。
三人揃って声が聞こえてきた方に目を向けると、汗をタオルで拭う白石がいた。眉を潜め、どこか引いている。
「あ、ごめん」
咲麻達は引退したとは言え、自分はマネージャーであり仕事の最中であったことを思い出し、咲麻の懐から抜け出す。
「ううん、奥寺はいいよ。逆に休憩してってぐらい働いてるってみんな感動してるし。俺が言ってるのは先輩達のことですよ。いちゃつくなら誰も見てないところでしてもらえますか」
「い、いやだなぁ、白石、いちゃつくだなんてオレ達は――」
「いやだね、白石。ぼくは刹じゃなくて真崎くんといちゃついてたんだよ? 見間違えないでほしいね」
「サクちゃんひどい!」
「扱い方が上手いって言ってほしいけれど」
「扱い方……? それって、こうされた方がオレが喜ぶとでも!?」
「……あんた達どっか行けよ、マジで」
「……」
「……?」
「!?」
奥寺、咲麻、立林は驚く。
白石がいつも以上に、いや見たことがないほど苛立っている。
いくら立林が女の子好きで何股もした挙げ句修羅場になり全員に逃げられるような最低男でも、そんな言い方はしていなかった。が、今はどうだろう。あからさまに眉間に皺を刻み、怒っているようだ。
自分も喋りすぎていたと反省した奥寺は、ちょうど休憩の声が掛けられたこともあり、マネージャー業に取り掛かることにした。
「真崎くん。ぼくはこれでもう帰るね。またね」
「あ、はいっ。さようなら、咲麻先輩」
「うん。……ほら、刹も行くよ」
「はいはいー」
にこにことした顔で手を振ってきた立林に片手を振り返すと、近くにいた白石が溜め息を吐いた。
「……どうしたの?」
探りつつ問いかければ、白石は表情を和らげ、肩を竦める。
「だって士気が下がるだろ?」
「しき?」
「彼女欲しい盛りの高校生だぜ? あんなの見せられてたら集中できないって」
「あー……分かるような分からないような」
「つまり目に毒ってこと」
咲麻と立林を端から見ると恋人同士のように見える、ということだろうか。いまいち共感できず小首を傾げていると、白石がこちらを見た。
――奥寺は、しっかり白石に告白の返事をした。
『やっぱり白石のことは友達で、付き合うとかは……考えられない』
『……そっか』
どこか覚悟していたような苦笑いに、どうして彼に応えてあげることができないのだろう。
と思うことは、絶対にしてはいけないことだ。友達以上に見れないということは事実に変わらないから。
『でも友達ではいてくれるよな?』
『……いいの?』
『当たり前だろ。奥寺のことは友達としても好きなんだからさ』
『…………ありがと』
断ったことを気にすれば気にするだけ、彼を傷付けていると知ってからは、今まで通り友達として接することに徹しているのだった。
つまり、白石との関係に変化はない。
「……白石?」
「あ、うん。今日はこれでクールダウンして終わりだからさ。奥寺も終わる準備していいよ」
「うん、分かった」
マネージャー業、と言いつつも、自分ができることと言えば所謂雑用で、ドリンクとタオルを人数分より少し多めに用意し、部活動が終わればドリンクボトルを洗い、使ったタオルを洗濯機にかける。でないと汗臭くて堪らないという事態は経験済みだ。使ったものはその日のうちに、が鉄則となっている。
少しはルールも覚えてもっとみんなの役に立つことができたらと考えることは少なくない。
しかし、修羅場後に退部していったという女子マネージャーの代わりをしてくれている、との理由があるからか、部員達は優しく気を遣ってくれてどこか遠慮がちなのである。悪いのは立林ただ一人のような気もするが、マネージャーを失ってから練習自体が儘ならなかった期間があるらしく、奥寺までもを失うわけにはいかないと躍起になっているようであった。気を遣うのは嬉しいがもっと頼ってくれたら、と密かに思う。
「俺ももっと頑張んなきゃなー」
一人でせっせとボトルを洗い、手を水に晒していると。
「――奥寺ちゃーん」
部員の中でも比較的話しやすい同級生が数人やって来た。すでに着替えて制服姿だ。
「ミーティング終わったの?」
「うん。白石だからな。立林先輩より簡潔で的確」
「へ、へぇ。そっか」
「それよりさ、奥寺ちゃん、あーんして」
「え?」
「おやつおやつ。手ぇ塞がってるから食べれないでしょ?」
「あ、あぁ……ありがとう」
「はい、あーん」
満面の笑みで同級生は奥寺の口に摘まんだお菓子を運んでくる。
躊躇わず口を開いて食べさせてもらった。
「ん、ぅんまい」
「へへ、よかった!」
「奥寺、美味しそうに食べるよな」
「あっそんなこと言っても武 ちゃんにはあげないからね!」
「なんだよ、ケチだな」
「俺は奥寺ちゃんにあげる為に持ってきてるんですぅ」
「うぜぇ」
「あははっ。ね、奥寺ちゃん、俺も手伝うから一緒に帰ろ? もっと奥寺ちゃんと仲良くなりたい」
そんなことをきらきらとした表情で言われて、断れるわけがない。
嬉しくて奥寺は大きく頷いた。
「うんっ」
* * *
順風満帆な学校生活。
そのお陰か、学校から帰ってくると自然と溜め息が奥寺の口から漏れ出た。楽しい思いをすればするほど、家に帰ってきた時との落差を思い知って気分が急降下していく。
それでも“いつもと”同じ生活を心掛けるのだが、一度覚えてしまった味は忘れられないものなのだろう。
数週間でも毎日のように咲麻と口付けを交わし触りあっていたせいで、奥寺の体は快楽を欲しがるようになってしまっていたのだ。
咲麻との関係が途切れた今では、自分で慰めるしかない。
「……はぁ……んっんっ」
反り立つものを両手で握り、上下に動かす。時折、先を親指で抉って刺激を増してあげる。
「ぁ……っ、んーぅ」
室内に衣擦れといやらしい水音だけが響き、より奥寺の昂りが涎を垂らした。
一人で慰めるより虚しいことはない気がする、ここ数日。
思い出すのは咲麻の手指……ではなく、あの雨の日の出来事。
『……親愛の証を。、――』
一呼吸分の、キス。短い口付けだった。しかも触れられたのは片頬で。
けれど、奥寺には充分すぎる柏木の感触だった。
顔を固定する手、肌を、正しくは涙を拭う指。困ったように笑う瞳、押し付けられた唇は柔らかくて。
思春期というのは困り者だ。妄想、という心強い増幅薬を常に胸に秘めている。
顔に触れていただけの各感触が、もしも、を駆り立てて仕方がない。
もしもここに、もしもこうされたら……妄想は尽きず奥寺を高みへと押しやり、最後には決まって虚しい気持ちにさせるのだ。
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