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番外編:冬に青い春15

* * *  物音が聞こえなくなった室内で、柏木はさらさらと紙に何かを書くと、行こうと静かに言って、奥寺を牧田の家から連れ出した。  空は先程までの雷雨が嘘だったかのように青を映し、燦々と輝く太陽が一気に夏を呼び戻している。その下、奥寺は柏木の後を歩く。  牧田の家を離れてからも二人の間に会話はなかった。  ただ濡れた服の不快感を胸に、奥寺は足を動かし続ける。  帰るのだろうが、迷子になってしまったようにどこへ帰るべきなのか、とことこと柏木を追うしかない。  じりじりとした太陽が服に染み込んだ雨を蒸発させていく。  会話の種も見つからなくて、牧田に何も言わず家を出てきてしまったが大丈夫だっただろうかと別のことを考えてみる。が、その思案も柏木が書き置きを残していたことを思い出して解決してしまった。  交差点に差し掛かり、信号が赤に変わる。 「奥寺くん」  次の瞬間、柏木がこちらを向いた。 「ごめん、今まで気が回らなかったんだけど、服大丈夫?」 「あ……えっ?」  これまでの重い沈黙が嘘だったかのように、気遣いを見せる彼に戸惑うも奥寺は頷いた。 「大丈夫です。この天気じゃすぐ乾きそうだし」 「そっか。新しい服を買っても大丈夫なんだけど……」 「あぁ、そんな! 大丈夫です、俺。柏木さんこそ」 「ううん、僕も平気。着替え持ってるし。ありがとう」  にこりと笑いかけられて。 「……ふふ、」   奥寺は気付かれないように息を吐き出し、同じように笑った。  上手く笑えているか分からないが、安心したのだ。  柏木が笑ってくれたこと、何より会話を交わすことができたことに。  何気ないやり取りがこんなにも嬉しいと思ったことはない。  それほど、柏木と牧田を結ぶ話は重くのし掛かってくるものであったのだろう。  だが、これで柏木が自分の元から去る理由は取り除かれたように思えた。  後は自分の気持ち次第だ。柏木と会えなくなったからと自暴自棄になって咲麻と構築した関係と折り合いをつけなければならない。  しかし、そう思う奥寺を、柏木は拒むようにして――目の前に立っている。 「じゃあ……」  そう切り出された、別れの言葉。  信号を渡ってしばらく歩いた奥寺は、柏木と共に最寄りの駅前へとついた。駅と併設されているロッカーに立ち寄った柏木はそこで大きな荷物を取り出し、両手を塞いだ。それから唐突に、言ったのである。 「これでさよならだね、奥寺くん」  何の未練もない、言い方で。  あまりのことに黙り込んだ奥寺に変わらず笑いかけ、何に対しての言葉か、謝罪とお礼を述べると彼は背を向けた。どんどんと遠ざかっていく背中に奥寺は、 「っ、柏木さん!俺、み、見送ります」  駆け寄り、必死の思いでそう口を開くのがやっとだった。  駅員の好意でホームまで、という条件の元、柏木と共に車両の前に立つ奥寺だったが……。いまだにどうして柏木が行ってしまうのか、理解ができなかった。  柏木と会えなくなったのは、牧田を拒む為ではなかったのか。全てを知った今なら、そうする理由はもうどこにもないはずで。  それともまだ他に行かなくてはいけない理由があるのか。  ……そう考えを巡らす傍らで、何となくだがその理由に心当たりがあった。  駅員に頼み込む奥寺を止めなかったのも、笑顔を向けてくれるのも柏木の優しさだ。  が、彼は知ってしまっている。自分が咲麻と“なにをしていたか”。  きっと、たぶん。それはほぼ確実に。  雨の中、柏木が現れた時から微かに思っていたことだった。  あの時、自分はねだる咲麻に口付けをしようとしていた。  柏木は目撃したことだろう。好きだと告白してきた男が他の男と口付けをしようとしていたのである。あの告白は嘘だと思うか、とうに他に好きな人ができたと思うであろう。  それはそう見られても仕方のないことであり、奥寺は諦めていた。  電子掲示板は十分後の出発を示している。ホームに残る人影は疎らで、それら影も次々に車内へと入っていく。  それに合わせ、柏木も荷物を車内に置き、乗る手前で奥寺を振り返ってきた。  こんな時なのに分かってしまう。着替えがあると先程言ったのは、その大きい荷物があったからだ、と。 「さようなら、奥寺くん」 「……、」  ――またね、じゃないんですか。  言えない。 「最後に変なことに巻き込んでしまって本当に、ごめんなさい。奥寺くんには関係ないことだったよね、本当に……」  ごめん、と呟く柏木。  奥寺は無言で首を振る。 「じゃあね。奥寺くん。元気で」 「…………」  ――言いたいことがたくさんある。でもそれを勇気出して言ってしまえないのは、自分にそんな権利がないように思えるのと、柏木が望んでいないからである。  手を伸ばせる距離にいるのに、伸ばすことができないのが歯痒い。  これでは会えなかった時と同じだ。 「…………」  自分はどんな顔をしていたのか。  さよならと別れを告げてきたはずの彼が車内に乗り込まずただ黙ってこちらを見ていたかと思えば、ぐにゃりとたちまち表情を歪め、奥寺の両頬を掴んだのだった。 「っ!?」 「そんな顔……っ」 「か、柏木さん?」 「そんな顔、しないで」  あまりにもか細い声で紡がれ、奥寺は顔を固定されたまま目を丸くして柏木を見つめる。  視覚で得た情報は、柏木が苦しそうなことぐらいしか分からなかった。 「どうしてそんな泣きそうな顔するの?」 「……っ、泣きそうになんてなってないです」 「嘘」 「本当です」 「じゃあ、どうして奥寺くんの顔を見るとこんなにも胸が痛いんだろう」 「……だって……分からないんです。どうして柏木さんは行っちゃうんですか? もう本当にさよならなんですか? 柏木さんが姿を消したのは牧田さんとのことがあったからで、解決した今は姿を消す必要ないんじゃないんですか? それとも……――それとも俺が柏木さんに告っておきながら他の人とキスしたことを知って、嫌悪しましたか? 許せない? 失望した? 俺を嫌いになりましたか? 汚いって思いますか……!」  気付けば、太陽に吸いとられたはずの水分が瞳から溢れ出していた。  人の目も憚らず泣き出す自分は柏木にとったら迷惑以外の何物でもない。そう分かっていながら、爆発した感情を抑える術を持っているわけでもなかった。 「奥寺くん、なんてことを言うんだ」  柏木がぐっと顔を引き寄せ、至近距離で言う。 「君のことを一度だって汚いなんて思ったことはないよ。嫌いにもなってない。奥寺くんの言う通り、僕は逃げていた、全てから。解決とはまた違うけど、一つ区切りがついたのも本当だ。ただ僕がこの電車に乗るのは、整理をつける為であるんだよ」 「じゃぁ、どうして黙って……?」 「……それは」  視線を逸らして逡巡するような仕草を見せる。  柏木を困らせているのだろうけれど、奥寺は問う姿勢を崩さなかった。涙で揺らぐ視界の中、柏木の影だけを一心に見つめ、答えを待つ。  発車まで五分のアナウンス。  その瞬間、柏木は視線を戻してきて、絞り出すように言葉を声にした。 「奥寺くんが好きだということは変わってないからだよ」  柏木の瞳が優しく細められる。 「僕は悪い大人だ。そんな大人に捕まってほしくない。でも君を手離したくないとも思う。なかなか君との繋がりであるこの地を離れられなかったのも、君に未練があったからだよ。けどね、“愛してる”は一生杏佳のものなんだ。そんな我が儘、君に押し付けるわけにはいかない。それに整理したいのは本当で――」 「柏木さんが好きです」 「っ、奥寺くん」 「好きです、好き……すきっ」  止まっていた涙が再び流れはじめる。 「柏木さん、好きです」 「……親愛の証を。、……今度こそ、さようなら奥寺くん」  それから奥寺は、柏木の乗った電車が見えなくなるまで、見えなくなっても、愛しい人の残像を目蓋に描きながら、走り去っていった景色をずっと見つめていた。

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