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番外編:冬に青い春14
* * *
妙な経緯で訪れた牧田の家に、奥寺は口をあんぐりと開けることしかできなかった。一言で現すならそのギャップに、“唖然”とした。まさにその言葉がぴったりであろう。所謂高級住宅街に聳 え、一際目を引く高層タワーマンション。その最上階、一フロア丸ごとを有するらしい牧田。だが誰もが羨むその外観とは裏腹に、室内はあまりにもシンプルだったのだ。お金持ちであるのは明らかだが、内装は酷く質素である。必要最低限の家具しか置いておらず、装飾品の類は見当たらない。玄関は奥寺と柏木が並んでも余るほどなのに、その驚きは疑問へと直結してしまう。
「さぁ、あがって。何もないところだけど」
「何もって……なさすぎでは……」
思わず柏木も口を滑らせるほどなのだ。
それに牧田は自嘲気味に笑って見せる。
「引っ越してきて間もないし、長居するつもりもなかったからね。拠点だよ、一種の。私はずっと柏木くんを探していたから」
「……」
誘導された視界の中で柏木が苦虫を噛んだように顔を歪める。
今まで柏木には笑っているイメージしかなかった。だから、優しいという印象を抱いていた。だが、牧田が現れてから柏木の表情はくるくると変わる。苦しく痛いものへ、笑顔とは正反対のものへと。
それが新鮮で、更に柏木を変化させる牧田にも興味が湧いてしまうのは自然なのか……。
彼らの互いに対する態度を見ていれば、ただの友人関係でないことははっきりしているのだけれど。
「はい、これで拭いて」
「あ、ありがとうござい――……っふかふか!」
殺風景でもやはり置いてあるものは一級品らしい。弾力のあるタオルは押し当てた肌を柔らかく包み、水気を吸いとっていく。
つい声を上げてしまった挙げ句、状況を忘れタオルに顔を埋めていれば、牧田が声をかけてくる。
「気に入ったなら新しいのあげるよ」
「ほ、本当ですか?」
「嘘は言わないよ。タオルでそんなに喜んだのは君が初めてだな」
「だって、これ――」
「牧田さん」
和やかな空気がその一声によって元の硬さに引き戻された。
「話があるなら、奥寺くんは関係ないはずです。今すぐ彼を帰してあげてください」
「さっきからそればっかりだね。それだけ大切なんだろうけど……“関係ない”、本当にそう思う? 柏木くん、気になるだろう」
「何をです」
「君のことを好きだと言う彼が、果たして、過去を知ってもまだ好きでいてくれるか」
「っ……」
「君を縛っているものでもあるね」
一句一句大切そうに口にし、牧田は奥寺に向き直ってくる。
「君には覚悟があるのだろう?」
「は、はい!」
「奥寺くんっ」
「……でも、柏木さんが嫌だと言うなら無理矢理聞くわけには……」
「じゃあ、こうしよう。私達は君がいるとは思わない。君は盗聴でもしてるように聞いてるんだ」
「牧田さん、そんな」
すかさず柏木が反論をする。
「子供みたいなこと」
「私は真剣だよ。それに、嫌われるなら早い方がいいんじゃないかな」
「…………」
「昔話をしよう――私の妹の話でもある」
そうして始まった柏木の語りは淡々としていて、感情を排した喋り方だった。
しかしすぐに、柏木の過去である内容に、奥寺は言葉を失う羽目になったのである。
「――杏佳は婚約者と結婚して、しばらくしてから二人の間に子供が産まれたんだ。けどその直後、杏佳は自殺した」
「ぇ……」
「理由は全て遺書にあったよ」
そう言い、牧田がテーブルの上に置いたのは白い封筒。
【これを読んでくれる貴方へ】との宛先が、儚さを思わせる筆跡で書かれている。皺一つないそれを見れば分かる、牧田は大切に妹の遺書を持ち続けていたのだ。
「これが私と柏木くんを結ぶ話だよ。どう思う?」
「え」
感想を求められ、奥寺は戸惑いながらも自然に浮かんできた疑問を口にした。
「ぁ……そ、それが、どうして柏木さんが殺人犯になるんですか……?」
一時の沈黙。柏木は押し黙り、反対に嬉しそうな笑みを浮かべたのが牧田であった。よく言ってくれた、というような節に奥寺は固唾を飲む。
牧田は何か、悪いだけではないものを企んでいるようだ。
「さて、どうだろう。彼は。自分が殺人犯だと思っているようだね?」
柏木が顔を上げる。
「……どういうつもりですか」
「君は、私が君を責めに来たと思っている……沈黙は肯定としよう。無論、私は君を責める為だけに、五年間、行方知れずの君を探し続けた。五年間は長いよ、自分でも執着心が強いと呆れるぐらいにね。でも君はそれに感謝をする。あ、杏佳を忘れずに済むからという理由ではないよ。私の執着心に、今日こうして会って話したことに君は救われるんだ」
その言葉に、柏木は理解できないと眉間に皺を寄せ、唇を噛む。
「さて、ここからが本題だ。柏木くん、事実を端的に言ってあげよう。妹の遺書に、一言も君のことを恨むような内容は書かれていなかった」
「…………」
「聞いてる? 遺書には、君への愛と感謝だけが綴られているんだ」
「……は、い?」
「読んだ方が早いね。読んでみるといい」
すっと柏木の前に差し出された白の封筒。
しかし、柏木はそれを酷く思い詰めた表情で見つめるだけで手を伸ばさない。
すると、矛先が状況を見守るしかない奥寺へと向けられた。
「奥寺くん、君が読んでみてくれないか?」
「え、俺がですか……?」
「うん。柏木くんは色々と葛藤しているようだからね」
言われてテーブルの上を見るが……躊躇って首を振る。
「俺が読むなんて、そんなこと……」
「できない? でも君は柏木くんを知りたいんだろう? その覚悟もある。ならば読むべきだ。杏佳がどんな人間だったが、その文面だけでも分かるだろうから……君が、読んでくれ」
【これを読んでくれる貴方へ】
兄である牧田でも、柏木でも、特定の誰かに向けられたわけではない宛名に、どれだけ目を逸らしても不思議な引力を持っているようで吸い寄せられてしまうのだ。
柏木も同じように遺書を見つめていた。
自分が読んでもいいのだろうか。
隣の様子を窺っても分かることはない。恐る恐る手を伸ばし、奥寺は白い封筒を手に取った。
【これを読んでくれる貴方へ
お元気ですか。きっとこれを読んでくれる貴方は優しい人なのでしょう。普通なら、誰もこんな手紙は見たくないと思います。私がこうして手紙を書く理由は、一つだけ伝えたいことがあるからです。
私を愛してくれた人、愛してくれてありがとう。
ただそれだけです。それだけが、伝えたいことです。それ以外にありません。
ありがとう。何回言えば、この心にある感情を言い表すことができるでしょうか。
私が言いたいのはそれだけなのです。
多くは語りません。
こんな私の拙い手紙を読んでくれてありがとう。
私はずっと幸せでした 杏佳】
「――私はずっと幸せでした、杏佳……」
声に出して読むようにとの指示に従った奥寺だったが、最後まで口にしてふっと意識が遠退いていくようだった。
「こんなの、全然遺書じゃ……」
しp彼女は本当に死を選び、この文を認 めたのか。本当に、死んでしまったのか。
それほど死の予兆を感じさせるものではなかった。
「私も最初はただの手紙だと思ったんだ。けど、宛名のところよく見てみると、遺書と書いた字を消した跡があるだろう?」
「……本当だ。柏木さん」
柏木にも見せれば、その瞳が大きく見開かれる。
色は消えているが筆圧のせいか、滑らかに見える表面に溝が出来ていた。
「杏佳の字で間違いないし、“遺書”があったんじゃどうしようもないよね」
「……そんな」
そこで初めて文面を直視した柏木が苦しみを吐き出す。
「どうして……どうして僕への恨みがないんだ……っ」
「ないわけじゃないと思うよ」
牧田が言う。
「杏佳が言っていたことがある。“本音は本音であって、吐露するものじゃない”って」
「……っ」
「推測でしかないけど。杏佳は夫となった男を愛してはいなかった、でも産まれた子供にはちゃんと愛情を持っていたと思う。傍にいたから分かる。愛しそうに赤子を抱いてる杏佳はどこか嬉しそうだった。生きる支えを得たと思えたのかもしれない。けれど……っ、その“未来”も捨ててしまうほど不意に、苛まれたんだろう。柏木くん、どうしてあの時、杏佳の手を離してしまったんだ? 強引にでも奪ってくれれば杏佳は……君が彼女を殺したんだ。未来である自分の子を蔑ろにするほど君を愛してた、杏佳は! 褒められる形ではないが、それが私の愛する妹の想いなんだよ……ッ」
とうとう牧田の表情からも笑みが消える。
柏木は両の目から雫を滴らせ、泣いていた。
その光景は初めて目にするものばかりで、奥寺の胸を強く締め付ける。自分が知ったのは彼らの過去の一部分でしかない。だが、それでも心が張り裂けそうに痛いのだ。二人のことを思うと、鼻の奥がつんっとなって目に涙の膜が張ってしまう。
「奥寺くん」
泣いてはダメだと自分を戒めていた奥寺を、牧田が呼んだ。
「ちょっとこっち側 においで」
そう手招いてくる。
拒む理由もなく、立ち上がって牧田の隣に座ると、
「……ぇ?」
正面から抱き締められてしまった。
「ま、牧田さん?」
慌ててもがくも、力が強くて離れない。助けを求めようにも顔を胸に押し付けられてしまって、柏木を見ることもできなかった。
「申し訳ないけど少しだけこのままでいてくれると助かるかな」
柏木の為にも、と続けられてしまっては、奥寺は頷くしかない。大人しく牧田の腕の中に収まって二人の話を聞くことにした。
「杏佳が死んだことは、杏佳の親友を介して君に伝えたつもりだ」
「……はい。聞きました」
「君が何がなんでも訪ねてくるだろうと思っての、私の独断だった。両親や夫である蛎崎 家の御曹司は随分君のことを嫌っているからね。杏佳が亡くなった時、君を疑ったほどだ。無理心中じゃないか、早く君の生存を確認しろ、って」
「……」
「話が逸れてしまったけど、結局、君は私の期待を裏切り、行方を眩ませた。びっくりしたよ、まさか逃げるとは思ってなかったから。その頃、家族に何か遭ったわけじゃないだろう?」
「は、い」
「そこから五年、君を探すだけの五年が始まったんだ。最初は憎しみだけだったよ。杏佳との約束も果たさぬまま、死を知っても会いに来るどころか逃げたなんて……一発殴ろうと思って、探偵紛いのことをすることにした。杏佳が結婚したことによって両親の注目は蛎崎家に向いていたからね、不自由はしなかったよ。思えば、両親も狂ってる。娘が死んだと言うのに悲しむことなく、興味は結婚したことによって得たお金や地位、名声の“価値あるもの”なんだから。妹のことを心の底から思ってあげているのは私だけだった」
「っ……やっぱり僕が杏佳を殺したのも同然です」
涙に濡れた声が奥寺の耳に届く。
「そうだ、そうだろうね」
「僕は決断することができなかった、怖かったんです。何もかも捨てて杏佳を幸せにする自信なんて本当は……。本当の婚約者の方と結婚して子供を産んで幸せになってるだろうって勝手に、思ってて」
「もう杏佳を愛してはなかった?」
「愛してました! 大好きで……っ、でもあの手を離してから、あの男の腕に収まる彼女を見てしまったら……僕はもう姿を現さない方がいいと思いました。だけど自殺しただなんて聞いて、信じられなかった。僕は……杏佳を、ちゃんと見てなかった……。あの時、杏佳の親友に話を聞いた瞬間、彼女が僕を誘き出す為に講じた策だと思いました」
「どういう、こと?」
「ぅっ」
牧田の腕が、きつくきつく体に巻き付く。だが、締め付けられた苦しさよりも柏木の話が気になって、だんだんとある予感が頭をよぎり、いや違うと奥寺は必死に否定する。
しかし、そんな願いのような思いを裏切るようにして、柏木は真実を口にしたのだった。
「彼女は“そういう”人だったから。今回もそうだと……」
「ちょっと待ってくれ、頭の整理が追い付かない」
「……牧田さん。僕はやっぱり裁かれるべきです。愛しい人の最後の言葉も拒んで……僕は、」
「待って、待ってよ」
「……?」
「君は親友から事の次第を聞いた時、どう思ったの?」
「……嘘だと……待ちくたびれて、どうにか僕を呼び出そうと親友の手を借りたんだと思ってました。ずっと、牧田さんが職務先に現れるまでは」
「つまり、私がコンタクトを取ったのも杏佳の頼みでやって来たと思っていた?」
「……はい。僕は杏佳に相応しい人間ではいられなくなった。結婚して子供もいるなら、僕に奪われるよりずっと幸せだと思って……僕は愚かでした。彼女の最後の言葉を、“嘘”だと片付けたんだから」
「…………なんてことだ」
締め付けられていた体がふっと自由になる。牧田は奥寺を抱き締めていた両手で頭を抱え、それきり黙ってしまった。
遺書の内容よりも衝撃的な事実。
柏木は何よりも彼女の幸せを願って、会いに行かないという決断をしたのだろう。だが、それは愛しい人が生きている前提での話だ。
しかし、彼女の親友が報せてきたことは事実で、そのことを知ったのが五年も後。
牧田は牧田で亡くなったと告げたのに行方を眩ませた柏木を許せなくて五年間も探し続けた――。
不運だと、不運だったと言うしかない。だが、当事者である彼らを慰められる言葉などないことは奥寺にも分かった。自分にできることはない。……これでは本当に盗聴しているだけである。
やがて、どれぐらい経ったか、全てを我慢したかのような顔を晒した牧田は小さな声で言った。
「私は、君を裁く為に探していたんじゃない」
「え?」
止まった時間が流れ出したようだった。
「五年の間に私の考えにも変わったところがある。それは君が今もまだ、杏佳に“とらわれている”としたら――妹にとったら僥幸 なことかもしれないが、人生を謳歌する私達にとったらそれはただの束縛になる。案の定、君は杏佳という荷物を背負い続け、犯罪者と罵られても受け入れるような素振りを見せた。あの時ね、やり方は雑だが、鎌をかけたつもりだったんだよ」
「あの時と、言うのは……?」
「君の職場で暴れた時さ。君は負い目を感じるあまり自己評価が低く、杏佳のことを引き摺っていた……私の推察通りね。だから遠回しに君が周囲に振り撒くその態度が、周囲はどう判断するのか教えてやりたかったんだ。あぁ、もちろん、遠回しなのは軽い嫌がらせだね。五年の恨み辛みのせいだから許してほしいところかな」
微かに笑って見せ、もう一度、奥寺の方に手を伸ばしてくる。
「杏佳の死は、私にも責任があると思ってる。私は結婚なんてしなくていいと思っていたが、結局両親に圧され口に出してやることができなかった。私が一言でも言ってたら……もしかしたら杏佳は死ぬ選択をせずに済んだかもしれない」
緩慢とした動きに抗えず、先程よりも優しい仕草に、奥寺は背中に手を添え返した。
瞬間、牧田の肩が震える。
「っ、私達は運がなかったらしい。君と杏佳が結ばれなかったのも、運命だったのだろう。ぅん、そうだ。きっと、これは運命だった。最初から、こうなる……うんめぃっ」
「牧田さんっ僕は、」
「杏佳を想ってくれてありがとう」
柏木の否定を遮り、牧田は向き直る。
「とりあえず、杏佳の死を君に報せることができてよかった。杏佳もこれで楽になるだろう」
早口でそう告げ、我慢ならないというふうに立ち上がって奥の部屋へ消えてしまう。すぐ聞こえてきたのは、嗚咽だった。涙は見せられないと立ち去ったのだろうが……。奥から確かに耳の鼓膜を刺激する音は悲しく、胸を締め付けて。
奥寺はどうするのがいいのか、考えることもできずにただ座っていた。
「奥寺くん」
そんな悲痛な泣き声から意識を逸らすように、柏木の呼び声が重なった。
「こっちへおいで」
と言われ、静かに席を立ち、元いた場所へ戻る。
雨に濡れた服は重く、冷たく、今になってソファーを濃い色に染めていることに気が付いた。
「あ、柏木さん、服濡れたまま――」
「ごめんね」
「……え」
飛び出した言葉に、奥寺は純粋に驚く。
「変なことに巻き込んでしまって……」
「あ、いえ、俺はっ」
――大丈夫です。
言うか言わないか迷って、咄嗟に口をつぐんでしまった。何故なら大丈夫ではないからだ。
柏木に愛してる人がいたとか、その前に真実に真実が重なって胸が酷く痛い。弱音をあげるのは自分ではないと分かっていながら、無関係だと知りながらも痛くて。油断をしたら、牧田のように泣いてしまいそうだった。
しかし、自分がそうだというのに柏木は苦々しい表情をしながらも泣きそうな顔とは少し違うようである。
「でも奥寺くんがいたから、牧田さんと落ち着いて話ができたんだと思うから。ありがとうね、奥寺くん」
そう言って、笑う。
愕然とした。
「か、柏木さん」
「うん?」
「無理、しなくても」
「うん?」
「どうして笑うんですか。無理して笑わなくてもいいです……大丈夫ですよ、俺は」
「……」
「ぁ、だって本当のこと、今知ったんですよね? 好きな人のこと……。だったら辛いのは当たり前で、泣くのだって…………ぁ、すみません、黙ります」
柏木の眼差しや無言、何よりも自分自身の場違いに奥寺は顔を伏せる。
何か言わなくちゃいけないのに、口にしてしまえば陳腐な言葉しか出てこなくて。
――居心地の悪さ。圧倒的に自分の必要性がないのである。
いっそのこと逃げ去ろうかと考えた刹那、柏木の指先が頬に触れてきた。
弾かれるようにして体をびくつかせると――困ったような――普段の笑みを浮かべている彼が奥寺を見つめていた。
「どうして奥寺くんが泣くの?」
「ぁ……」
そこで初めて自分が泣いていると気付く。しかし、どうすればいいのか分からずに見つめ返していると、柏木は頬を伝う涙を静かに拭って、自身もその表情をだんだんと歪めていった。
「う……、っ」
「かし、わぎさん?」
「杏佳、僕に呪いをかけてくれないかな? 誰も僕を裁いてくれないんだ、杏佳が、僕を裁けるはずだよ……っ」
「柏木さんっ」
奥寺には向けられていないその呟きに。
――嫌です、柏木さんには死んでほしくないです。
言いたい言葉を、やはり口にすることができなかった。
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