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番外編:冬に青い春13

* * *  雨中。流れる空気が、変化して。  奥寺の真後ろに現れた男は柏木の知人らしく、だが、彼の表情は瞬く間に苦いものへと変わっていった。  それだけで奥寺は悟る。  男の存在は、柏木にとってよくないものであると。 「東京を出るという話ではなかったかな」 「……」 「また人を裏切るのかい?」 「すぐに、出て行きます。ただ一つだけ未練があって……それを消化しに来たんです」  言葉に、牧田と呼ばれた男はふんと鼻で笑う。 「それがこの子供だとでも?」 「……」  この鉢合わせが、最悪なものであるとは一目で分かった。少なくとも、自分はいなかった方が良かったに違いない。  男は大きな傘を片手に、まるで葬式の後のような色を全体に身に纏っている。顔は整っているが、険しく歪められ、怒っていることは誰の目にも明らかであった。 「問いに答えてほしいね。これで、全てが終わりだと思う?」 「……」 「君が逃げれば逃げるほど、過去に囚われる部分は大きくなる。そうじゃないか?」 「そう、ですね……ずっと杏佳のことは忘れられません。忘れちゃ、ダメだと思ってます。でも僕にはこうするしか」 「……」 「ごめんね、奥寺くん」 「え。あ、いえ」  ――知らないのである、柏木のことを。  知りたいと思っても既に柏木とは会えない状態だった。が、こうして目の前にいるのはその柏木で。  どうするべきか。答えは……。 「もうこれでさよならしよう――」 「待ってください、待って」  奥寺を思って、去るタイミングを与えてくれたのだろうが、しっかり柏木の目を見て拒む。 「俺、ずっと……柏木さんと会えなくなってから、もっとあなたのことが知りたいと思っていました。連絡を取る方法も分からないから……」  それで自棄になった。 「でも、こうしてまた会えたのはチャンスだと思うんです。柏木さんのこと、教えてください。何が好きとか、嫌いとか。何でもいいから、」 「君は、随分この男のことを慕っているようだね」 「……っ?」  必死に紡いでいた言葉をふと遮った牧田が、傘の下でくすっと笑う。 「牧田さん、彼は関係ないっ。巻き込まないでください」 「君はこの男のことを知りたいと言った。それってどこまでを指すのかな?」 「牧田さんッ!!」  止めてくれと哀願する柏木を意にも介さず、牧田は笑みと共に問いかけてくる。  奥寺は眉根を寄せ、牧田を窺う。  唐突に現れたのは柏木も同じだが、牧田の出現は偶然ではないだろう。口振りから、奥寺の存在に疑問を抱いていない。  ――どうしてこうなるんだろう。俺はただ柏木さんと話したいだけなのに。  障害として立ちはだかるのだろうか。牧田は綺麗なまでの微笑みを浮かべたままだ。  見透かしているような双眸。それが見つめるのは奥寺のみ。一瞬たりとも奥寺の後ろにいる柏木に目を向けない。  試されている。そう感じて、体に触れる雫を忘れ、誰なのかすら分からない男と対峙した。 「黙っているということは――」 「何でも」 「何でも?」 「何でも知りたいです、柏木さんのことなら。俺は柏木さんが……好きだから」 「! 奥寺くんッ」  叱るような声が背中にぶつかる。  もしかしたら牧田という男は、今の発言を自分の弱味として握るのかもしれない。  だが、そこで無言を貫いてしまったら、この感情を偽ることになる。どこか後ろめたさを感じていると証明していることになってしまう。それだけは嫌で……。 「俺は、柏木さんが好きなことを恥じてもないし、後ろめたさも感じてない」  ――そんなことを言う権利がなくとも、 「そう思ってます」 「……奥寺くん」 「うん、純愛というわけかな」 「ただ好きです」 「うん、真っ直ぐなわけだ」  そう言う口調には(あざけ)りなど全くなく、素直に納得しているようだ。  そんな様子を見ると、彼が悪人なのか定かではなくなってくるのはどうしてだろう。  そう思わせることが彼の狙いの一部なのかと深く疑っていれば、ずっと浮かべていた笑顔に陰が差しているのに気が付いた。 「そんな思いは持たない方がいい」  雨音に紛れ、奥寺の耳にその呟き入り込んでくる。  柏木には聞こえていない。黙したままだと思い込んだ柏木は、距離がある牧田にも聞こえるような声で言うのだった。 「牧田さん、用があるのは僕でしょう? 彼は帰してあげてください」  すると、牧田の顔に今までの笑みが戻る。何が楽しく嬉しいのか、にこにこと。不気味なほどまでの満面の笑い。 「本当に大切なんだね、彼のことが」  そこで初めて、牧田の瞳が柏木を見たようだった。 「どうしてその想いを、杏佳に与えることができなかったんだ……っ!」  瞬間、ざーっと雨の音が強まる。ごろごろと雷がお腹を震わせ、不穏な雰囲気を再び招いた。 「杏佳のことは、そんなふうに思わないほど……っ」 「ちが、違います! それは違います、牧田さんっ。僕は杏佳のことを愛していた、愛してたから……手離すことしかできなかったんです」 「二人で逃げればよかったんだ」 「それができるほど大人ではなかったんです……ただ約束するしか、僕は……」 「その約束も守らなかったじゃないか、君は」  奥寺の知らないことが、大人二人の間で交わされる。  と同時に、会話の断片から、柏木が返事をくれなかった理由を悟った。  ――柏木さんは好きな人がいるんだ。しかも女の人……。  落ち込んでいくのが自分でも分かった。現実では叶わないことが当たり前だと理解しながらも、どこか期待していて。もしかしたらが自分に起こるのではないか。夢のような甘いことを考えていなかったわけではない。 【愛してる】  柏木からその言葉を引き出した女性はどんな人物なのだろう? 「奥寺くん、といったかな」  いつの間にか奥寺に傘がかかっていた。黒の大きな傘だ。 「彼が殺人者だと呼ばれていたとして。それでも君は彼を好きでいられる?」 「…………え?」 * * *  これでハッピーエンドだ。  そう思いながら一人歩く帰路はなんだか寂しくて。心が痛くて。  白石の瞳から雨に混じるようにして涙が落ちた。 「……くそ、泣くつもりじゃ」  飲み込んだ嗚咽が喉に張り付いて悲鳴を上げる。  自分がやって来たことは正しい。みんなが幸せになって、明日には笑顔でいてくれるだろう。  望んだ大団円だ――そう思うのに、反して白石の心は傷だらけなのである。 「いい子ぶったせいだな、こりゃ」  近くの軒先に駆け込み、雨をたっぷり含んだ服の裾を絞る。手離したものの大きさを思い知らすように大量の水が落下していった。  雨は止みそうにない。傘を持ってくればよかったと後悔しつつ、“彼”が風邪を引かなければいいなと願う。  今でも変わらず好きな“彼”。“彼”が落とした欠片は全部それらを大切にしてくれる人物に手渡したのだから大丈夫だろう。明日になれば、いつもの“友人”に戻っているはずだ。 「ふぇっ、くしゅッ。あー…………ん、帰ろ」 「――貴方、泣いてるの?」 「!?」 * * * 「さつ、じん?」  不穏な雰囲気であっても物騒すぎる単語に思わずたじろいだ奥寺に、牧田は微笑みながら頷く。 「そうだよ。彼は殺人者」 「ぇ……柏木さんが?」 「考えられない?」 「かっ考えられないですよ、きっと何かの間違いです」 「間違い、ね。でもこれが嘘なら、彼が反応してるんじゃないかな?」 「……!」 「ほら。後ろを見てごらん。彼はどんな顔をしている?」  優しい手つきで置かれた一本の手に誘導され、奥寺は振り向く。 「か、柏木さん」  雨に濡れ続ける柏木は、否定するでもなく、悲痛な面持ちで唇を噛んでいた。 「どうしたんですか……?」 「事実だから何も言えないのさ」 「え……?」 「ショックだろう? 慕う柏木くんが誰かを殺していたなんて」 「…………」 「言葉も出てこない? そうだろうね。それが普通の反応だよ。柏木くん、これが現実だ」  そう言われ、柏木の顔はますます地面に注がれるようだった。奥寺のことなんてちっとも見やしない。故に、牧田の言葉が嘘ではないと分かってしまって。  柏木が殺人を犯した。怒るところすら想像できないほど、普段は温厚で優しい印象である。そんな柏木が殺人犯だと言うのか。  しかし、その時。牧田の口調がいきなり変わった。 「君がそう思えば思うほど、他人の目にはそうとしか見えないんだよ」 「……ぇ?」  背後からの囁きはやはり雨に紛れて柏木まで届いていないようであった。 「このままじゃ風邪を引く。家すぐそこだから温まりにおいで」 「牧田さん!」 「君もだ、柏木くん」  有無を言わさない声音が放たれる。 「お話をしよう。奥寺くんを混ぜて、ね」

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