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第1話

遠雷が光った。 一雨来るな、と(その)は思った。 閃光の後に続く雷鳴。 思った通り、雨が激しく降り出した。 梅雨入りから数週間、今日も午後には雨が降り、信じられないくらい長くだらだらと続いた梅雨が、もうすぐ明けるのだと、苑はTVで知っていた。 この雨が止めば、夏が来る。 蒸し蒸しと嫌な湿度、苦手な温度。 それでもまだ夏になりきっていない季節。 窓の外に見える庭の草木が普段よりも色濃くうっそうとして、たたきつける雨を地面が飲み込む。 その様子を見ながら、苑はメンソールのたばこの煙をゆっくりと吐き出した。 そのとき玄関のチャイムが鳴った。 苑が室内の防犯用カメラの画面を確認する。 画面に映ったのは、どこかあどけない少年だった。 「はい」 たばこをくわえながら、苑が応対する。 「あ、あの、武蔵野心(むさしのこころ)洋裁教室ですよね…? 僕…オーダーした服があって、眞井(まない)と申しますが…」 「ああ、ちょっと待ってな」 苑が玄関のドアを開けると、少年が立っていた。 おっ。 苑は少年の様子に気おされた。 彼はまず、とても愛らしかった。 そして張り詰めた表情をしていた。 ポーチにたたずむ姿はどことなくはかなげだ。 つまり、苑のタイプだ。 むせるような草いきれとともに、少年から香る、ほのかな匂いがした。 「…ん? どしたの?」 「あのっ、(こころ)さんはいますか…?」 「ああ、兄貴ね。ちょっと待って。呼んでくるから」 少年は両手で水色の雨傘の柄を握りしめている。 紺のポロシャツにデニム、斜め掛けの茶色い革のバックを下げて、じっとしている。 「とにかく入って」 「は、はい…」 苑は二階に上がり、兄の心の部屋を訪った。 ノックをして返事を待ち、ドアを開ける。 部屋の中には、何体ものトルソー、大事な生地のストック、副資材、書類などが、ひしめき合っている。心はその中に埋もれて、三台ある部屋のミシンのうち、一台に向かって集中している。 「兄貴、それ、今縫ってるの、もう上がるか?」 「ああ、もう少し」 「お客なんだけど。まないさん」 「ああ、このドレス頼んだ人だよ」 ドレス? 確かに心が挑んでいるドレスは、純白でレースをふんだんに使っているのがわかる。 「待っててもらって。お茶をお出ししておいてくれ」 「わかった」 「たばこは消して」 「はいよ」 少年は武蔵野心洋裁教室、と書かれた看板をみていた。 それは奥まった玄関にさりげなくかかっていて、陶の板でできていた。 文字部分も陶器製だった。 こんなに小さくては、飾りにもならないのではないか。 初めて来たときにも思ったけれど…。 「まない君だっけ? 入って。傘は傘立てに。お茶飲んでて」 振り向くと苑がにこにこしていた。 このひと、なんだか調子がいいけど、大丈夫なのかな、と少年は思っていた。 「兄貴なら今縫ってる最中だから。あとちょっとだから、入って」 手招きされて恐る恐る敷居をまたぐ。 苑が電気ケトルに水をくみ、お湯を沸かす。 アイスティーを作った。 「降られたでしょ。タオル要る?」 アイスティーのグラスを差し出すと、応接間のソファに座った少年が、少しほっとしたような顔をする。 「あ、あの」 「要る?」 「いいえ…っ。お茶、頂きます」 苑は上機嫌で少年の相手をした。 「ドレスはうちじゃ珍しいオーダーだから、兄貴、楽しいらしいよ。今日が受け渡しなのに、まだこだわってるし」 少年が含んだお茶をごくりと飲んで頷く。 「…はい」 なんだか、やたらと色っぽい。 太すぎないけれど確かな眉。 くっきりとした二重の、大きな瞳。 柘植(つげ)のくしででも梳いてやりたくなるような黒髪。 つやかやかで柔らかそうな唇。 白い肌。 できすぎだと思う。 「あれ、ウエディングドレス? 誰が着るの? 君?」 「あの、…僕の姉です」 「姉? 採寸は?」 「あの、母と僕でサプライズでプレゼントしようって決めて…母が姉の服のサイズ知ってるので、それで…」 「お姉さんのこと好きなんだ」 少年がびくっと体を震わせる。 「? 違うの?」 「い、いいえ…」 なんだろう。 どこか変だ。どこか、不自然だ。 向かい合ってソファに座っている苑にも、その妙な気配が伝わってくる。 「あのさ」 苑は少年の座るソファに移動しつつ言った。 「名前訊いていい? あ、俺は苑。武蔵野苑(むさしのその)。草冠の苑ね」 隣に座ると彼は小動物のように小さく震えていた。 「(つばさ)です」 「翼君さ」 「…はい」 組んだ両手の肘を両ひざに載せて、少年の瞳をのぞき込み、苑が言う。 「キスしていい?」 「!」 翼が紅茶を取り落としそうになった。 そのカップをソーサーごと受け取って、彼の耳元にささやく。 「今飲んだの、実は媚薬が入ってる」 「…え…っ」 「君は今めちゃくちゃキスがしたいはずなんだ」 「嘘…」 「本当に」 戸惑う大きな黒い瞳は震えて、唇が怖がって引き結ばれている。 それから翼は、力を込めて目をつぶった。 あれ。 意外と逃げない。 押しのけられるか、ひっぱたかれるか。 どちらでもいいと苑は思っていたのに、彼は苑の七分のリネンのシャツ袖を片方つかみ、観念したように両目をつぶっている。 まぁいいや。 苑という男は、からかいや遊びの分には手が早い。 本気になれば、ことはまた違ってくるのだが…。 唇をそっと重ねる。 少年の顎をとらえて、背中を支える。 舌、入れちゃおうかな。 少年は相変わらず唇を引き絞り、目をぎゅっとつぶったままだ。 緊張を解くためにわき腹を少しさする。 唇をそっと舐めた。 苑の舌が口の中に侵入すると、少年は目をおずおずと開いた。 もの言いたげだ。 ちょっと離れる。 「…何?」 「あの…」 「うん」 「たばこの味…」 何とも初々しい答え。 すっかり満足した苑が、もっと少年を味わおうと身を乗り出した。 と、「苑! 何してるんだ、お客さんに!」と、心の声がした。 やば。 首をひねって振り向くと、心は大きな平たい箱を両手に捧げ持ち、苑をにらんでいる。 「これは双方合意のもとで…」 「馬鹿! 翼君、震えてるじゃないか!」 「心さん、僕…」 少年がそうつぶやくと、心の剣幕が収まった。 「翼君、大丈夫?」 「はい…」 「苑、謝れ」 「悪り()。かんべんな。さっきのあれ、うそだから」 「…!」 「ごめんね。怖い思いさせて」 「い、いいえ…」 「あーんなかわいいお客がいたなんて、知らなかったぜ」 二階へと続く階段をのぼりながら、苑が言った。 「三週間前かな。オーダーに翼君が来たときは、お前はその場にいなかった。部屋でずっと仕事していただろう。…とにかく苑、もう二度とあんな真似…」 「はいはい」 「ちゃんと反省してるのか?」 「してるよ。でも人の色恋に邪魔はできねーだろ、いくら兄貴でも」 「恋?」 「おうよ」 「本気なのか?」 「本気も本気。大マジよ」 心が深いため息をつく。 「まったく…お前はいつも、何を考えているのかわからない」 「俺にはわかってるさ」 心がもう一度ため息をついて、 「とにかく、納得のいく出来になってよかったよ…」 と言った。 いつの間にか雨は上がり、空は千切れ雲のむこうに晴れ間をのぞかせていた。 夏が来るのだ。

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