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第2話

そののち、五日後。 区立図書館の購買部で、焼きそばパンとコーヒーを注文した苑が、座る席を物色していたとき。 「…あの、苑、さん…?」 後ろからおずおずと声がした。 苑が振り向くと、彼がいた。 手に文庫本をもって。 「!」 「落ちます!」 少年は苑がとり落としそうになったトレイを支えた。 「また会えてうれしい」 「…いっつもそうやって、女の人くどいてるんですか?」 「無い無い。いつもじゃないし、本気で言ったんだよ」 少年の頬にさっと赤みがさす。 「うれしいよ」 眼をそらされた。 翼は水色のダブルガーゼの半そでシャツに、デニムと以前あった時に持っていたかばんだった。 水色とか、紺色とか、ブルーのデニム…青が好きなのか。 「苑さん、」 「ん?」 「パン食べに来たんですか?」 「ああ、あとはもう家に読む本なくなったから」 「本、好きなんですね」 「まーな。何借りたの?」 「ハインラインの「夏への扉」です」 「ああ、猫好き? 猫好きは泣くぞ、それ」 「好きだけど…」 「夏への扉ね」 そのSF小説は、苑がまだ少年のころに手にしたものだった。 「苑さんは、何借りたんですか」 「適当に」 「そうですか…」 「もう帰る?」 「はい」 「待ってな。送ってく」 苑は焼きそばパンを帆布のバッグに放り込み、コーヒーの紙コップを一気に空にした。 百日紅の白と紅の花が、枝を重たくしならせている、図書館からの並木道。 二人は整備された石畳の歩道を、少し離れて歩いていた。 受けは白いハンカチで肌を伝う汗を拭いていた。 お育ちがいいな。 それが苑の感想だった。 受けの様子はこの前同様、どこか緊張していた。 張り詰めた面持ち。 やっと息してる。 そんな感じだな。 容姿だけをいえば、かわいいのに。 パステルで描いたような、ふんわりとした印象の、翼。 「翼さ」 「?」 「この間キスしたとき、逃げなかっただろ」 「…っ!」 キスをしても逃げなかったのは、「キスされたかったから」だ。 「お前、なんか、いつも緊張してるし」 「されたかった相手」には「」。 だから思い詰めていた。 苑はそう判断した。 「そ、そんなこと…」 「あるだろ。お前、好きな奴でもいるんじゃないの?」 「!」 翼は黙ってしまった。 (きっとそいつは俺じゃないけど) 苑はたばこを取り出して、火をつけた。 ゆっくりと吸い込み、吐き出す。ため息と一緒に。 「…苑さん」 「ん?」 「どうして、たばこ吸うんですか?」 「んー…どうしてって、習慣かな」 「健康に悪いのに。やめたほうがいいですよ」 苑は加えていた燃えさしを指で挟みとって、翼に向き合い立ち止まった。 「もしお前が、俺がこの先たばこ吸いたくなるたびにキスさせてくれる、っつったら、やめてもいいけど?」 百日紅の木立ちの影の中で、みるみる翼が赤くなる。 めまいがするような夏の歩道は、何の水分もない。 ただ苑が目に留めた先に、赤い、血の跡のようなものが残っていた。 なんだろうか。 再び翼を見つめると、真っ赤なままこちらを凝視していた。 謝って、撤回しようとすると、翼がそのままぎゅっと目を閉じた。 この間と同じように。 苑はたばこを乾いた側溝に捨て、翼にキスをした。 ふんわりとした翼のシャンプーの匂いと、汗ばんだシャツの洗剤の匂いがした。 そしてほのかなミルクのような甘い香り。 初めて彼と会った時の香りだ。 おそらく翼の体臭なのだろう。 木立の陰で、二人はしばらくそうしていた。 蝉の鳴き声が雨のように降り注いでいた。 うかつにも苑が抱き寄せてしまった体はしなやかだが、痩せすぎていた。 「…お前、眠れてる? ちゃんと食べてるのか? 」 翼はうつむき、答えらえなかった。 ほほと耳は紅く染まっているが、顔色は白過ぎた。 「作ってやるから、ご飯食べに来いよ」 「…え…」 「来いよ。いつでもいいから」 「あ…」 「来いよ、絶対。お前、好き嫌いある?」 「な、ないです」 「分かった。俺の得意料理にする。そりゃもう、頬っぺたがぼたぼた落っこちるくらいうまいぞ。食わなきゃ勿体ねーぞ」 「…あの…!」 「え?」 「え、ええと、…ありが、とう」 その瞬間、強い風が吹いた。 翼は鞄のひもをしっかりつかんで、白い灼熱の中、こちらを見ている。 熱さで多少強みを増しているかもしれないが、彼の頬には赤みがさしていた。 風をはらんだ服が、膨らんで、余計に翼の細さを際立たせている。 その姿から目が離せない。 一歩も動けない。 目を見張った苑は、のどの渇きと胸の動悸を感じた。 落ちた。 完全に、恋に落ちた。 お前が今、俺を必要としている。 それだけでもいい。 どんな理由でもいい。 お前がほかの誰かを好きなのだとしても。 「…明日、予定あるか?」 「ない、です」 「じゃあ、起きたら俺のスマホに電話して。そのまま朝飯食わないで家に来てくれ」 着いた先は、水色と白の壁でできた、二階建てのアパートだった。 「…え、ここ? お前、実家暮らしじゃないのか」 「姉が嫁ぐから…姉さんは…親と暮らしたいって言って…親に勧められたんです。僕も大学生だし、そんなのもいいなと思って…」 体よく追い出されたんじゃないか。 苑は怒りを感じたが、翼が怒る気配もなかったので、黙っていた。 「じゃ、な」 「はい」 後ろ髪をひかれる思い。 別れのセリフを口にしながら、彼がドアの向こうに吸い込まれてゆくまで、苑はその背中を見つめていた。寂しそうな背中に思えた。 振り仰ぐと、どこまでも真っ青な空に、入道雲が育っているのが見えた。

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