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第3話

苑は料理が得意だった。そして、心も。 苑たち兄弟の両親は、彼らが幼いころに自動車に乗っていて事故に巻き込まれ、あっけなく死んでしまった。 そののち心と苑は、二人きりで生きてきたのだ。 小学校で授業中だった苑は、その時何も知らず、職員室にいた教師が受けた連絡で、同じく上級生だった心と、直ちに病院へ向かった。けれど時は遅すぎた。何もかも、もう済んでいて、事実は何も変わらないことが判った。 (苑…よく聞いて) しゃくりあげている幼い苑の肩を、励ますように心が掴んだ。 (父さんと母さんは、もう帰ってこないんだ) (これからは、苑と僕と、二人で力を合わせて生きて行かなきゃ…) (ぼくは母さんの洋裁教室を継いで、家をなんとかする) (苑が独り立ちできるまでは…泣いたっていいから、生きるんだ、苑) 勿論、幼い二人に自活などできるすべもなく、そのまま母方の祖父母の家に引き取られたのだ。 祖父たちの家は、F県の山あいにあった。 智恵子抄に出てくるその町は、雄大な自然と大きなパノラマの天体観測ができる、一言でいうなら田舎だった。 東北訛りをコンプレックスにする人は多いが、苑も心も、あの温かいやさしい方言が大好きだった。 畑仕事をして日に焼け、赤銅色の肌で腰が曲がったばぁちゃん。ばぁちゃんの指は男のように太かった。無口だったじいちゃんは痩せていて、とてもやさしい人だった。 健康のためにと毎朝食膳に上る、鉄分の多い成分調整の牛乳のまずさにも、直に馴れた。苑は父母のことを思い出すと、じいちゃんの枕辺まで行って、「一緒に寝ていい?」と訊く。するとじいちゃんは「おお、おお、こっちゃあ()」などといって、苑を一緒に布団に入れてくれた。そのことを苑は大事な思い出として、今でも覚えている。 ごく小さいそんな頃、この季節には……「夏」には、虹色にきらめく、銀の体のトカゲを捕まえたり、アイスクリームの保冷剤として入っていたドライアイスを、井戸の中に投げ込んだりして遊んだものだった。家の近所にあった、鎮守さま、と呼ばれる神社の森。こんな夏の夕暮れ時は、パノラマの空を太陽が焼き、次第にその炎が弱まると、紫色から黒いシルエットになった山のふもとの村里に、暖かい民家の明かりが、ぽちぽち灯って、幼い苑はその風景を見ると、胸が締め付けられるような思いをした。花火大会、盆踊り、今では過疎化して子供も青年もいなくなった、あの山あいの田んぼだらけの田舎町。苑の、そして心の思い出がいっぱいに詰まっている町。 ゆでた肉と野菜を和えながら、苑はぼんやりとそのころのことを思い出していた。 次に心に浮かんだのは、自分を励ました兄、心の(ひとみ)だった。 心は兄だ。 兄にはいつでもかなわない。 自分が見ていないことを兄は見ているし、聴いていないことを聴いている、そんな気がする。 それが誇らしくもあったし、ほぞをかむような気持ちの時もあった。 今日の都合のことを苑が話すと、心は「外で時間つぶすから」と外出してくれた。 そんなところもかなわない度量の深さだ。 料理の出来栄えも、本当は心のほうが上だった。 心は繊細な心配りをして料理を作るので、結果としてそれが味の良さに結びつくのだ。 苑は出来上がった料理を味見した。 うん、うまい。 よかった。 クーラーを適度に効かせた部屋に、料理の皿を並べる。 電話は30分ほど前にあったから、もうすぐ着くはず。 冷蔵庫にデザートのスイカも冷えている。 と、玄関のインターホンが鳴った。 エプロンを外して、飛んでいく。 「よっ」 「こんにちは。あの、暑いですね…」 翼はたたんだハンカチで丁寧に汗を拭いていた。 顔は赤く、ドアを開けた途端、うだるような外気が押し寄せてきた。 往来の喧噪も聞こえる。 けれど苑の目に見えたのは翼だけ、いつものように緊張した頬と、あらがえないほどの色気をまとった唇、黒髪が縁取る顎の輪郭、それと瞳。 苑は深呼吸をした。 「…部屋ン中冷えてるから。入って」 「お邪魔します」 料理の器の並んだテーブルに案内する。 「のど乾いてるだろ」 「あ、はい…」 椅子を引いて、座らせてやる。 「ほれ。やかんで煮出したやつ」 氷の入ったグラスに、ピッチャーから麦茶を注ぐ。 「ありがとう、頂きます」 翼の肌は白かったが、暑そうに顔を真っ赤にしていた。 ネイビーのブロードのシャツの、薄い胸が上下するのを見て、苑はどぎまぎした。 のどがこくりと動いて飲み干した唇にも。 (ドーテーじゃねえんだからさ…) 苑は両性愛者、バイセクシャルだ。 経験はそれなりにある。 なのに…。 「美味しい…」 「よかった。次はこれ食ってみ」 豚肉と和えたサラダの皿を差し出す。 サラダにはレタス、キュウリ、ミョウガが使われ、肉はゆでてニンニクとショウガのつけ汁につけてある。全体を和えてシソの千切りを散らせば、ボリューム満点の夏のサラダだ。 一口食べて咀嚼すると翼が笑顔になった。 「美味しいです。これ、なんていう料理ですか?」 「なんだろ。「夏のサラダ」かな」 翼が小さく噴き出した。 「いいですね。夏のさなかに、夏のサラダ食べるのって、美味しくて、楽しい」 「だろ。遠慮しないで一杯食えよ」 「はい…苑さんはいただいたんですか?」 「それ作る前に軽く食ったし、あとは味見したから。そんな、気ぃ使わなくていいぜ」 「はい」 一人分の食器に、一人分の料理。 翼がにこにこしながら食べる様子を、苑は斜め向かいに腰かけて眺めていた。 「あ、そういえば、ドレスどうだった? 出来映え、みんな満足してたか?」 「ええ…」 翼が無口になり、苑が訝しんだ。 それを取り繕うように、翼が言葉を継ぐ。 「…とっても、素敵でした。姉さんは幸せそうで…」 「ならよかった」 やっぱり、どこかおかしい。 彼の姉の話題に踏み込むと、翼は態度を硬化させてしまう。 彼の姉の? もしくは家族の? 一体なぜだろう。

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