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第4話

そののち、苑は翼のアパートまで、この間と同じように翼を送っていくことにした。 前菜と主菜を兼ねた、夏のサラダののちスイカをふるまい、女のような長話をして、それが途切れると苑がお茶を淹れたり、手作りのお菓子を差し出したりして、ずいぶん時間が経った。 翼を送っていったのは、たそがれの時刻だった。 昼間の強烈な日差しは和らいでいるが、まだまだ蒸し暑い。 地面に二人の長い影ができる。 道なりに、両脇の家の庭先には朝顔やゴーヤの緑のカーテン、ヘチマが顔をのぞかせている。 「朝顔のタネって、なんかワクワクしないか?」 翼が笑った。 「します」 蝉しぐれのなかで、二人はだんだん無口になっていた。 翼が疲れないように、もっと長く一緒にいられるように、苑は歩くスピードを落とした。 今日という日は久しぶりによく話した。 手探りで相手のことを、知ろう、もっと知ろうと努力したし、自分のことも伝えたくて、けれど焦りばかりが先に出て、それがもどかしかった。 暑く重苦しい一日の終わり、翼だけその重さから逃げ出した天使のようだ。 その名の通りに、翼の背中に羽根でも生えて、どこかへ飛んで行ってしまいそうだった。 そんな夢想のうちアパートについてしまった。 「あの…」 「ん?」 翼が急に立ち止まる。 「約束は…」 「え?」 「…次は、いつ、会えますか」 苑は目を見開いた。 翼のそのたったの一言で、勝手に顔がほころぶのがわかる。 「いつでも。電話するし、お前もして来いよ。待ってるから」 「はい」 「翼、」 「え?」 いつもお前のこと考えてるよ。 それは言えなかった。 「…電話、しろよ」 翼が花がほころぶように笑った。 「はい、します」 「じゃ、な」 「はい」 ドアが閉まるまで、背伸びまでして、苑は彼の姿を見つめていた。 蝉の声が、とたんに押し寄せるように耳に響いた。 翼。 ひらりと建物の屋上の、コンクリートの地面を踏み切ると、翼の体が宙に浮かんだ。 危ないぞ。 (苑さん。神様に翼を頂いたんです。ほら、鈴の音がするでしょう) 翼の背中には七対の翼が生えていた。 (僕はお弔いのために天に帰ります) お弔い…? 誰の? 誰の弔いなんだ? (言えません。それだけは言えません…) 目を覚ました苑の耳元で鳴っていたのはスマートフォンだった。 着信は翼から。今は深夜だ。 苑はじっとりと額にかいた汗を腕で拭って、通話マークを指でタップした。 「もしもし?」 (苑さんですか、今大丈夫ですか) 「どしたのお前」 (怖い本のテキスト、ネットしてたら偶然読んじゃって、僕、そういうのすごく苦手なのに、読了しちゃって、今すごく怖いんです。トイレも行けなくて…だから、人と話したくて) 「そういう時は「あなたと話したくて」って言うんだよ」 (ご、ごめんなさい…) 「謝んなくていいから。とりあえずトイレ行ってこい」 (苑さん、何か歌っててください) 「分かった。ハンズフリーにできるか?」 (はい) 苑は「きらきら星」を英語で歌った。 その間少し離れたところから水の音が聞こえ始めた。たぶんトイレのドアの外にスマホがあるのだろう。 かっと顔が熱くなるのが分かった。 なんだか俺、振り回されてるよな…。 「Twinkle twinkle little star ,How I wonder what you are…」 (苑さん、ありがとうございました) 「終わった?」 (はい) 今、お前のあられもない姿想像して、頭ン中妄想で一杯だよ。 「…あのさ。変なこと訊くけど、」 (はい) 「お前んちとか、お前の身近な人間で、最近亡くなった人いないか?」 先ほどの夢が、どこか引っかかった。 「変なこと訊いてごめんな」 (…苑さん) 「え?」 (ごめんなさい) 「何で…?」 (嘘なんです) (ドレスのこと、全部…姉さんはドレス着なかったんです。姉さんの結婚相手、突然死したんです。だから…) 「…え…えっ?」 (だから、嘘ついてごめんなさい) ――違う、そうじゃない。 それは苑の直感だった。 混乱している頭の中を、落ち着け、と言い聞かせる。 翼はまだ何か隠している。 嘘を謝っているのではない、苑には計り知れない何かを謝罪しているのだ。 姉の結婚相手が亡くなったことを、しらふで黙っているような性格じゃない。 翼はアパートに越した理由を、「姉が実家で親と同居したがったから」、と言っていたはずだ。 矛盾している。 越した後に婚約者が死んだ? しかしそれでも翼は、あの食事の日に俺にそのことを話さなかった。 つまりそれは、 「嘘だな」 (!) 「それは嘘だな。だろ?」 翼は黙っている。 声を押し殺して泣いているのかもしれない。 「嘘でもいいよ。でもな」 (……) 「お前が悲しいのは、俺が嫌だ」 (苑さん…) 声が震えている。 (許してくれますか…) 「許すも何も…怒ってないぜ」 (ごめんなさい…) 通話の向こうから、翼の泣いている気配がする。 苑は迷い、また「きらきら星」を歌うことにした。 翼の迷った心が、居場所を見つけるように、あふれ出すものを押し流すように、苑は祈った。 しばらくそうしていると、横たわった体を受け止めるマットレスの軋みと、鼻をすするしゃくりあげる声と、それに続いてかすかな音で、安らかな寝息が聞こえだした。 おやすみ、翼。 いい夢見ろよ。 苑は通話を切って、もう一度ベッドに横たわった。 その日は長い間寝付けなかった。

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