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第5話
その翌日、昼前に翼から着信があった。
昨夜のお礼と、会いたい、という内容だった。
二人で図書館で落ち合うことに決めた。
この町の区立図書館はお互いの家のちょうど真ん中くらいにあって、時々ここで待ち合わせしたりもしていた。
苑がソワソワと翼を待っていると、パステルでぼかして描いたような、ふんわりとした翼の頭がひょっこり現れた。
苑は不意打ちを食らって、動悸がするのを隠し切れない。
普段の、翼に関する、あまり知られたくない妄想が、不意に胸をよぎり、余計にどぎまぎしてしまう。
「苑さん…? 」
「……、よ、」
「はい」
かわいい。
苑の逡巡をよそに、翼は微笑して苑の言葉を待っている。
お前が好きだ、なんて突然言って、嫌われたら。
苑の心に、水槽に落としたインクのように、不安が不定形に広がっていく。
「な、んでもない」
「はい…? 」
苑の顔は真っ赤だ。
何で、こいつはこんなに察しが悪いのか。
察してほしい。
でも、知られたくない。
苑の心が乱れる。
翼との会話に、苑がだいぶ落ち着きを取り戻したころ、翼が切り出した。
「あの、僕……」
翼は今日は、黒いTシャツと白いシャツ、白っぽいベージュのコットンパンツだ。
「ん?」
「…僕、苑さんに、教えて欲しいことがあって……」
ドキッとした。
教えて欲しいこと。
キス? それから?
その先だって、最後までだって、しっかりじっくり教えてやるけど。
「な、なに?」
「僕みたいな基礎のない人間でも、パタンナーって勉強したらなれますか?」
そっちか。
そっちね。
「まぁお前次第だよ。教えてっつーなら教えるし。でもお前、大学は?」
「僕……あの、その、そ、苑さんと同じ道にしたくて……。学校で習うことが、いま全然、心に響いてこないんです。僕の今一番興味あることが、学校じゃなくて、苑さんの…その、お仕事なんです」
翼はうつむきがちに言い終えると、言葉を切った。
白い両手で前に抱えているかばんを持つ手が、ぎゅっと結ばれた。
頬は桃のようなうすくれないだ。
苑と言えば、もう子供のように単純にうれしくて、頬は弛緩し、舞い上がっていた。
そのために多弁になって、その気持ちを悟られまいと努力して言った。
「そ、っか。でもお前、人のたくさんいるとこ、平気か? うちの教室、結構大所帯だぞ?」
不服にも、あのスケベ兄貴の人気により…という言葉は飲み込んだ。
「最初のうちは基礎しっかりやって、テキストはいるよな……ミシンはシンプルな機能のから始めて…簡単な……俺の部屋に使ってないやつ一台あるし、生徒さんのも…。…あ、もちろん行き帰りは送り迎えしてやるよ」
「苑さん、」
「ん?」
「ありがとうございます」
「何言ってんだ。これからだぞ。手加減なしでみっちりしごくから」
なんかやらしい言い回し。
「はい!」
笑顔が可愛い。
なんて言えばいい?
どう告白すればいいんだ。
俺は今年で28歳だ。十代の少年じゃない。なのに、翼を前にすると、何の手練手管も使えない。知れば知るほど、お前は魅力的で、無邪気で、なのにいつもどこか、不自然に緊張している。
俺は助けにならないのだろうか。おそらく今はそうなのだろう。翼は、まだ何も秘密を打ち明けていない。
でも……いつかでいい、いつか話してくれればいい。
そうしたら自分も、この愚かしい恋心を、お前に告白できるかもしれない。今日ではない、いつか。
苑と翼は、きまぐれにやさしい夕方の涼風にひと時吹かれ、別れた。
苑の心は、凍えそうに寒い日に湯船につかって温まったように、ほのほのと胸にあふれ出る何かを感じていた。
それが幸福であることに気づくと、苑は少し笑った。
「あ」
「あ……」
武蔵野心洋裁教室を勉強のため、訪れた翼。
何もわからないままここへきてしまったが、心が迎えてくれた。
そしてそのあと、心に健 という青年を紹介された。
青年と言ってもまだどこか幼い感じのする、繊細そうなひとだった。
自分と同じくらいの年だろうか。翼はあまりじろじろ見るのは失礼だと思いながら、健を見つめた。
「こんにちは」
「こんにちは。よろしくお願いします」
「はい。よろしく」
健は翼に微笑みかけると、そのまま心を見上げた。
心も健を見た。
一瞬の既視感。
翼は自分の直感を、そのまま、健にぶつけてみた。
心が席を外した時に、思い切って訊いてみた。
「あ、あの……」
「え?」
「そ、その…。…健さんて、心さんと……え、と…」
健は最初、よくわからないという表情でいたが、翼の様子を感じ取って言った。
「はい。僕は心さんとお付き合いしています」
「あ…」
やっぱりそうだった。さっき、見かわした二人の視線が絡んで、とても幸福そうだった。
「ご、ごめんなさい」
「いいえ」
健はニコニコして翼の手をそっと取り、一台のミシンの前に導いた。
「僕も心さんのような、お針子を目指しているんです。あとで苑さんがきちんと教えてくれると思うけど、苑さん、今日は納期で。最初は基本的な生地の特徴と、簡単な用語を覚えましょう」
「は、はい」
健の説明は平易で、簡潔だった。
翼もすべての神経を勉強に傾けた。
一時間ほどの時間が流れて、二人ともほうっとため息をついた。
すると心が「休憩しようか」といって、アイスティーを淹れてくれた。
「今日は生徒さんのいない日でしょう。苑がどうしても今日だって、僕に言ったんだよ」
「ふふ。苑さんがどんな顔してたか、わかる気がします」
健と心がお茶を飲みながらリラックスしているのがわかる。
翼は悪いと思いながら、その様子を見て、胸が痛みを感じていることに気づいた。
それは二人を見て、思い出されたことについて。
「…? 翼君、大丈夫?」
心が不審がる。
「…あっ…いいえ、はい…」
健も自分を見ている。
ダメだ、ちゃんとしなきゃ。
ちゃんと、ふつうに、邪魔な感情を切り捨てて……そして平気なふりをしなきゃ。
「大丈夫です」
「そう?」
「はい」
そういった翼の頬は、いつものように凍っていた。
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