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第6話

そのままお茶の後、また勉強を再開して二時間は過ぎただろうか。 ほどなくして苑が外出から帰った。 翼を見て、今日一番の笑顔。でも、仕事の徹夜明けなので、どこか憔悴している。 「よ!」 いつものあいさつ。 それに続いたのは。 「けーんー」 あ。 健さんの頭を、くしゃくしゃってして、眼を、ちょっと細めた…。 「じゃあ翼、送っていくよ」 「苑さん、眠ってください。僕は一人で帰りますから」 「なんの。送りたいんだから送らせろ」 翼は苑の体調が不安だったが、苑はニコニコしていた。 「ああ、仕事明けに一服したい」 「!」 「…お前な、身構えなくていいぞ」 「だって、」 「大丈夫。嫌なら無理やりしねーから」 「べ、別に…い、嫌じゃ……」 苑が笑った。 「無理すんな」 翼は思った。 無理はしていない。 ただ、この渦を巻く(うしお)のような感情を、どうしていいかわからなかった。 そしてその渦の中心に飲み込まれてしまえば、そこにはきっと苑がいて、自分を助けてくれる。 そこまで勝手に想像して、翼は赤くなった。 僕、馬鹿みたいだ。 苑さんは僕をからかっているのに。 独り相撲って僕のことだ……。 セミの鳴き声が、滝のように降り注ぐ。 「苑さんは、……もしかして、健さんのことが……」 清水の舞台から飛び降りるつもりで、翼が問うた。 「…ん? ……まーな」 「……」 やっぱり、そうなんだ…。 一体どうすればいいんだろう。こんなとき。 言葉なんて何にもならない。 でも、僕たち人間は、その何にもならないものに頼っているから、言葉にする意味を見出さなくては。 「好きだった人」 苑の言葉に、翼の心は遠かった。 まるでふらふらと蝶のように、あの入道雲の彼方へ飛んでいくように。 「兄貴に取られちゃったけどね」 「…それじゃ……辛かったでしょう、苑さん…」 「まーね。最初から判ってたからな。健が兄貴を好きなこと」 苑の呼ぶ、「健」という呼び捨ての名前が、翼に小さな棘になって、再び胸を刺した。 何気ないふりをしなきゃ。 感情を切り捨てなきゃ…。 「気になった?」 「!」 「お、反応ありじゃん」 「苑さん! か、からかわないでください!」 翼が赤くなる。 それを見た苑は、満足げだった。 翼はまだ、心を切り分けていて、それに気が付かないのだが。 と、そのとき突然、苑を妙な感覚が襲った。 何だ? ……違和感……何か変だ。 …そう、さっきから俺たちは、角を曲がっていないか? いつも話すこと、翼をみつめることに夢中で、気付いてもいなかったこと。 右に折れ、左に折れ、また左折……これは何か、ある場所を避け、わざと遠回りしている感覚だ。 「…苑さん…?」 「…あ…、あの…」 落ち着いて考えろ。苑は自分に言ってみる。 図書館から翼の家までは?  あの百日紅の、団地沿いの舗道を来て……やはり遠回りになる。 「はい」 「お前さ、…その、道に迷ったんじゃないの? さっきから角を曲がってばっかいるし…」 苑の方便に、一瞬、翼が体をこわばらせた。 「……そ…う、です、ちょっと、迷っちゃって……」 痛々しいほどゆがめられた顔は、いつもの笑顔ではない。 「そ、か。…なら、あっちの道行ってみるか」 「え…っ」 「…嫌なの?」 「…い、いいえ…」 緩やかな坂道は下りだ。 まだ、一度も来たことの無い道。 苑の既視感。 そうだ。 鎮守さまの森の空気に似ているのだ。 ばぁちゃんに何度も言い含められた、ふざけたり騒いだりしてはいけない、他人が侵してはいけない、神聖な場所。 俺はさっきの言葉のつぶてで、翼に「その場所に入ろう」、と言った。 もしかしたら、そうして、俺は翼の聖域にいま、土足で立ち入っているのかもしれない。 少しの間道なりに進むと、相変わらずの住宅街だが、戸建ての家が立ち並ぶようになった。 もし、自分の勘が正しければ、そこに翼の実家がある。 そして、翼の隠そうとする何かが。

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