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第7話

心の片隅でずっと鳴っていたシグナル。 初めて会ったときから、ほとんど変化しない、緊張した面持ち。 しぐさや体、ときに全体に漂うぎこちなさ。 つく必要のない嘘。 避けて通っていた帰路。 そのすべてが、今になって看過できない警戒音として、苑の中で鳴り響いている。 そのとき、道の向かいから男女の二人連れがやってくるのが見えた。 一人は背の高い男で、やや筋肉質な体つきをしているが、清潔感のある格好と髪型で、女のほうを見ていた。両手に茶色の買い物袋を抱えている。女はつばのある麦わら帽子を被り、手にワインを抱えている。買い物の帰りであろう、そして深い中であろう二人の、その女のほうが、まるで翼を軽やかに明るく、あけっぴろげにして、屈託のない笑顔と、長い髪をつけ足せば、翼にそっくりであることに、苑が気付くのと、男がこちらに気づき、声をかけたのが同時だった。 「翼? 翼じゃないか」 苑は翼を見つめた。 「知り合いか?」 翼は頬を凍らせ、全身をこわばらせて、現在の一瞬一瞬を拒否していた。 翼が黙っているので、苑は挨拶をして、名乗りを上げ、自己紹介し、相手にも求めた。 「僕は松枝和孝(まつがえかずたか)です。こちらが妻の浩子。彼女は翼の姉です。じゃあ今、翼は苑さんにお世話になっているんですね」 「翼、元気にしてる? 和孝さんも心配してたのよ?」 浩子が言う。 翼が、顔面を蒼白にして、耐えがたいものに耐えている。 これか? これがお前の隠したかったものか? だとしたら…いや、まだ何かわからないことがある…あの時の「嘘」についてだ。 翼はただ黙っている。下唇を色が変わるほど噛みしめ、うつむいている。 その時、思いがけなく、事態を打破する出来事があった。 雨粒がぽつりぽつりと降ってきたのだ。 「……翼、いったん俺んち戻ろう。じゃ、俺たちこれで失礼します」 「ええ、それじゃ…。雨、ひどくないといいな…」 和孝と名乗った男が翼の姉に言った。 すでに心は妻のところにあるのだ。 この二人に、翼の心の鍵がある。 そしてそのことに、当人たちは無関心なのだ。 苑は翼の手を取り、武蔵野家へ向かう道をたどり始めた。 初めて翼と出会った時、雨が激しく降っていた。 その時を思い出させようとするように、まばらだった雨粒が、一斉に苑と翼を打ち始めた。 何も言わず、何も訊けない。 涙が、翼の頬に流れていないか、それさえわからない。 ただ家までの道を、手をつないで歩いた。 無人の武蔵野家につくと、苑は翼をバスルームへと続く脱衣所へ連れて行き、濡れてしまった服を脱ぎ、翼の服も脱がそうと試みた。 翼はそれを拒んだ。 本当に嫌がっているようで、それでもどこか矛盾したおとなしさをかわるがわる示す翼に、苑は訝しんだ。 「ほら、もう隠せねぇんだから、緊張すん、な……」 ハッとした。 翼の裸の背中に、大小いくつもの、何度も何度もつけられたであろう、傷跡があったのだ。いや、正確には傷跡だったものが薄くなり、またその跡が消えないうちに傷つけられ、そうしてついたいくつもの、いくつもの傷跡が……。 これは、なんだ? 七対の翼、夢で見た、あの、大きく美しい翼を、凶暴な手で荒々しくもぎ取られた、痕……? 翼はこれ以上ないほど痛々しい顔をして、つぶやいた。 「…苑さんには、隠し事したくなかったけど、でも…」 苑が言葉を失っていると、 「これだけ、このことだけは知られるの、怖かった…」 そう言って瞼を閉じた。 涙がぽたぽたと、脱衣所の床を打った。 苑は混乱していた。 翼の言葉に全身の神経を集中していると、心から苑のスマホへ着信があった。 『健君がもう少し一緒にいたいっていうから』 『夕食を外でとることになったよ』 『9時までには帰ると思うけれど変更があったら知らせます』 最後に「頑張れ」と書いたユーモラスなスタンプが押してあった。 苑は気が付かず、翼の次の言葉を待っていた。 途方もない謎を、秘密を、明かそうとするその言葉を。

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