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第8話
「違う…」
翼がつぶやいた。
「苑さんに知られたくなかったのは、こんなに醜い僕自身で、本当は、…本当は知ってほしかった」
苑はまだ混乱から抜け出せない。
「僕の、誰にも言えなかったことを、告白してもいいですか…?」
苑に尋ねているような、それでいて独り言のようなつぶやき。
苑は訳も分からずに頷いた。
「お前が本当にキスされたかったやつが、あの…カズタカってやつなんだろう……お前の姉さんの夫の…?」
絞り出すようにして言った。
翼がかぶりを振る。
「「本当に」…。本当にキスされたかったのは…」
苑が身構えた。
「かずくんじゃなく、」
翼が震える両手を、苑の手に重ねた。
「母さんでした……」
「…え?」
苑が翼の手に、余っていたほうの手を重ねる。
動揺を追い払おうとするように、そのまま腕を引き、翼を抱き寄せた。
「母さんは精神病でした。姉さんが7歳前後のころに発症して…だから姉さんは優しい、本来の母さんの記憶があって…」
もたれた翼のかすかな体温。
「でも、僕の知っている母は、最初からずっと、荒ぶる神のようだった」
湿って張り付いた服が触れる感触。
「処方薬ももともと多量だったけど、最期にはすごく増えていって、飲み込むのにも苦労して…ヨーグルトで飲み下していました。普通に水では飲みきれなくて…」
首や肩に当たる、翼の髪と体。
「姉さんの結婚に障るからって、みんなで――三人で考えて――かずくんは気づいていても何も言わなかった。ウェディングドレスを仕立ててもらいに心さんのことを訪ねて、母はその足で任意入院したんです。いったん安心してほっと気を抜いたときに――解放病棟の窓から飛び降りました」
そうか。
(誰の弔いなんだ? )
(言えません。それだけは言えません…)
自分の母親の弔いだったのか…。
「…お前をこんな目に合わせたのも、お前の母さんのしたことか」
翼は静かに頷いた。
注意深く――観察していれば、もっと早く気が付いただろう。内にTシャツ、外にリネンのシャツ。重ね着か、あるいは濃い色合いの服しか、彼は着ていない。
この暑さの中で。
「……姉さんも?」
翼が首を振る。
「母が発症してとうとう子供が育てられないとなったときに、姉は寮のある中高一貫校に進んで…学費は母の父、僕の祖父が出してくれたので……祖父の家に、母一人身を寄せていたそうです。あ…正しくは祖父の家の近所の精神病院に…」
「…そうか」
「母はそれほどかからず退院したけれど、母の叔父、祖父の年の離れた弟と、その……肉体関係を持ってしまって。その時宿った子が僕なんだって、ずいぶん後に親戚のおばさんから聞かされました」
「うん…」
「死人に口なしというけれど、狂人にも発言権なんてないんです。結局母が誘惑したと言われて…それからが僕の知る母です。母は叔父にそっくりの顔の僕を……虐待しました」
翼は気が抜けたように、ぼんやりと虚空を見つめている。
「かずくんは幼馴染だけれど、姉さんとは一度か二度、会ったきりだった…それからずっと遠くの街に引っ越してしまって、そして数年前、こっちに就職を決めて帰ってきたんです。それは姉さんのためだったんだ……」
苑は頭の片隅で、二人共の体が冷え切ってしまっていないか考えた。
まだお互いの熱が残っていた。
「かずくんはずっと、僕の心のよりどころで…かずくんはやさしくて、いつも励ましてくれて、僕が泣いていたら笑わせようとしてくれて…彼を失ったら僕に生きる意味なんてないと思っていました」
「…うん…」
「でも、姉さんにはかなわないってちゃんと最初から分かっていた。姉さんとかずくんの気持ちに気づいてから、僕は初めて誰かを、心の底から妬んだんです。醜い、どろどろの、不快な感情を、初めて自分で知ったんだ…」
そして想像の中で、姉と義兄を葬り去っていたのか。
翼は自分を「醜い」と言った。
苑は思った。
翼が醜いなら、じゃあ誰が美しいんだ?
誰が正しくて、誰がずるいんだ?
みんなおなじじゃないか。
俺は健が兄貴を好いていると知ったとき、どうだった?
醜くなかったか?
兄貴をあんなにうらやんで、憎んで、健が泣いて家に助けを求めに来た時、兄貴のキスを健が拒まなかったとき、どれだけ嫉妬した?
おなじじゃないか。
そして苑は思った。
心なら、兄なら、なんと言うだろう。
どうするだろう。
しばし首を垂れて逡巡した苑は、次にはっきりと顔を上げた。
俺は、苑だ。
武蔵野苑だ。
母が、母の愛した家の庭のように、季節ごとにとりどりの花を咲かせ、実を結ぶ、豊かで美しい人生でありますようにとつけた、その名の……「苑」だ。
「ごめんなさい、苑さん…」
「終わりか」
「…え?」
「お前の告白は、それで終わりだな」
「は、はい」
「じゃあ今度は俺の告白を聞いてくれ」
「はい…?」
苑は、抱きしめていた翼の体を、少し離して、彼を見つめた。
「お前を、抱きたい」
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