10 / 10

第10話

苑はミルクティーを淹れて、翼を起こしに行った。 苑のベッドで胎児のように背中を丸めて眠っていた翼は、目を覚ますとびっくりしたように、ここがどこか問うように、辺りを見回した。 「あ、苑さん……」 「はよ」 「はい……」 翼が起き上がろうとして、素肌にかけていた夏掛けがずれると、翼の上半身があらわになった。 苑も翼も照れて、顔が紅潮した。 「…ほれ、」 苑が乾燥機で乾かした、翼の服を放ってやると、翼が危うくキャッチした。 「あ、ありがとう、ございます…」 「朝飯作ったから、それ着たらおりて来いよ」 「は、はい…」 ありがとう、か。 俺こそ、ありがとう。 照れくさくて言えないけれど、お前に感謝してる。 俺もお前も、独りぼっちだったよな。 でも、もう一人じゃない。 出会えたから。 運命とかなんとかじゃない。 奇跡みたいだろ。 ほとんどの人間は、ねじれの位置にいて、そんな相手とは巡り合えないのに。 お前と巡り合えて、よかった。 なんだか生まれ変わったみたいな気分。 苑は、翼が朝食をとっているとき、一人で探し物をした。 記憶をたどりつつ、クローゼットの中や、その天袋、納屋、物置…そして、物置の奥から、目当てのものは見つかった。 「心さん」 服を着て朝食を食べた後、翼が心に話しかけた。 「ありがとうございました」 「僕は何もしていないですよ」 「何もしないことが、優しい時だってあるから…」 「ああ、そうですね」 エロ兄貴…手ぇ出したら殺す。 苑が探し物から戻り、眼光鋭く心を見る。 心は苑と目が合うと、苦笑した。 「翼」 「苑さん」 「…じゃ、僕は退散します」 心が苦笑のまま、苑の射るような眼を見て立ち上がった。 「おう」 苑はそっけなく言い返し、それから翼を見て笑った。 ふやけたような笑顔。 落ち着け、俺。 一回したくらいのことで、舞い上がってはならない。 苑の経験からは、そんな警告が発せられるが、翼は恥ずかしそうに首をすくめ、うつむいて、眼を上げて苑を見た。 「朝飯食った? 」 「はい、ごちそうさまでした」 「腹、もたれてない? 」 「はい」 「じゃ送ってく」 玄関のドアを開けて外に出ると、セミがせわしなく鳴きしきっていて、日差しは白かった。ただ歩くこと、ただ息をしてそのただなかにいることが辛いような気候。 「ほれ」 「?」 苑が差し出したのは、白いレースをたたいた、白い婦人用の日傘。 「ごめんな、母さんのしかなくて…でも、これがあったらおまえを、日差しや雨から守れるだろ。これ、晴雨兼用」 「……」 翼は両手に日傘を捧げ持ち、不思議そうに矯めつ眇めつ眺めた。 「苑さん……こんな大切なもの、いただけません」 「ん? お前より大切なものなんかないよ」 翼の歩みが止まる。肩が小刻みに震えている。 「…。ありがとう……」 大きな瞳にたたえられた水分が、次第にかさを増し、零れ落ちそうに盛り上がった。 「苑さんて、繊細な人ですね」 笑った形に目を細めた翼の、そのまなじりからしずくがこぼれる。 「お母さんのこと、母さん、っていうの、」 幾筋もの涙。 「意外だったです」 困るよ、翼。 泣かないで。 翼の涙を、指で拭ってやる。 日傘をさしてやり、苑は翼の手に持たせた。 翼は苑も傘に入れようとして、結局苑に日傘を奪われた。 相合傘で帰る道。 もう、翼の恐れない、近道。 奇跡みたいだろ。 苑がぼそりとつぶやいた。 「? 何ですか、苑さん」 「…。秘密」 群青の空に、日差しを遮る白い傘。 奇跡というものは、その辺にあるもの、ありふれたものではないのだろう。 けれど、私たちは毎日のように、何かに、そして誰かに、巡り合う。 何かを知り、何かを体験する。 言葉を交わし、沈黙を味わい、関係が生まれて、途絶え、また新しく出会って…。 そんな普通の、ありふれた私たちは、幾筋もの道をたどり、永遠に、日々無数の奇跡を起こしているのだ。 翼のほわほわの髪の毛に隠れた涙を、拭ってやると、翼がくすぐったそうに笑った。 その涙さえ。 笑顔さえ。 今、こうして踏み出す一足さえ。 奇跡みたいだな。 「? 」 もう一度、涙をぬぐって。 苑の胸に、そして翼の胸に刻まれた、群青の記憶。 この晴れ渡る、夏の空に光る日差しの……群青の、奇跡。 <終>

ともだちにシェアしよう!