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第4話

 ──────────神は神でも、まさか死神?   もしかして自分は、山の中で遭難して、とっくに死んでしまった……とか?  沼に落ちたのはアックスではなく、本当は来人だった……とか? 「あの、ちょっと待ってくださいっ」  急に怖くなり、反射的に身構えた。そんな来人を振り向いて、神様が妙に優しい微笑を浮かべる。なんで? と。 「待っても、なんにも変わらへんに。行動せな」 「行動……?」 「なんにも怖ない。行こ」  誘われているのは、天国? 地獄? 天国なら、目指すは上空。でも、誘われているのは沼の中だ。ということは、状況で判断すれば地獄っぽいが、地獄に連れていかれるような悪さをした覚えはない。 「行こって言われましても、あの、こんなに真っ暗だし……」 「大丈夫。俺がついとる。俺を信じて」 「信じてと言われましても、僕は、あなた様のことをまったく存じあげませんので、信用できるかどうかを問われると、失礼ですが、まったく信用できませんし、どちらかといえば不審者で……っ」 「自分、固いなー。なんでも挑戦やで? やってみたら楽しなるて。行こ」 「行こ、と軽く誘われましても、僕は石橋を叩いても渡らないどころか、最初から叩かないタイプの、挑戦とは無縁の人生をマイペースに歩んでおりますので、どうかお気遣いなく!」  だから全力で遠慮しますと足を踏ん張り、顔を引きつらせたときには、もう────。  足は地面から離れ、手を引かれ、逆さまになり。  沼の中へ引きずりこまれていた。    冷たい水と、全身を包むその圧力。  聴覚は封じられ、耳の奥に空気の膜ができたかのような錯覚を抱いた。  ゴポゴポゴポ……と、水音が耳奥で響いた瞬間、来人はパニックに陥った。 「泳げないんだ──────!」  僕は人間! 鰓はない! と、訴える以前の問題だ。鰓があったとしても、来人は泳げない。  理由は明白。筋金入りの「金づち」なのだ。いまのいままで、すっかり忘れていたけれど! 「助けてくれ──っ!」  全力で叫んでも、口を閉じたままでは、誰かに聞こえるはずもない。  ぶくぶく……というより、ズブズブ。ゴポゴポゴポ……から、ボコボコボコ……ボコッボコッ……と、気泡の音が変化する。深く、深く、沈んでゆく。  スニーカーが重い。まるで……そう、鉛だ。その鉛のように重い物体と化したスニーカーが、来人の足からずるりと抜け、二匹の魚のように遠ざかり、見えなくなった。  それでも来人は沈んでゆく。どんどん、どんどん、沈んでゆく……。  感覚としては、とうに山の標高を超えたと思われるほど深くまで潜水しているのに、まだ止まらない。そしてスピードも一向に落ちない。地球の裏側まで到達しそうな勢いだ。 「……っ!」  もがいても浮上できない、幼い頃の恐怖が蘇る。  四歳の、あの事件を。  あれから二十年も経ったのに、まだ来人は、水が怖い。  恐怖に負けて叫びかけ、そんなことをしたら溺れると察し、慌てて片手で口元を押さえた。  引っぱられている左手首が痛い。振りほどきたくても、いま手を離されたら確実に溺れる。気づけば来人も自称・海皇神の手首を、しっかりと握り返していた。  海皇神の潜水スピードが速すぎる。どこまで連れていかれるのか、息は保つのか、焦りと不安で破裂しそうな精神力と肺が限界に達すると思われた、そのとき。 「目ぇ、開けてみ」  楽しげに誘う声がして、来人は自分が途中から、目を瞑っていたことを知らされた。 「目ェ開けな損やに? めっちゃ綺麗な景色やで?」  綺麗と言われても、ここは沼だ。汚泥以外を想像できない。でも、海皇神の声は穏やかで優しかった。そんな声で促されると、ウソとは思えない。  おそるおそる、来人は瞼を開いてみた。  水の底は、暗くなかった。  海皇神の全身から放たれる光で、水全体が蒼白く反射していたからだ。  来人の頬を撫でるようにしてぷくぷくと上昇していく気泡も、クリスマスのイルミネーションか、夏空に輝く星のようにキラキラと瞬いている……と思ったら、実際その気泡の中で、幾粒もの小さな星の砂たちが躍っているのが見えた。  星の砂は、本物の砂ではなく有孔虫の死骸なのだが、これがたくさん見られるのは沖縄あたりの浜辺のはず。  ということは、ここはまさか沖縄の海? と無茶なこじつけをするそばから、目の前をカクレクマノミの団体様が通り過ぎていった。パウダーブルータンも二匹見つけた。いちゃいちゃしているから、おそらくカップルだろう。……特別魚に詳しいわけではない。どちらも魚が主役の世界的アニメで有名になった種属だ。  岩肌にくっついて揺れているのは、ピンクや黄色の珊瑚に、オレンジ色のイソギンチャク。中でコソコソ動いている紅白の生き物は、海老? ぽわぽわプクプク泳いでいる、猫のような耳がついた小さな可愛らしいのは、メンダコだ。 「そんな馬鹿な……」  気が緩んでポカンと口を開けた直後、ゴフッと口から空気が抜けた。  溺れる! と慌てたとき、力強い腕が腰に回り、来人をグイッと抱き寄せた。  来人の口から漏れた空気を、海皇神がぱくりと食べ、そして。  驚異の美貌が接近してきた直後…………。 「○×△★※☆▼×××……────────ッッッ!」  なんなんなんなんなんなんなんなん、なんなんなん────っ!  「んんんんんんんん────っ!」  なにをするんだ、なにをされているんだ、これはまさかのききききき、キスなのかこれはっ! 人生初のキスなのかっ! 「んーっ! んーっ! んんんーっ!」  相手が男で、水中で、人間じゃなくて神様という、あり得ないシチュエーションでファーストキスを奪われているのかっ!  ぴっちりと閉ざされた口の中に、ふぅっと吹き込まれたのは、酸素。  反射的にゴクリと飲みこんでしまい、耳までカーッと熱くなった。それでもまだ唇は密着していて、ファーストキスの真っ最中だ。いや、一度離れて、またくっついたから、カウントとしては二度目になるのか? と換算している間にもちゅっちゅっちゅっと三回押しつけられたから……あああっ、ビギナーからいきなり五回の熟練者!  やっとのことで海皇神を突き離し「やめてくださいッ!」と全力で拒絶したら。 「……──あれ?」  声が、出た。  話せるし、息もできる。水中なのに。  そして海皇神が手を離したのに、沈むでも浮上するでもなく、来人ひとりで水中の直立をキープしている。まるでタツノオトシゴみたいに。  目を見開いてびっくりしている来人が可笑しいのか、海皇神がにっこり笑った。 「泳げとるやん。なかなか上手やに」  グッと親指を立てられて、少しだけ胸が熱くなった。 「泳げて……ますね。でも、どうして?」 「インスタントの酸素ボンベ、入れたったから」 「インスタントの、酸素ボンベ?」 「海皇神の能力を、ちょっと分けたろかーていう感じやな。酸素ひとくちで、人間時間でいうたら三十分くらい保つんちゃうかな」  ポカンとしている来人の目の前にスイッと泳いできた彼が、もう一度唇を押しつける。唇同士の接触は、まったくもって不慣れなために動揺は半端ないが、酸素補給による救命行為ということであれば、断る選択肢はない。たとえそれをされることによって、来人の腰のあたりが甘く疼いたとしても。  乱れる鼓動にブレーキをかけて顔を離し、「いまので五分くらい追加ですか?」と、震える声で訊ねたら。 「ううん。いまのは普通のキス」 「キ……」 「ちょっと感じた? ゾクッとした? なんか、そういう顔しとる」  興味津々の目で顔を覗きこまれ、来人はとっさに顔の前で両腕をクロスした。 「しっ、してませんよっ。ていうか、どうしてキスなんかっ」 「どうしてて、急にキスしたなったんやもん。ええやろ? キスくらい」 「キスくらいって言われましてもっ!」  ああそうですかとは、了承しがたい。  キスというのは好意の証だ。少なくとも来人は、そう信じている。彼女いない歴二十四年だからこそ、ファーストキスは好きな人と交わすものだと、意地で思い込んでいる。 「あれ~? もしかして人間、キスするの初めて?」  遠慮なく直球を投げつけられて、ボンッと顔から火の玉が飛んだ。 「人間、いま何歳? あ、年輪視えた。二十四歳? 彼女なし歴何年? まさか歳の数と一緒? そんなことないやろ? 人間、めっちゃ可愛いし美人さんやし、髪サラッサラやし、手足も長いし、水も滴るええ男やし、誠実そうやし真面目やし……あーそうか、真面目すぎて、甲斐性もなさそうで、女の子らにしてみたら、つまらんのかもしれへんなー」 「そそそ、そんなことないですよ! 弱小ですけど、一応不動産会社という安定職に就いて、宅建の資格も持ってますしっ」 「うわー、ますます堅そうなイメージやなー。おまけに弱小では、甲斐性も将来性もあらへんやんか。そういや趣味、なんやった? え? プラモデル制作? プラスチックの小さいパーツを、接着剤でチマチマチマチマつけていく、あれ? え、あかんわー、そら地味やわー、彼女できへんにー、真面目のハードルが高すぎて、いちいち飛び越えるの面倒くさいにー。そのうえ童貞て、なんかもーめっちゃ疲れるやんー」 「えっ! どどど、どう、ななな、なに言ってんですか! そそそんなわけ、ななないじゃないですか! ははははは!」 「見栄の張り方、わっかりやすぅ~」  肩を揺らして笑った海皇神が、羽衣の袂を靡かせ、優雅に片腕を広げてお辞儀した。 「ようこそ、我が竜宮城へ」

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