3 / 4

第3話

 時空が止まったと、来人は感じた。  それほど静かな光景だった。  音もなく、風もない。もしかしたら自分も、息をしていない……?  無の世界に入りこんだように錯覚したのは、一瞬のこと。やがて大粒の水滴たちが宙に浮いたまま回転し、ミラーボールのようにキラキラと七色に輝きだした。  気づけば来人は地面に尻餅をつき、ぽかんと口を開け、光の中心にいる彼を見あげていた。  そう──────────彼。  眩しい光を放射状に放った美青年が、沼の中央に出現したのだ。  首の太さや肩幅、胸幅、祈りのポーズの指や手つきなど、その骨格から判断して、男性だとの察しはつくから、三人称は「彼」で正解だと思う。  その凜々しく神々しい彼が、光る水柱を背景に、七色の水滴を周囲に散らし、天女の羽衣と金魚の鰭をコラボさせたような、真珠色の衣装をまとって登場したのだ。 「浮い、てる……?」  場に馴染まないという意味ではない。文字どおり、宙に浮いているのだ。  正確には、立っている。衣装が長いため、足の先がどうなっているのかは確認できないが、そこに岩などの足場がないのであれば、水の上に直立しているのは間違いない。  水面まで届く、パールホワイトの長髪から覗く優雅な扇の形をしたものは、耳……ではなく鰓のようだ。ということは、人類ではなく魚類に属するのだろうか。  美しく開いた鰓の先々を飾り、艶のある光沢を放っているのは、きっと真珠。閉じた目の、長いまつげの先端にも、小さな真珠が幾粒も連なっている。  そういえば三重県の伊勢湾あたりは真珠の養殖が盛んだったか……と、非現実的な状況に於いては、どぉ──────でもいい情報が記憶の隙間からとろりと溶けだし、綺麗だなぁ~などとぼんやり観賞しているこの状況は、明らかに現実逃避だ。  そう、自分はいま現実から逃げている。山の狸か狐が化けていると笑い飛ばすには、目の前の彼はあまりにも神々しくて、来人はいま、この世のものとは思えない美に直面し、頭の中が真っ白だった。  手の甲の半分ほどを覆っている細かな鱗は、彼自身が放つ光を反射して、淡い虹色に輝いている。和服のように重なる衿から覗く胸元も、鱗がほんのり発光し、見ているだけで夢心地。まさしく最高級の真珠であり、恐怖にも勝る美。  その美青年が瞼を開いた。シュッ……と空を切り裂く音が聞こえたと勘違いするほど、シャープな形にドキッとする。魚類ならば魚眼だろうという想像は、まったく違った。どこから見ても人間の目だ。それも、値がつけられないほど高価なブルートパーズにも似て……と、無意識に金額査定してしまう俗物的な感覚が悲しい。  数回瞬きした彼が、コーラルピンク色の唇を開いた。 「おお。なんと美しき若者か」  先ほどまでの方言調ではない雅な言葉使いにつられ、つい敬語で返してしまう。 「あ……あなた様の神々しさには及びません」 「神々しいのは当たり前やに。言うても俺、神様やもん」  はい? と目を丸くして顔を突きだす来人に構わず、自称・神様が目を細めた。笑うと意外に人懐っこい顔になる。 「人間、目ェでっかいなぁ。見事な魚眼っぷりやな。金目鯛に似とるて、よぉ言われるやろ?」 「チワワの目をした柴犬って言われることはありますけど、金目鯛は初めてです……じゃなくて、遠視用レンズだから、大きく見えるだけかと思われます」  そうなん? と訊かれたから、黙って首を縦に振った。まぁええわ、と勝手に話を片づけた自称・神様が軽くひとつ咳払いし、姿勢を正して来人を眇め見る。 「そこの美しい金目鯛に問う。其方が探しているのは、こちらの斧か?」  優雅な仕草で見せられたのは、きらきら光る金の斧。来人は首を横に振った。 「金目鯛じゃなくて人間です。そんな豪華な斧じゃなくて、普通のです」  言うと、自称・神様は頷くでも肩を落とすでもなく、そのまままっすぐトプッと潜り、再びザパァッと浮上した。 「では、チワワの目をした柴犬に問う。其方の斧は、この銀の斧か?」  再び訊かれ、犬も斧も違いますと返したら、またまたトプっと。そしてザパァッと。  三度目に現れた神様が、「では、この地味で錆びついたボロボロの、クソの役にも立たない斧か?」と、ちょっとイラついた口調で訊いてきた。いいえ、と今度も来人は馬鹿正直に否定して、身振り手振りで説明した。 「そこまで年期は入っていなくて、量販店にずらっと並んでいるタイプで、持ち手のところがプラスチックで、庭の植木や枝を折るにも適した、コンパクトサイズの……」  と、一生懸命説明しているのに! 「あーもう! どれでもええやんッ!」  いきなり神様がブチ切れた。  ことのほか短気だった神様が、優美な衣装の裾をガバッとめくって持ちあげた。そしてザバザバと水しぶきを立てて来人の前まで突進してきたかと思いきや、夫婦岩もどきの大きいほうにドンッと片足……足? 魚の尾ではなく、わりと筋肉質な男の人の足……を置いて片袖をまくりあげたかと思うと、べらんめぇ口調で啖呵を切った。 「海皇神をこき使うのは、百年早いんじゃ! このアホンダラッ!」 「か、かいおう、しん……?」 「なんや人間、海の神様知らんの? ポセイドンて聞いたことない? あれを日本語で言うと、海皇神なんさ。ギリシャ神話とか読んだことない?」 「読んだことはありますけど、こんな場所で海皇神とか言われましても……。それにギリシャ神話なのに純和風……」 「伊勢で腰布は、おかしいやろ? 言葉も衣装もTPOに合わせるのが礼儀やに」 「はぁ……」  来人は神様を見あげ、「で、どちらに海皇神が?」と問いかけた。目の前の美形が自分の胸板をバンバン叩き、「ここやん、ここ!」と目を剥いて主張するが、いまひとつ信用できない。  自分の居場所に不安が過ぎり、きょろきょろと周囲を確認するが、どう見ても森だし、山の中だ。自分が尻餅をついているのも湿った腐葉土混じりの土の上であって、砂浜ではない。  どんなに鼻の穴を膨らませても、潮の香りは微塵もしない。もちろん山を下って何キロか先へ行けば、伊勢湾に辿りつけるとは思うが、どちらかというと、木々に囲まれた狭山湖や多摩湖の濃厚な湿度……うちの山岡社長は、マイナスイオンで肌も心も潤う環境だというセールストークを展開して、ファミリー層のマンション購入に繋げている……を思い起こす。  どこかにテレビカメラが仕込んであって、来人を笑いものにして視聴率を……稼げるわけがないから、それはあり得ない。  ということは、やはりこれは、現実?  えっと……と来人はメガネの位置を直してピントを合わせながら、低姿勢で確認した。 「海の神様って、こんな小さな沼も守備範囲なんですか?」 「当たり前やん。地球上の海洋すべて、世界中の水あるところ、ぜんぶ海皇神の守備範囲やに?」  と、海皇神が親指で自身の胸を得意げに指し、ペロッと舌を出してみせた。  土地に神様が宿るという感覚は、不動産業に携わる人間なら誰しも持っているだろう。家を建てる際に地鎮祭を行うのも、その信心や畏れの表れだ。  地鎮祭とは、その土地神様に対して、「いまからこの土地に建築物を造ります」と事前に許しを得、工事の安全を祈願する祭典だ。無信仰の依頼人でも、地鎮祭では熱心に両手を合わせる姿がよく見られる。  日本人は信仰心が希薄といわれるが、八百万といって、じつは土地や石、木や川や空や風など、あらゆる存在に神仏の存在を見たり感じたりする人は少なくない。来人自身もそうだ。とくに神社仏閣のプラモデルは、完成後、「なにか」が宿ったと感じることがままある。  だから、置き場がないからといって完成作品を処分しようものなら、「罰当たり」的な天罰が下ると本気で信じている。たとえば取引がキャンセルになったり、お客様から怒鳴られたりすると、「あのプラモデルを粗末に扱ったせいだろうか」などと、理由付けてしまうほどに。  よって、せっかくのファミリータイプのマンションの室内は完成品に占領され、結果、誰も部屋に招くことなく、ますますひとりで籠もるという流れに落ちつく。  ついプラモ愛を熱弁してしまったが、来人が言いたいのは、神様にも神様のテリトリーがあるということだ。土地に土地神様や氏神様がおわすように、プラモにはプラモの神様がいらっしゃるように、山なら山の神様、海なら海の神様が……と。  それなのに、山で海の神とは、これいかに。   疑問は尽きないが、神様本人に訊ねるのも失礼な気がして……神様にも事情があるかもしれないし……無駄な質問で正気を維持した。 「なんさ……と、やに……って、なんですか?」 「なんさ~は標準語で言うたら、なになになんだよ~いう意味やな。やに~は、なになになんだよ~……て、どっちも、ほぼ同じ意味やな」 「やにって、関西弁ですか?」 「ちゃうちゃう、近畿弁やに。ここ、三重県の伊勢市やに? 関西ちゃうに? せっかく三重におるんやで、地元の言葉をマスターせな勿体ないに? 真似してもええに?」 「いえ、結構です」 「遠慮せんでもええんやに~?」  嫌がらせか、単なるお茶目か。やにやにを乱用しながら、それより……と海皇神が顔を近づけてきた。美形ならではの迫力に押され、尻で後退しようとしたが、泥に阻まれて身動きが取れない。反して海皇神は楽しいオモチャを見つけた子供みたいに、目をキラキラさせている。 「斧、どうしたい?」 「どうしたい、とは?」 「返してほしい?」 「そりゃ、返していただけるものなら。私物じゃなくて借り物ですので」 「そしたら、自分で潜って探してみる?」 「……潜る?」  不審感と警戒心百パーセントで見あげれば、神様の美しい鰓が、楽しげにパタパタと前後した。犬でいうなら、尻尾を振っているあの感じだ。  なにやら神様ひとりがワクワクしているが、来人としては微塵も共感できないし、尻尾を振りたい気分でもない。それよりも、ホテルのチェックインに間に合うのかが心配だ。 「あの、自分で潜って探すって、どういう意味でしょう? 僕、泳ぎはまったくダメですので、その場合はダイバーを雇うことになりますが、アックスの価値に対して、さすがに費用が嵩みますので、そこは上司に相談を……」 「誰がダイバー雇えて言うた」 「じゃあ、どういう意味ですか?」 「そのまんまの意味。行こ」  いきなり手首をつかまれた。  氷のような冷たさに、背筋がヒュッと凍りついた刹那、来人は強く確信した。 「彼」が、この世のものではないことを。

ともだちにシェアしよう!