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第2話

 カーゴパンツのポケットからスマホを取りだしてディスプレイに目を凝らせば、時刻はまだ午後四時すぎ。それでも山奥の森の中は、感覚的には夜に近い。植物が多すぎて、太陽光が届かないせいだ。  じつは今回、懐中電灯を持参しなかった。まず、山がこれほど暗いと思わなかったし、スマホがあるから大丈夫と、疑問すら抱かなかった。スマホを明かり代わりにしているモバイル世代の落ち度だと、いまさら気づいても遅すぎる。  それでも照明は必要だ。ひとまずスマホを操作して、画面の明るさを最大にしたとき。  ぽつっ────と、ディスプレイに水滴が落ちた。 「え……っ」  まさか、雨?  だって、さっき飛行機雲が見えたよな? 晴れていたよな?  来人は空を振り仰いだ。十秒ほど前に目にしたはずの飛行機雲の断片は、どこにもない。繁る葉の隙間に見える空は、さっきとは比較にもならないほど低く、雨雲が垂れ込めている。  バタバタッと音がした。繁る葉が水に叩かれている。 「マジ……?」  だんだん音数が増えてくる。来人が着ているマウンテンパーカーの肩口でも、ポツポツと雨粒が弾けている。メガネのレンズにも飛沫が跳ねる。 「やばい、本降りだ」  これはさすがに、ピンチかもしれない。 「ビジネスホテルのチェックイン、十八時だっけ。間に合うかな。場所がいまいち定かじゃないから、下山したら、バスじゃなくてタクシーを拾ったほうが早いな。いや、そもそもこんな田舎道をタクシーが通るのか?」  わざと声を出して落ちつこうと試みたが、逆効果。気ばかり焦る。  来人は周囲に目を凝らし、耳を澄ませた。頭上を覆う枝葉、垂れ下がる蔦。雨が降ることで対流が生じ、腰まで生えた雑草がザワッと一度大きく揺れる。お前がいま立っている場所は、人類未踏の地だよ……と、山全体がクスクス笑っているようにも感じられる。 「未踏の地なんて、大袈裟だよ」  雑草相手に文句を飛ばし、来人は背中のデイパックに手を回し、小型の斧……キャンピング用のアックスをサイドポケットから引き抜いた。角崎さんが、「万が一のために持っていけ」と貸してくれたのだ。雑草を踏み倒しながら歩くより、叩き切るほうが楽だよというアドバイスは正しかった。さすがは頼れる先輩・角崎さんだ。  行く手を遮る枝や蔦を、来人は真っ赤な柄のアックスで払い落としながら前進した。そう、とにかく動かなければ。出口が向こうからやってくるはずないのだから。  野鳥でも鳴いていれば、気が紛れるのに。雨を恐れてどこかへ逃げたか。虫の声すら聞こえない。まさか熊や猪が、来人に飛びかかろうとして息を潜めているのか? 不安の大きさに比例して、独り言がますます大きくなる。 「やっぱりツノさんにも来てもらえばよかった。周辺の交通の便と立地、現地と、その周辺の写真撮影、まずはその程度でいいよって言われて、わかりました、それだけなら、ひとりで大丈夫です~なんて強がった自分がバカだった」  従順すぎた自分を呪いながら、アックスを握り直しては前進する。あたりに響くのは、バサッ、バサッと草を刈る音だけ。雨と焦りで手が滑る。 「あー、帰りたい。メシ食いたい。シャワー浴びたい。腹へった~」  思いつくかぎりの文句を吐きだしながら、来人は腕を振り上げた。  アックスの重量に任せて、枝に向かって勢いよく振り下ろした────次の瞬間! 「あっ!」  しまった──────と思ったときには、もうアックスは手から遠く離れていた。  くるくると華麗に回転しながら宙を飛び、ポチャン……と。 「ポチャン……?」  音が聞こえた方角にモバイルを向け、眇め見たとたん、顎が外れた。  一難去ってまた一難! と叫びかけ、いや違う、と訂正した。難は一度も去っていないぞ。来る難拒まずの勢いで、怒濤の難が襲いかかってきているぞ! 「どうしてこんなところに、池があるんだっ!」  大きくはない。直径五メートルほどの、いわば大きすぎる水たまりか。  雑草に足を取られないよう慎重に前進し、陸と水の境目はどこだ……と右足を前に伸ばして探っていたら、なにか固いものの間に爪先を押しこんでしまった。  その足元に視線を凝らせば、左右にふたつの丸い影……大きめの石だ。小さな岩ともいえるが。 「伊勢名物の、夫婦岩に似てるな」  うんしょっと足を抜いたら、靴裏に、白いヒラヒラした紙がくっついてきた。 「なんだこれ」  つまんで取り除き、スマホの光を当てたそれは、割り箸の袋によく似ていた。千切らないよう中ほどまで破って捻り破って捻り……の、この感じは、注連飾りの紙垂に酷似している。それを細い藁縄に挟み込み、夫婦岩もどきに結びつけてあったものを、来人が踏んでしまったと思われる。 「まさかとは思うけど、この石、もしかして……祠?」  祠だとしても、確認は不可能。なぜならすでに来人が土まみれのスニーカーで踏みつけたため、千切れ、汚れ、修復できない。そもそも原型が不明だから、直しようがない。 「祠だったら、マズくないか……?」  日和不動産では、物件の取引の際には必ず地鎮祭の手配をする。注連縄や注連飾りを、土地にぐるりと張り巡らせるアレだ。神主のお祓いが始まると、その土地から悪い気が取り払われたような感覚を実際に抱くこともあるから、神仏に対しては敏感なほうだ。  その祠に飾られる注連飾りを、あろうことか踏みつけて破壊したと思うだけで、罰当たりすぎて心臓が縮む。だからやっぱり箸袋ということにしておこう。そう、これは、ただのゴミだ。 「ゴミが落ちてるってことは、誰かがここで弁当を食ったってことだよな。てことは、このあたりまで人が入山している証拠で、もしかしたら、いまも誰かが、ここを通る可能性も……」  ザワッ……と木々が大きく揺れた。笑われた? ……わけがない。  気をとり直してデイパックを背から降ろし、大きいほうの石に腰かけ、探偵のように解説を続ける。 「それに箸袋は、僕が踏んだ部分以外は白く、まだ新しい。よって、つい最近……もしかしたら今日の昼にでも誰かがここで弁当を食べたと推察できる。ということは、たぶん釣り人だ。そう、おそらくこの池は、地元でも穴場の釣り堀で……」 『……ど~こが釣り堀じゃ~』  ん? と来人は周囲を見回した。  いま、おどろおどろしい声が聞こえたような……。  直後、ズゥン……と振動を感じた。沼の中央に丸い水紋が生じ、ものの数秒で端まで広がり、消えた。次いで再びズゥン……と地響きがして、新しい水紋が水面を走る。 「ドルビーサウンド……」 『うまいこと言うたな、人間』 「そう?」 『祠、壊してくれてありがとな。おかげで水から出られそうや。言うても山全体に結界が張られとるで、可動範囲は水の上空までに限られるけど』 「はぁ」  相槌を返したのは、余裕があるからではない。どちらかといえば、恐怖ゆえの混乱もしくは錯乱に近い。 「……いましゃべったのは、池?」 『池がしゃべるわけないやん』 「……じゃあ、沼? もしくは、泉?」 『湧き水と違うで、泉はナシやな……て、ちゃうちゃう、そういう意味とちゃうて。池にも沼にも泉にも、口あらへんやんか。口がなかったら、しゃべれへんやろ~て、そういう意味で言うたんやに』 「そう……だね。だな、うん……、はい。おっしゃるとおり……です」  怪奇現象の度が過ぎて、耳慣れないイントネーションに突っこみを入れる余裕もない。気づけば、膝がガクガク震えている。  水紋が次々に発生し、表面には大きな波が立ち、次第に渦を巻きはじめる。これ一体どういう現象? だって、池もしくは沼だとしても、波や渦が生じるのはおかしいよね? 異常だよね? と懸命に対象物に問いかけるが、答えはない。 「えっと……、じゃ、じゃあ、池や沼でもないなら、なんだろう。まさか、海?」 『池ていうのは一般的に人工が多いで、近いのは沼かなぁ……て、そやで、そういうことと違うて、何遍言うたらわかるんさ、も~っ!』  刹那、ぞわわわわわわわわ! と全身に鳥肌が立った。 「だ、誰だーっ!」  誰かいるならありがたい。でも、本当にいたら心臓が止まる。なぜなら、シューティングゲームの素早さで周囲を凝視しても、どこにも人がいないから!  目の前の、沼だか海だかよくわからない巨大な水たまりだけが、生き物のように波打ち、沸騰したかのようにブクブク泡立ち、暴れだしているだけだから! 「うわわわわわわわわ──っ!」  驚きすぎて腰が抜け、石から転げ落ちた。そんな来人の目の前で、水がグググーッと持ちあがる。二メートル、いや、三メートル! 首長竜のように一本の太い水柱になったそれが、上空で大きく捻れたかと思いきや、ブンッと勢いよくスピンして、激しい水しぶきを森に放つ。  だが、飛び散った大粒の水滴たちは、木々や葉にぶつかることなく宙で止まった。

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