1 / 5

第1話

     プロローグ  高梁(たかはし)亮太(りょうた)には、自分ルールがいくつかある。  そのうちのひとつに、ひとり暮らしでも〝行ってきます〟〝ただいま〟を声に出して言う。そうすることで、一日の始まりを実感し、家に帰ってきた自分、今日も頑張った! と褒めるスタイルは、案外気持ちがいいからだ。 「行ってきます!」  朝九時。アパートの部屋を出て自転車に跨がり、二駅隣にある職場を目指してペダルを漕ぐ。  亮太が勤めるのは、犬猫専門のトリミングサロン。シャンプーをしたり、毛をカットして整えたり、爪切りや耳掃除など、毛や肌を清潔に保ち、健康を守るのがトリマーである亮太の仕事だ。  高校を卒業した亮太は一年間みっちりアルバイト中心の生活でお金を貯め、トリマーの専門学校で猫と犬のトリミングダブルライセンスを取得した。  トリマーといえば一般的には犬のことを指す場合がほとんどで、猫のトリミングを扱うサロンは全国的にまだ少ない。犬と猫、どちらのトリミングもできる亮太は就職して二年目だが、腕もよく、予約は二ヶ月先まで埋まっている人気のトリマーだ。  信号機が赤に変わり、横断歩道の手前でストップした。ちらりと腕時計を見る。今日は信号にひっかかる日だ。ちょうど信号の切り替わるタイミングで足止めを食らっている。  ――今日は九時半過ぎるかな。  いつもより五分くらい遅れそうだが、仕事は十時から。他のスタッフはだいたい十分前に出勤するが、忙しなく支度をするよりも、余裕をもって行動すれば心にゆとりがもてるし、なによりもコーヒーを飲む時間もある。亮太の場合、目覚めの一杯ではなく、仕事前の一杯という感じで、今日も頑張ろう! と気合いが入るのだ。  車用の信号機が黄色に変わり、歩行者用の信号機はもうすぐ青に変わる。ペダルに足をかけたところで、一匹の猫が亮太の足下をすり抜けた。  え? と思ったときには横断歩道に踏みだし、尻尾を高く上げて優雅に歩きだした。  車道を確認すれば、黄色信号で車のスピードがグンと上がったところだ。  おなじ横断歩道にいる女性が「きゃっ」と猫の存在に気づき、年配の男性も「おいおい、大丈夫か……」と呟く。  肝心の猫は耳が聞こえないのか、前だけを見て、迫る車に気づいている様子は見られない。  ――どうか間に合って!  考えている時間はなかった。投げ捨てるように自転車を降りて猫を追いかけ、後ろから掬うように抱き上げる。あとはこのまま横断歩道を渡りきるだけだ。  接近してくる車の気配を感じながら、なんとか間に合う! そう確信したとき、靴紐が切れた。ブチッ、だか、プチッ、だか、そんな音が感覚で足から伝わってきたときには、体勢が崩れた。  ――よりにもよってこのタイミングで……っ!  先週スニーカーを洗ったとき、そろそろ新しく買い替えようと思った。けれども思っただけで、休日は買い物に行かず、昼過ぎまで惰眠して、起きたときには外に出るのが億劫になってしまった。  あのときシャキッと起きて、靴を買いに行っていたら……今さら後悔しても遅い。  咄嗟に腕に抱えた猫を対面の歩道に放り投げた。猫は宙でくるんと体勢を整え、アスファルトに無事着地した。  ――よかった。間に合って……。  ホッとしたのも束の間、猫がこちらに振り向いたと同時に強い衝撃に襲われ、亮太の視界は一瞬にして世界が閉じた。

ともだちにシェアしよう!