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第2話

     一 「……いで……せいで……じゃった……僕のせいで、死んじゃった……」  どこからか子供の悲しそうな声が聞こえる。なんだか放っておけなくて、声をかけようとして、自分が目を閉じていることに気づく。  ひどく頭はぼんやりするが、ゆっくり瞼を持ち上げれば、青空が見えた。  ――……外?  明らかに室内ではなかった。風を遮るものはなく、外気の匂いを感じる。  寝起きはいつも、部屋の天井か、職場の休憩室が見慣れた光景だ。  職場ではランチのあと、昼寝をする。昼寝はパソコンに例えると再起動のようなもので、脳の働きを高めるのだと雑誌で目にしてから、机の上にうたた寝用の枕を置いて寝る。  亮太の昼寝をいつも目にしているスタッフが、皆でお金を出し合い、誕生日プレゼントに贈ったものだ。もちっとした低反発の枕で、亮太のお気に入り。  てっきり職場の休憩室か、自分の部屋かと思ったが、雲ひとつない青空が目に眩しかった。  ――まだ夢を見てるとか?  懐かしい光景を見て、既視感を覚える。  児童養護施設で育った亮太は、よく近所の土手に行っては寝転がり、空を見上げた。  施設で暮らしているというだけで同情されたり、理不尽な目に遭ったり、子供の自分にはどうにもできない現実から逃避したくなったときに行く場所が土手だった。  空はどこまでも続いていて、その空は世界と繋がっている。はるか上空には宇宙があり、そこから見る人ひとりなんて、ほんの小さな生物だ。  そう考えると、ささくれた気持ちは凪いでいく。自分の悩みなんて、ちっぽけに感じられた。  下を向くから悩む。上を向けば前を見る。現実からは逃げられないのだから、前を向いて歩くしかない。そうやって気持ちを整理したいときはよく空を見上げた。  今は大きな悩みもなく、仕事は忙しいが、充実した生活を送っている。  施設を退所してからひとり暮らしで、土手に行くこともなくなった。こうして空を見上げること自体、久しぶりだ。  いつまでだって見ていられるし、見飽きることはないけれど、気配を感じる。自分以外の。 「よかった! ちゃんと連れてこられた……ぅ、うぅ……うわーん……」  すぐ隣から聞こえる声に視線を滑らせれば、十歳くらいの男の子だろうか。声を上げて泣きだした。 「どうしたの? どこか痛い? それともお母さんとはぐれちゃった?」  体を起こして話しかければ、男の子のきれいな黒髪から、ピョコンと飛び出ている耳が目につく。  ――……猫耳カチューシャ?  それにしては、やけにリアルだ。毎日犬や猫に触れているからこそ、細部に目がいく。  遊園地で売っているファンシーな猫耳カチューシャやピン留めタイプと違い、耳の付け根にある小さな袋――ヘンリーポケットもあれば、耳のタフトまで忠実に再現されている。  ――どう見ても、作りものじゃない……よね?  男の子の服装は、裾がゆったり広がった着物風のワンピースで、黒い腰帯を締めていた。光沢感のある紺色の生地はシルクのように光を反射し、黒いズボンの後ろでなにかが動いている。  ひょいと背中側を覗いたら、だらんと下がった尻尾の先端が動いていた。  ――まだ夢を見てるとか?  耳と尻尾はどう見ても作りものには見えないが、それ以外は人間と変わらない。まるで人間に耳と尻尾が生えたという感じだ。 「ごめんなさい……無事に連れてこられたから安心しちゃって……」  涙を拭く男の子はキュートな顔だ。ヘーゼル色の瞳に、小さな鼻と口がとても愛らしい。ショートボブの黒髪は毛先が内側にワンカールしていて、子供なのにオーラがあるというか、存在感が半端じゃない。 「連れてこられたって?」  問いかければ、男の子は姿勢を正した。 「こちらの世界は初めてだから、なにもわからないですよね。僕のせいで……」  と言いかけた男の子がまた涙声になったから、慌てて「こちらの世界って?」と訊き返す。 「こちらの世界は人間の世界とは違うんです」 「……?」  意味がわからず、亮太は首を傾げた。  人間の世界ではない? ということは、やっぱりまだ夢を見てる?  これが夢なら、男の子にケモミミや尻尾があっても不思議ではない。単純な思考では、他にこの状況をうまく説明できない。夢だからこそ、耳や尻尾が生えていても驚かないどころかとても似合ってると感心してしまうほど。 「申し遅れました。僕は珠洲(すず)といいます。よろしくお願いします」  丁寧にお辞儀をして挨拶をされたから、おなじようにお辞儀をする。 「俺は亮太。よろしくね」  ふたりで道の真ん中に座ったまま、頭を下げ合う。 「亮太さんのことは僕がちゃんとご案内しますから安心してください!」  力強い声に、ほんの今まで泣いていた子供が急に頼もしくなった。  ご案内と言われた意味も不明なら、なにを安心するのかもよくわからないが、とりあえず微笑む。  ――やっぱりこれは夢なんだ。  周囲を見渡せば、数えきれないほどの奇岩柱が山間から突き出し、地平線は連なった山の峰に囲まれている。まさに自然の芸術という感じで、荘厳な雰囲気に圧倒される。  ――これが夢なら、目覚めるまでこの子に付き合うのもいいかな。  子供と接するのは得意だ。施設では年長になるにつれ、下の子の面倒は上の子が世話を焼く。亮太も低学年の頃は年長のお兄ちゃんお姉ちゃんが面倒を見てくれた。高学年になるにつれ、その役割は徐々に逆転していく。  子供の人数に対し、職員の手は年中足りず、上の子供が自分より下の子の面倒を見る。それが自然な役割分担だった。  だから今も、珠洲と接することに躊躇はない。たとえ人間ではなくても、猫耳に尻尾は純粋に可愛いと思う。 「そしたら、行きましょうか」  立ち上がる珠洲と一緒に亮太も腰を上げ、珠洲の服の汚れを手ではたいてから、自分の服の汚れも払う。 「ありがとうございます」 「どういたしまして」  ちゃんと感謝を口にできる子供なんだなと、感心する。 「ここから少し歩きます」 「どこに行くの?」  歩きだした珠洲の隣を亮太も歩く。 「皇帝陛下のところです」 「……皇帝陛下……」 「はい。この国、ナゼリン王国は、シア陛下の統治下にあります」  さすがにそれはちょっと、いくら夢とはいえ、遠慮したい。皇帝陛下のところへ連れられても、困惑するだけだ。  それにナゼリン王国というのも、初めて聞く国だ。実在するのか、架空の国かはわからないが、なんでもありなのが夢の醍醐味でもあり、恐ろしさでもある。  ――でも、この絶景はたとえ夢とはいえ、得した気分かも。  絶景百選に紹介されそうなほど美しい景色は、見ているだけで気持ちが上がる。深呼吸をすると、清々しい空気に体中が満たされる。 「ナゼリン王国って、中国っぽい国だね」 「ちゅうごく?」 「知らないかな? この城壁のヘビ道は万里の長城に似てるし、突き出した奇岩群とか、山に囲まれてるところとか、中国四千年の歴史って感じがする」 「勉強不足ですみません。ちゅうごくも、ばんりのちょうじょう? もわからないです」  珠洲がしゅんと項垂れてしまい、亮太は頭に手を置いてやさしく髪を撫でた。 「謝ることないよ。珠洲はなにも悪いことをしてないんだから」  珠洲ちゃんと呼ぼうか悩んだが、気持ちが下を向いているから親近感を持ってほしくて、あえて〝ちゃん〟を外して呼ぶ。 「……僕は、悪いことをしました」 「そうなの?」  頷く珠洲は「僕のせいで……」と呟く。 「なにかあった?」  話の続きを促せば、今にも泣いてしまいそうな悲しい顔の珠洲と目が合った。大丈夫だよと安心させるように微笑む。 「……僕のせいで、亮太さんは死んでしまいました……」 「ん?」 「僕のせいで、亮太さんは死んでしまいました」  聞こえないと勘違いしたのか、先ほどよりも大きな声で繰り返された。 「えっと……珠洲のせいで、俺が死んだってこと?」 「そうです……ほんとうにごめんなさい……」  泣くのを我慢しているのか、ギュッと唇を噛む珠洲の中では、自分のせいで亮太が死んだことになっているらしかった。  ――悪夢ではないけれど、いい夢でもないかも……。  子供に謝られると、どうしていいかわからなくなる。明確な理由があれば、謝ることに対して声をかけられるが、自分のせいで亮太が死んだと告白する珠洲に、どう言葉をかければいいのかわからない。  ――うーん……そろそろ目覚めないかな。  珠洲がいい子で、もっと喋っていたい気持ちはあっても、なんだかしんどそうな夢だ。  どうすればいいのやら、頭を掻けば、ふいに珠洲は顔を上げ、決意を固めたようにキリッとした表情になった。 「すみません、僕がこんなんじゃダメですね! 亮太さんのことは、ちゃんと責任を持って僕が皇帝陛下のところに連れていきます! 亮太さんがこの国で生きていくために、僕が面倒を見ますから!」  子供の珠洲に面倒を見られるのかと思ったら、思わず吹き出してしまった。 「亮太さん、どうして笑うんですか!」 「ごめんごめん」  謝りながらも、笑いが止まらない。  大人びた言動をしたかと思えば、頬をぷうっと膨らませた顔は年相応で、なんだか不思議な子供だ。友達になれないかなと思ったところで、これは夢なんだと思い出す。  夢の中なのに、現実の世界にいるような錯覚を覚えるのは、五感を感じられるから?   指先に爪を立てると、触覚がある。風が運んでくるのは、岩が風化した匂いに、濃い緑の青青しさ。ペロッと指の背を舐めてみた。うん。味がしない。味覚はさておき、視覚に聴覚、触覚に嗅覚はある。  リアルさを体感できる夢なんて、なかなか見られるものではない。目覚めても覚えていたいなと思っていると、珠洲が歩きだした。

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