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第5話

 互いに黙したまま、ひたすら歩き続ける。繋いだ手はそのままなので、珠洲の歩調に合わせて亮太も歩く。  一時間くらい歩いただろうか。いよいよ宮廷が目の前に迫り、遠目にも高かった城壁は、実際目にしたら相当高い。  ――五、六メートル……ビルの二、三階くらい?  驚くのはそれだけではない。堀にかかる橋を渡れば、生い茂る木々の遮りがなくなり、城壁の全貌が見えた。  どこまで続いているのか、城壁の終わりがまるで見えない。  橋を渡りきった正面には、城壁がトンネル状にくり抜かれ、その上を見上げれば、門楼がそびえ建っている。赤い提灯がぶら下がっているが、今はまだ陽があるため、明かりは灯っていなかった。 「あそこに立ってる人たちは?」  綿襖甲に革帯を締め、刀を腰に差している。弓を手にしている者の背には弓矢があり、槍を持っている人の手には盾がある。 「宮門の警衛に当たっている衛士です。あの門をくぐった先から宮廷になります」  珠洲はそう説明すると、ちらりと亮太を見た。 「あの……やっぱり、宮廷に入るのは嫌ですか?」  亮太の様子を窺う珠洲に、嫌とは言いにくい。それにせっかく珠洲が喋ってくれた今が空気を変えるチャンスだ。 「大丈夫。ここまで来たんだから俺も宮廷を見てみたいし、一緒に行こう!」  己を奮い立たせるように声を上げれば、珠洲も「はい!」と元気よく返事をした。  ――皇帝陛下に挨拶するって言っても、ほんとうにひと言だけの挨拶かもしれないし。  そうだったらいいなと歩みを進め、衛士に近づいていく。 「お役目ご苦労様です」 珠洲の姿を確認した衛士たちは、ビシッと揃って珠洲に敬礼した。  珠洲は慣れているのか、亮太と繋いでいた手をするりと解き、その右手を自分の左胸に置いて「あちらの世界で助けられた者を連れて参りました」と落ち着いた声で説明している。  ――あれ? 左胸に手を置くのって、たしか、私の命はあなたにお任せします、という敬礼返しじゃなかったっけ?  ランチを食べながら見ていたニュースで、自衛官に対して首相が左胸に手を置いているのが謎だよねという話題から、皆でスマートフォンで調べたのだ。  敬礼は、目上の人に対する礼式だ。  ――どう見ても、衛士たちは珠洲より年上だよね?  かと思えば、珠洲の説明に、衛士は亮太にもビシッと敬礼した。  どう返すのが正解なのか、珠洲のように手を左胸に置いた方がいいのか迷っていると、「亮太さん、行きましょう」と珠洲が歩きだす。  この国の民でもなければ、慣れないことをやるのは気恥ずかしくて、小さく会釈をして珠洲のあとを追う。  門をくぐった先には、楼閣がそびえ建つ。見れば右にも左にも楼閣が建ち、どうやらここが官庁街らしい。  漢服を着た役人たちの視線が、亮太を見るなり珍しそうに細められる。ジーンズにシャツを着ている人は、ここでは亮太しかいないのでそれも仕方ない。 「亮太さん。こっちです」  官庁街を通り抜けると、目の前に大きな広場が現れた。その奥には、石台の上に、金磚の煉瓦が目を引く、左右に大きな建物があった。 「あれは……」 「はい。あそこに皇帝陛下がおられます」  ――ついに来ちゃったんだ……。  漢服に身を包んだ武官と向き合う珠洲は、時折亮太を見ながら、話している。周囲の武官たちもちらちらこちらを見ている。その輪からひとり抜けた武官が馬を走らせ、石台の下に着くと階段を上り、中へと消えていく。  おそらく状況を説明しているのだろう。程なくして戻ってきた武官はひとりだけ色が違う漢服の武官――おそらく上官だろう――に耳打ちし、今度はその上官が珠洲と話している。そしてまた亮太を見て……を繰り返し、ようやく珠洲が戻ってきた。 「遅くなってすみません。ちょうどこれから見起――政策の討論をするみたいですが、その前に皇帝陛下がお会いくださるそうです。行きましょう」  いっそ、お会いしなくてもよかったんですが……と内心思いながら、珠洲の後ろを歩く。  上官が先頭を歩き、その後ろに珠洲と亮太が続く。両脇を馬に乗った武官にがっちり固められ、とても逃げられる状況にない。  珠洲と会ったあの場所にいたのが、遠い昔のように感じられる。  ここまで来たらもう逃げられない。  建物に近づくほど、細部にまで意匠を凝らした作りが目を引く。  広場を通り、石台の中央にある階段を上がると、朱色の柱が等間隔で立っている。  高欄には緑、黄、赤、白、黒の宝珠がこちらも等間隔で置かれ、木口は凝った金具で飾られている。  柱とおなじ朱色の壁は上半分が格子で、下半分に金色の繊細な装飾が施されている。  開け放たれた入り口から、刀を手に持った男性が姿を現した。 「ようこそ、ナゼリン王国へ。このたびは珠洲を助けてくださいまして、ありがとうございました」  灰褐色の耳が特徴の男性は、二十代後半だろうか。整った美人顔で、黒の深衣を身に纏い、帯の位置から腰の高さが窺える。両肩には金色の龍が刺繍され、黒子のような服だが、華がある男性だ。 「私は陛下の私兵で、アマネと申します。以後お見知りおきを」 「あ、えっと、高梁亮太です」  自然に会釈をしていて、顔を上げたらにこりと微笑まれたので、亮太も笑みを返す。  アマネは亮太より十センチほど背が高く、体の線は細いが、服の上からでも筋肉がついているのがわかる。耳とおなじ灰褐色の髪はゆるくウェーブがかかっていて、エアリーな感じで柔らかそうだ。 「それでは陛下のもとへご案内いたします」  アマネが踵を返し、珠洲が「亮太さん、行きましょう」と声をかけてくる。できれば逃げたい気持ちを押し隠し、珠洲の後ろをついていく。  回廊から内部に入れば、漢服に烏帽子を被った男性たちが右と左に整列して、玉座に向かい頭を垂れていた。  パッと見ただけでも百人はいるだろうか。その中央を進んでいくアマネに珠洲が続き、気後れして一瞬足が止まった亮太も、慌てて後ろについていく。 「陛下、お連れいたしました」  最前列でアマネが立ち止まり、玉座に一礼して声を張る。  だが、返事はない。  玉座は七段ある階段の上にあり、四隅を太い円柱が支えている。中央には、大人が四、五人ほど座れそうな豪奢な椅子が目に眩しい。  玉座の後ろには金の屏風があり、それが一瞬揺れた気がした。 「陛下、あちらから来た者をお連れしました」  もう一度、張り上げた声が響く。けれども返事はなく、玉座には誰も座っていない。 「少しお待ちくださいますか」 「……はい」  自分に言われたのだと気づき、亮太は返事をしたが、このまま会わなくてもいいのに……とつい思ってしまう。  ちらりと背後を見ると、頭を垂れていた官吏たちはいつの間にか顔を上げていた。  ――背中が痛いと思ったら、いつの間に!  突き刺さる視線を背中に受けつつ前を向くと、アマネが階段を上り、屏風の裏に消えた。 「お前は耳まで遠くなったのか! 起きろ!」  ふいにアマネの声が響き、隣に立つ珠洲がビクッと肩を竦めた。  ――もしかして屏風の裏に、皇帝陛下がいるってこと?  それに今のアマネの口ぶりは、罵倒のようにも取れる。  皇帝陛下とは名ばかりで、職務怠慢な皇帝なのだろうか?  屏風の裏から出てきたアマネは、亮太と視線が合うとにこりと微笑み、玉座の端に立った。  いったいどんな皇帝なのか、会わなくてもいいと思っていたのに、少し興味が湧いてきた。  ふいに屏風が揺れ、ギシッと床板が軋む。背後で空気が揺れる気配に後ろを見ると、官吏たちはまた一様に頭を垂れていた。  ――いよいよ皇帝陛下の登場だ……。  珠洲に袖を引っ張られ、ジェスチャーで頭を下げるのだと教えられ、慌てて珠洲に倣う。  ギシ、ギシ、と軋む音が響く。音が鳴りやんだかと思えば、「皇帝陛下出御!」と背後から声が聞こえた。その声に合わせて珠洲が顔を上げたので、亮太も頭を上げた。  誰もいなかった玉座の椅子の前には、大きな獣がいた。  ――……虎?  半獣ではなく、虎が皇帝陛下なのだろうか? 玉座の椅子の前にいるということは、そうなのだろう。  金色の眸は眼光鋭く吊り上がり、目の縁は黒い毛で覆われている。額にも頬にも、筆で描いたような黒い模様が左右対称にあり、体毛には黒の縞模様。  鼻が低く大きくて、手足は太く、体の内側へいくほど黄褐色の毛色が白くなっている。  尻尾は黒の横縞で、とにかく大きい。二メートルは優に超えている。  ――迫力はあるけど、毛がボサボサ? 色ツヤもよくないし……。  動物園でしか見たことがない猛獣の虎を前にして、恐いと思うよりも、汚れ具合が気になった。緊張どころではなく、犬とも猫とも違うけれど、トリマーの血が騒ぐ。 「よく来た。異国の者」  ――わっ、喋った!  虎の姿で喋るとは思わず、そちらに驚いてしまう。  重低音がある声は耳触りがよく、ゆっくりとした口調で聞き取りやすい。声だけを聞けば思わずドキッとさせられるが、やはり残念なのは汚れた体だ。 「皇帝陛下。あちらの世界で彼に助けられ、僕の身代わりで車に轢かれてしまったので、ナゼリン王国へお連れしました」  珠洲がそう説明する。  ――車? 今、車に轢かれたって言った?  ふいに胸が嫌な感じに重くなった。  珠洲は人獣で、祖先の姿は猫だ。黒耳に黒い尻尾……なんだかこの先を考えてはいけない気がする。 「名はなんという」  金色の眸がこちらを見ている。不安な気持ちが押し寄せてきて、皇帝陛下が恐いわけではないのに、声が震えてしまう。 「亮太……高梁亮太です」  自分でも驚くくらい、か細い声だ。腹に力が入らない。珠洲の言葉になぜか動揺している。 「高梁亮太。自分の命を懸けてまで弱者を助ける崇高な精神、魂を持つ者よ。この国はお前を歓迎する」  とても〝歓迎〟されているように思えないのは、射貫くような眸に心の内を見透かされているように感じるからだろうか。  それに、〝自分の命を懸けてまで〟と皇帝は言った。それはつまり、亮太が自分の命を懸けて珠洲を救ったということだろうか……。  嫌な展開になっていくばかりで、もう夢から目覚めたい。けれども夢はまだ終わる気配はなく、不安ばかりが募っていく。 「私に訊きたいことはあるか」  問われ、考えるが、とくに思いつくことはない。  ただ気になるのは、その体の汚れ具合だけ。  ――訊きたいことって言ったから、口にしてもいいのかな……?  ざわつく気持ちを誤魔化すように、声にした。 「なぜ、皇帝陛下の体はそんなに汚れているんでしょうか?」  声にしたら、背後でざわめきが起こる。やはり、訊いてはいけない話題だったのだろうか。

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