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第3話
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「ちゃんと、話をしようかと思うんだ」
屋上に来るのも久しぶりだった。信士とはたまに携帯で連絡を取ってはいたが、それほど会話が弾むわけではない。今日は、時間を指定して屋上に来てもらっていた。
「話って?」
信士は紙パックのミルクオレを飲みながら言う。
「篤士に」
試験はほぼ終わり、あとはいくつか結果を待つだけになっていた。篤士とも久しぶりに、受験会場で言葉を交わした。お互い頑張ろうなと言って、どこを受けるのかと少し話した。篤士の本命は私立のK大だという。信士から聞いていた話とは少し違った。たぶん、途中で変更したのだろう。
「大学……違うとこになる可能性も高そうだからさ」
手応えは悪くない。恐らく、いくつかは受かっているだろうと思う。でも俺の本命は篤士とは違うところなので、恐らく同じ所に進学することはない。
「本気ですか」
「そうだよ」
「気持ちの整理つけたくないんじゃなかったんですか」
「なんでそんな怒るんだよ」
「怒ってません」
しばらく連絡していなかったからなのか、信士はもとのぶっきらぼうな態度に戻ってしまっているように感じられた。
俺のクラスの女子でも、信士のことは顔と名前を知っていると思う。それくらい、信士はその顔立ちの良さで目立っていた。たぶん告白されたりも日常茶飯事なんだろうなと思う。最初に篤士と一緒にいるところに会った時は小さくてぽっちゃりしたかわいい子供だったのに、時間が経つのは早い。
「でも……もう卒業で、いい機会だから」
この屋上に来ることももうないだろう。俺はぼんやり柵から地上を眺める。篤士の練習をそっと眺めていられたのが、随分遠い日のことに感じられた。
「篤士の受験っていつ頃終わるかな。結果が悪かったりしたタイミングで呼び出したりしたくないから、教えてくれないか」
信士は少しの間黙っていた。
「……わかりました」
「信士?」
今日の彼は少し変だった。いつも快活というタイプではない。でも憂鬱そうな雰囲気で、あまり俺の方を見てもくれない。もうこんな風に兄の友人に都合よく扱われるのが嫌になったのだろうか。
「悪いな、迷惑かけて、信士には」
「別に俺はいいんですけど」
わかりにくいけれど、信士は優しいいい奴だ。
「彼女できたか?」
「えっ」
あからさまに動揺を示されて、俺の方がびっくりしてしまった。
「できたのか? うわぁ、おめでとう」
「あ、いや、違います! できてません!」
信士は本気で慌てている様子で、紙パックを握りすぎて中身をこぼしてしまった。
「大丈夫か?」
俺はカバンの中につっこんでいたポケットティッシュを渡してやる。今日の信士は本当にぼんやりしている。
屋上は相変わらず心地いい空気だった。ちょっと寒いけれど、それもまた悪くない。
「なんで彼女つくんないんだよ。モテるのにもったいない」
「響平さんにはわかんないですよ」
「なんだよ、言ってみろよ」
信士は睨み付けるように俺を見た。篤士と似た面影はある。でも、信士の方が顔は小さく、目つきも鋭い。兄弟で印象が本当に全然違うのが不思議だった。
「知って、どうするんですか」
ティッシュを握りしめながら、信士は俺の方を見ずに言う。
「無責任なこと言わないでください」
俺はすぐには言葉を返せなかった。
「……悪い」
興味本位で聞いてはいけないことなのかもしれない。でも彼が好きになるのはどんな相手なのだろう。なんだか年上じゃないかという気がする。もしかしたら人妻に恋をしているとか、あまり人には言えない事情があるのかもしれない。それもなんだか彼には似合う気がした。
彼が誰かと付き合い始めるところを想像すると、少しだけ胸がざわついた。祝福したいけれど正直少し寂しいなと思う。
「でも俺は信士が誰を好きだとしても、応援するから」
信士は俺を見て、一瞬泣きそうに顔を歪めた。俺は何か間違ったことを口にしたのだろうか。
「マジでさ、もともと篤士のことがあってこうやって話すようになったけどさ。俺たち今は、友達だろ?」
俺は焦ったように口にする。物静かな信士の考えていることはわからない。俺の想像できないような、とんでもない事情があるのかもしれない。
でも、もし彼が何か吐き出したい気持ちになったときは、聞いてやりたいと思った。自分が受け止めきれるようなことではないかもしれない。でもだとしても、何とかそうしてやりたい。
「……はい」
信士は絞り出すようにそう言った。聞いているだけで、何だか胸が苦しくなるような声だった。
信士からは夜になって、篤士の本命校の結果は三日後にわかるが、その後すぐに祖父母の家に行く予定だと連絡があった。今日の信士は少し変だったけれど、文章はいつもの信士だったので安心した。
祖母の体調があまりよくないらしく、篤士の体が空くときになったら連絡をしてくれるという。
受験結果も心配だが、もしかしたらおばあさんの体調もかなり悪いのかもしれない。
俺自身も大学への入学手続きなどを進めながら、信士からの連絡を待った。信士からは、大学は受かったようだがまだ戻れないと連絡があった。
そうこうしているうちに、卒業式の日が近づいてくる。俺は焦っていた。だから信士にメールをした。
〝次学校来る日、篤士に放課後屋上来るよう伝えてくれないか〟
信士からの返事はいつもと同じ、短いものだった。
〝わかりました〟
結論から言えば、篤士は来なかった。
グラウンドを女の子と二人で歩いて帰るのを見かけたから、来ないのだなとすぐにわかった。来れないなら来れないと、連絡くらいしてくれてもいいようなものだ。
二人は手こそ繋いでいないけれど、親しそうな雰囲気だった。付き合い始めたのだろうか。たぶんそうなのだろう。そうとしか考えられない。
「……すみません」
屋上のドアが開いたとき、来たのが篤士ではないと俺にはもうわかっていた。
「お前は悪くないよ」
篤士は呼び出しの理由を何だと思ったのだろう。他愛ない遊びの誘いとでも思ったのかも知れない。
「すみません……」
信士があまりに申し訳なさそうにしているので、呼び出すよう頼んだりしなければよかったと思った。俺は彼が篤士の弟だからといって、今まで信士に頼りすぎていた。
「だから、もういいって」
振られる覚悟はあるつもりだった。でも、玉砕さえすることもできないなんて思わなかった。空は抜けるように晴れて高く、空気は冷たかった。
だけどまだ、屋上から降りる気にはなれなかった。
「もう大丈夫だから、帰ってくれ」
「俺も、ここいたいだけなんで」
信士だって寒いだろうに、無理やり参考書を広げて屋上に居座っている。いつもは巻いていないマフラーを巻いているのが寒い証拠だ。
気を遣ってくれているのだろう。本当に彼がいてくれてよかったと思った。一人だったら、そもそも告白をしようという気にもならなかったかもしれない。
俺はぼんやりとグランドを見つめ続けていた。やっぱり寒くてくしゃみが出た。
「これ」
後ろからふわりと何か巻き付けられたと思ったら、信士のマフラーだった。
「いいって、お前寒いだろ」
「俺、寒いの得意なんです」
そう言ってまた信士は壁に背を付けて参考書に目を落とす。
このままここにいても、篤士が来る可能性は低いだろう。彼女を送って、それからまた戻ってくるなんて考えられない。だけどどうしても、まだここを去る気にはなれなかった。
信士がしていたマフラーは体温の気配が残っていて、温かかった。そのことに涙が出そうになる。
篤士のことが好きだった。できることならキスやセックスも、彼としてみたかった。そういう想像ならいくらでもしてきた。
現実には、手を握ることさえできなかった。
でも、温かいマフラーがここにあるだけで救われる気がする。
「ありがとうな、信士」
「別に俺は……」
信士はくしゃみが出そうになるのを、無理やり押し殺していた。人にマフラーを貸した手前、寒くないという振りをしたいのだろう。見栄っ張りで優しい。
「やっぱり寒いんだろ?」
「いいです」
俺は信士の横に座り込んで、そのまま自分の首にかけたマフラーを彼にも巻き付ける。もともと長めのマフラーなので、顔を寄せれば何とか二人で使えないこともない。
「……いいですってば」
ぶっきらぼうに信士が言う。俺はその手元の参考書をぼんやり眺める。しばらく見ていたけれど、ページは少しも進んでいなかった。
俺は卒業しても、大学は自宅から通う。だからそれほど忙しくはなかった。むしろ三月中は勉強をすることもなくなって暇で、近所の郵便局でバイトを始めた。
篤士とたまたま会ったのは、そんなときだった。バイト帰りに、ばったり道で会ったのだ。
「おっす」
篤士の態度はあまりにも普通だった。
「なんか久しぶりだな」
朗らかな笑顔で近づいてくる。呼び出して、空振りに終わった日以来、彼とは話していなかった。あれは篤士の無言のメッセージなのかもしれないとも思っていた。だから自分からは何ももう言えなかった。でも、篤士は今まで通りに話しかけてくる。
「お前大学どこ行くんだっけ?」
「Y大だよ」
「おお、よかったな。響平は昔から頭よかったしな」
「篤士も部活頑張ってたのに、すごいよな。国公立は結局受けなかったのか?」
「俺はもともと私立しか受ける気なかったよ、時間なかったし」
気まずかったけれど、昔みたいに気軽に言葉を交わせているのが嬉しかった。篤士はあの呼び出しのことを、さほど気にしてはいないのかもしれない。変に避けるよりも、何でもないようにフォローしようと思って俺は口にする。
「あのさ……屋上に来てくれって言ったの、気にしないでくれな」
「え、屋上?」
最初はとぼけられているのだと思った。
「言っただろ、卒業式の前の前の日くらいだったか? 屋上に来てくれって」
「何の話だ?」
だけど篤士が嘘をついているようには思えなかった。彼は確かに来なかった。女の子と一緒に帰っていた。
「信士に伝えたんだけど……」
「聞かなかったな。忘れたんじゃないか?」
でも、あの日信士は屋上に来た。伝え忘れたならそうと言うはずだ。それとも忘れたけれど、気まずくて言えなかったのだろうか。
「そっか、忘れたのかな」
「あいつ抜けてるとこあっからなー。何か用だった?」
とてもじゃないけれど、言えなかった。だから笑ってごまかすしかなかった。
「大したことじゃないんだ」
話しているうちに、いくつも齟齬は浮かんできた。もともとY大を受ける予定はなかったこと。返したはずのマンガも、わたしたはずの土産も、篤士は受け取っていないこと。
全部、信士を通して話をしたり、渡してもらったりしたはずのものだった。
それをそのまま篤士に訴えることもできた。マンガは信士に渡したのだと。でも途中から、俺はその気を失っていて、記憶違いかもと曖昧に言ってごまかした。
「まぁ大学は違うけどなんかあったら飲もうな」
そう言って篤士とは別れた。篤士と話すのももう最後かも知れない。だけどその辛さよりも、頭の中は信士のことで占められていた。
信士はぶっきらぼうだけど優しくて、いつも話を聞いてくれていた。彼が話してくれる篤士のことを聞けるのも嬉しくて……でも、それは本当だったのだろうか。
信じていたはずの世界がばらばらと崩れていく。
篤士のことで頼られるのがそんなに嫌だったのだろうか。もし彼が一言でもそう言ったなら、俺はやめた。信士は嫌なときは嫌だと言うタイプだと思っていた。
信士がわからなかった。
もともと、俺と篤士が住んでいるのは近所で、小さい頃からよく一緒に遊んでいた。小学校でも中学校でもそうだ。
二歳差の信士は、たまに篤士の家に行ったときに一緒に遊んだ。だけど昔は、あくまで篤士の弟としか思っていなかったし、二歳年下というのはひどく子供にも思えていた。
二人きりで話したりするようになったのは高校に入ってからだ。
屋上は本当は、出入り禁止になっている。だけど俺は先輩のツテで、こっそり鍵を手に入れていた。そこで一人で野球部の篤士を見ていたとき、信士がやってきたのだ。先生に告げ口をされたら困るから、俺は信士も屋上を使うことを許さざるをえなかった。
とはいっても、いつも信士は俺の話につきあったり、参考書を眺めたりしているだけだった。
一年生のクラスの居心地が悪いのかと聞いたこともある。でも、別にそうではないという。
だけど信士は繰り返し屋上にやってきた。
俺もそうだ。篤士の練習が終わってからも、屋上へ行ってしまった。
信士と話したかったからだ。今になって、俺はそんなことに気づく。
「……もしもし」
信士に電話をするのは初めてだった。だけどもう俺は卒業して、高校に行く機会もない。こうでもしないと話すことはできなかった。
信士はまるで予期していたかのように、一度のコール音で出た。
「はい」
「……あのさ」
何から話していいのかわからなかった。考えていても埒があかないから、本人に聞くしかないと思った。でも、いざとなると怖い。二歳差だけど、友人の弟だけれど、仲良くなれたと思っていた。
「俺、何かしたか?」
わからなかった。無意識のうちに、信士の地雷を踏み抜いていないかと言ったら自信はない。だけど二人で楽しく過ごしていたと思っていた。
「何のことですか?」
信士の声はいつも通りだった。
「今日、篤士に会って、直接色々聞いた」
「俺が嘘つきだって、兄貴に言ったんですか」
びっくりするほど淡々とした、冷静な声だ。
「違う、そんなことしてない」
だけど少なくとも彼には、嘘をついたという自覚があるのだ。もしかしたら何かの行き違いとか誤解とか、そういうことの積み重ねなんじゃないかと思っていた。信士がわざとやっていたなんて、思いたくなかった。
「なんでだよ」
篤士とは違うけれど、信士のことだって好きだった。一緒に過ごした楽しい時間のすべてを否定された気がする。
「なんで……。そんなに、嫌だったのか」
「別に嫌じゃないですよ」
信士の落ち着いた声からは、まるで感情が読み取れなかった。
「むしろ楽しかったっていうか。響平さんが俺の言う適当なことで右往左往したりするの」
「お前……!」
俺の見ていた信士は何だったのだろう。クールで感情が読めなくて、でもこんなことをするやつだなんて思わなかった。
「楽しいから、やったのか?」
今まで一緒に過ごした時間のすべてが嘘だったなんて思いたくなかった。
「嫌がらせで? ああ、そりゃあおかしかっただろうな。篤士のことが好きな俺を影で笑ってたのか」
篤士には恐らく彼女ができたのだろう。振られる前に終わってしまった。そして弟にもこうして騙された。みじめだった。ただ友人を好きになっただけのことのはずだったのに、どうしてこんなにこじれてしまったのだろう。
信士は何も答えなかった。
「よかったな、楽しいショーだっただろ、でも俺は本気で……」
「そんなことわかってますよ」
怒っているのかと思うほど、冷たい声だった。
「響平さんが本気で、兄貴のことをめちゃくちゃ好きだったことくらいわかってます」
「……なら、なんで」
どうしても、信士がそんな風に人の気持ちを踏みにじる男だとは思えなかった。表現がわかりやすくはなくたって、感情がないわけではない。篤士と三人でゲームをしたとき、信士は負けたら怒って泣きじゃくっていた。今は随分成長したように見えるけれど、でも、たぶん本当は彼は激情家だ。
「……好きだったから」
「え?」
「響平さんが兄貴のことを、本気で好きだったから、それだけです」
「おい、信士」
「さよなら」
信士はそのまま電話を切ってしまった。俺はすぐにかけ直したが、出ない。勢いのまま家に行こうかと思ったけれど、今日はさすがにもう遅いだろう。明日また出直そうと思った。幸い家は近い。まだちゃんと話す機会はある、そう思っていた。
眠れない夜を過ごして翌日、俺は信士の家に行った。だがそこで聞かされた話は寝耳に水だった。
「信士はもう出発したのよ」
おばさんは申し訳なさそうな顔で言う。アメリカへの留学だという。そんなこと彼の口から一度も聞いたことがない。
「出発……?」
眠れなかったけれど、今日になれば話ができるのだと思っていた。
「篤士ならいるから、呼びましょうか?」
「いや、いいです」
信士は一年は帰ってこない予定だという。塾に通っているのは知っていた。でも進路は知らなかった。彼が将来何をしたいのかなんて、一度も聞いたことがなかったと俺は気づく。
いつも俺の話か、篤士の話ばかりしていたからだ。
信士に電話をかけ直しても、やっぱり通じなかった。おばさんの話によると、昨日にはもうアメリカに着いていたはずだという。
信士はそばにいてくれて、いつでも話せる相手なのだと思っていた。
でも俺は、本当は彼のことを何も見ていなかった。近くにいると思っていたのに、こんなに遠かったのだ。
「何だよ……」
〝さよなら〟
後悔してももう遅い。一方的すぎる別れの挨拶だけを残して、信士はいなくなってしまった。
俺に何ひとつ、本当のことを告げないまま。
・
母に何を言われても、一度も日本には戻らなかった。英語のカンを鈍らせたくないのだと言い訳をした。本当の理由はもちろん別にあったけれど、言えなかった。
ごくまれに兄とは電話で話したが、響平の話は出なかった。大学も違うし、もう会ってはいないのだろう。
こうして海を隔てた場所に来て、連絡先をブロックしてしまえば縁は簡単に切れてしまう。
たまに考えた。響平は恨んでいるだろうか。そうだろうなと思う。自分の味方だと思っていた相手に、裏切られたのだ。いくら人のいい彼だって怒るだろう。
ホストファミリーはいい人たちだったが、何かとパーティを開いたり庭でBBQをしたりするのには辟易した。参加しないという選択肢は最初から自分には与えられていなかった。
「そのマフラー、お気に入りなのね」
ボストンの冬は寒い。毎日繰り返し同じマフラーにコートという格好をしていたら、ホストマザーに言われた。
「好きな子からのプレゼント?」
もうこのマフラーに彼の匂いは残っていない。
自分の手元には何もなかった。響平から渡されたものは全部、自分の手を通り抜けて兄のもとに届くべきものだったから。何もない。卑怯なことをした自分には、だけどそれが当然なんだろう。
「違うよ」
「でも、日本に好きな子がいるんでしょう?」
英語は得意なつもりだったけれど、現地の言葉についていくことには苦労した。だけどその甲斐あって、最近では日常会話には困らないようになった。
アメリカでの生活は合っているかもしれなかった。日本だと生意気だと言われる性格も、アメリカではむしろ引っ込み思案なくらいに扱われる。
「……うん」
会いたいと思うこともあった。でも、自分にはそれは許されない。最初から、告白をすることなんてできない、ありえないと思っていた。
「叶わないなんてわかってるけど……好きなんだ」
「無理だなんて決めちゃだめよ、ほんとのことは神様しかわからないんだから」
朗らかにホストマザーは笑う。でも、彼は自分の兄を好きな人だ。だから、望みなんてはなからなかった。せめてもっと兄と似ていたら、彼は自分のことも恋愛対象として見てくれただろうか。未練がましくうじうじとまた考えてしまう。
「神様はちゃんとシンジのことを見てるわよ」
見てるならなおさら、無理に決まっている。
留学は一年間で終わる。いっそこのままアメリカに住みたいくらいだった。兄の顔も彼の顔も、しばらくは見たくなかった。
帰国の時間は、母にしつこく聞かれたので仕方なく教えた。迎えに来るつもりらしかった。だけど結局間際になって、急用が入ったと言われた。その方が気が楽だから、むしろありがたかった。
だけど久しぶりの日本に着いて、誰かを待っているたくさんの人を見ると少しだけ寂しくなった。自分の帰国なんて誰も待っていない。逃げるように渡米したから、留学のことはほとんど知り合いには知らせていない。
大きなトランクが重い。気分がセンチメンタルになるのはこの気候のせいだと思う。日本の空気は湿度が高く、べっとりしていて温かい。
「信士」
声を聞いた瞬間に振り向いてしまった。名前のプレートを掲げたり、子供を抱き上げたりしている人たちの中に、見覚えのある姿があった。
「なんで……」
響平だった。見覚えのないジャケットを着た姿は、一年分だけ大人びて見えた。
信じられなかった。だが偶然とは思えない。騙していたことを、わざわざ怒りに来たのだろうか。驚きのあまり動けない信士に彼は駆け寄ってくる。殴られても仕方がないと思い、目をつむる。
一瞬後には、抱きつかれていた。思わずトランクから手が離れる。だけど抱きしめ返すことはできなかった。
「『さよなら』なんて言うなよ」
体を離し、顔を上げた響平の目は潤んでいた。どうやら殴りに来たわけではないように見える。
「寂しいだろ」
「なんでここにいるんですか」
自分の声が間抜けに響いて聞こえた。
「お前を待ってたに決まってんだろ。ほんとに丸一年いなくなりやがって」
「でも、なんで……」
返してくれと言われた本を処分したり、嘘をついたりしたのは、許されることではない。そのくらいの自覚はあった。
「一年ずっと、お前のことばっか考えてた」
どうしていいかわからなくて、信士はトランクの持ち手を再び握りしめる。
「俺は何も、お前のこと知らなかったんだなって。なんで、お前はあんなことしたんだろうとか……俺がよっぽど、お前にひどいことしたのかなとか」
「違います」
彼は最初から悪くなかった。ただ兄を好きでいただけで、いいとばっちりだ。自分がこんな感情を抱いたりしなければ、迷惑をかけることもなかった。
好きになったりしなければ。
一年ぶりに見る彼の姿は新鮮だった。アメリカにいる間は、意図して写真も見返したりしないようにしていた。一人で外国で暮らして、それなりに自信もついたつもりだった。
でもこうして彼を目の前にするだけで、たやすく昔の自分に引き戻される。屋上で、兄を見つめる彼の横顔をそっと盗み見ていた高校一年生の自分に。
「俺が、ただ……、勝手に、あなたのことを好きだっただけです」
ずっと言えなかった言葉が口をつく。同時に涙がこぼれそうになるのを何とかこらえた。
小さい頃は見ていただけだった。同じ高校に入って親しく言葉を交わすようになって、でも自分の気持ちは殺そうとしていた。でも、そんなことできなかった。会わなくて一年が経っても、アメリカで色んな人と会っても、彼のことを忘れたりできなかった。
「ごめんなさい」
俯いていると、ふわりと抱きしめられた。ここは空港だ。抱き合ったり泣いている人も多い。だから自分たちも許される気がした。
「うん。俺も……お前のこと、好きだよ」
彼は兄の他の友人たちとは違った。いつも優しかった。信士のことを甘やかしすぎだと兄はよく彼に言っていたけれど、確かにそうだと思う。あんなに嘘をついて、殴られても仕方がないようなことをしたのに。
「おかえり」
縋るように彼の体を抱きしめ返す。湿度の高い、温かい日本の空気が泣きたいくらい懐かしかった。
そうしてやっと、たった一言を絞り出す。
「……ただいま」
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