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第2話

2  夏を過ぎ、篤士は部活を引退した。これからは受験に集中すると言っているらしい。 「塾とか行くのか? 信士と同じとこ」 「兄貴バカなんで、ついてけないんじゃないですか」 「自分の兄貴にそういうこと言うなよ」  信士はちょっとむっとした顔をしてみせる。週に何度も話すようになってだんだんわかってきた。信士は一見とっつきずらいけれど、でも高校一年生だ。中身は幼いところもあって、たまに兄への対抗心を覗かせる。 「いいんです、あんなやつ」  今日の空は少し曇っていた。 「なんで兄貴の部活もうないのに、ここ来てるんですか?」 「俺こそ塾行った方がいいかもしんないんだけどな」  苦笑することしかできなかった。一応、この間の模試では悪くない結果を出せている。でも、いまいち受験勉強に集中できていなかった。だから今日もこうして、篤士の部活はもうないのに屋上に来ている。 「響平さんは優秀だからいいんですよ。うちの兄貴と違って」  今日の信士は、少し苛立っているみたいだった。でも、二人で一緒にいるところを小さい頃から見てきたけれど、二人は本当は仲がいい兄弟だ。一人っ子の俺は羨ましく思う。 「篤士、大学どこ行くって?」  自然な流れで聞いたつもりだった。だけどもしかしたら、少し声が震えていたかもしれない。  部活を引退してからも、篤士とは直接話せていなかった。小学校や中学校の頃はあれほど一緒に遊んだのに、今はクラスも違う。連絡を取ることはできるけれど、なかなか勇気が出なかった。 「Y大が第一志望だって聞いてますけど」 「そうか」  俺もY大は受ける予定だ。もしかしたらまた同じ大学になって、再び親しく付き合うなんてこともあるかもしれない。俺はまだ受験をしてもいないのに、そんな未来に思いをはせる。 「あー、俺も勉強しないとな」 「塾通うなら、紹介しますよ」 「信士と同じとこか……まぁ、ありがとな」  同じ受験生である同級生は、みんな少しぴりぴりしてきている。信士はまだ高校一年だから、そういう意味では気遣いが必要ない。いつも冷静に話を聞いてくれるし、篤士のことも教えてくれる。そんなこともあって、俺は屋上にまた来てしまっていた。 「あー早く受験終わんないかな」 「終わったら卒業じゃないですか」  ぼんやりと曇った空を見上げる。信士はつまらなそうに参考書を開き、手元の携帯をいじっていた。 「卒業したらもう会えないんですよ…………兄貴とも」 「そうだな、お前と話せなくなるのも寂しいな」  そう言うと、信士は一瞬、少し驚いたような顔をした。整った怜悧な顔。彼がそういう風に感情を露わにするのは珍しいので、俺は少し嬉しくなる。 「そういうのはいいです」  信士はそう言って俯いてしまった。照れているのだろうか。 「ほんとだよ。俺、すごいお前に助けられてる」 「よかったですね」 「何だよ、クールだな。マジだって。俺たち友達だろ?」  信士は俯いたまま顔を上げない。実際、彼がいてくてよかった。彼に甘えているだけではいけないと思うのだけれど、信士と話すこと自体が楽しかった。 「……俺は」 「あ、篤士だ」  気づかなかったけれど、今まで教室にいたらしい。遠くからでも背の高い彼の姿はすぐに見つけられた。一人でもくもくと早足で歩いていた。  目で追っていると、途中で誰かが追いかけてきた。女子生徒だった。たぶん篤士のクラスの子だったと思うけれど、確証はない。 「あー、なんかかわいい子っぽいな」  篤士は随分歩く速度を落として、そのまま二人は並んで歩いていった。 「付き合ってるのかな?」 「兄貴に彼女なんてできないですよ」 「厳しいなぁ、信士は」  だけど二人の並ぶ姿はとてもお似合いだった。俺は二人が見えなくなるまでじっと見つめていた。  ・  小さい頃は二歳年上の兄にいつもひっついてばかりいたので、同級生よりも兄の友人とよく遊んだ。  響平は、兄の友人の中でも何かが違っていた。他の人たちみたいに自分を邪険にしなかった。三人でゲームをしていて、負けかけて自分が泣きそうになると、わざと負けてくれた。そんなことをする人は初めてだった。 〝こいつ甘やかすなよ〟  兄はそう言っていた。いつしか響平が遊びに来るのを待つようになっていた。もともと、子供っぽい同級生よりも兄の友人たちと交じって遊ぶのが好きだった。でもそれまで以上に、背伸びをするようになった。  彼が、兄に対して片思いをしているなんてその頃は知るよしもなかったけれど。  ぼんやりとベッドに寝転びながら、ベッドサイドに置いてあったお菓子の空箱を手に取る。響平が家族旅行で行ったというグアムのお土産だった。本当は、半分を兄に渡してくれと言われていた。だけど一日一つずつ、全部自分で食べた。もらったこと自体兄には言わなかった。  兄が部活で忙しいのをいいことに、いつも二人の邪魔をした。最近響平と信士がよく会っていることを知った兄に、じゃあ今度三人で遊ぼうと言われたこともあったけれど、響平には伝えなかった。  きっと兄といる彼は、自分と二人きりでいるときより、ずっと嬉しそうにしているだろう。そんな彼を、見たくなかった。 「ただいま」 「すみません、お邪魔します」  兄の声と一緒に女性の声がした。まさかと思い、信士は慌てて飛び起きる。廊下に出ると、女の子が靴を脱いでいるところが見えた。親はまだ帰ってきていない。 「……何してんだよ」  信士は低い声で問いかける。 「あ、信士君……すみません、お邪魔してます」  答えたのは兄ではなく女の方だった。この間、二人で歩いているのを屋上から見かけたばかりだった。まさか本当に付き合っているなんて思わなかった。 「お前、母さんに言うなよ」 「なんで」 「なんででもだ」  兄はそれだけ言って、彼女を自分の部屋に伴っていく。兄が女の子を家に連れてきたのは初めてだった。今までは部活ばかりでそんな余裕もなかったのだろう。  兄はすぐに部屋のドアを閉めてしまった。健全な男子高生が女の子を自分の部屋に連れてきて、何もしないとは思えない。 「……ふざけんなよ」  小さくドアを前に呟く。兄が何をしたって構わない。むしろ、彼女ができてくれた方が、響平も諦めてくれるかもしれないから都合がいい。そう思っていたけれど、いざ目の前にするとイライラする。 「……何でも手に入れやがって」  母に言うつもりなんてもとからない。そんなことよりきっと、響平はこのことを知ったら傷つく。  兄と響平に付き合って欲しいわけじゃない。そんなのは絶対に嫌だ。なのに響平には幸せになって欲しい。喜んで欲しい。だけど兄とは会わせたくない。  気持ちは最初から矛盾している。  兄に彼女ができたら教えてくれとは響平に前から言われていた。でも、自分は言えない。彼の傷つく顔を見たくないからだ。彼には早いところ失恋してもらった方がいいのに。  でも、言えない。  ドアの向こうからのんきに女が、「信士君って学校のときとなんか違うね」と話しているのが聞こえた。  顔でも洗おうかと思い、洗面所に向かう。洗濯機の上に、兄のジャージが投げ出されていた。汗と埃にまみれたそれに、本当は手も触れたくなかったけれど羽織ってみる。  鏡にうつる自分は兄より細身で、ジャージは似合っていなかった。 「……っ」  どうして自分は、響平の好きな相手じゃないんだろう。兄に似なかったのだろう。兄になりたいわけじゃないのに、妬ましくて仕方がない。  やがて兄の部屋から甘やかな嬌声が聞こえてきて、叫び出したいような気持ちになった。 「くそっ」  だけどマンガみたいにジャージを破くわけにもいかず、脱ぎ捨てたそれを信士は思い切りゴミ箱に放り込んだ。

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