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第1章①

 あとになってカトウが思い返すに、その人物の襲来の予兆はすでに午前中に現れていた。  東京都杉並区荻窪。大正から昭和にかけて作家や音楽家が多く居住したことで知られるこの地区は、都内でも豊かな自然が残り、戦時中に大部分が空襲を免れた場所である。その土地の一角に、GHQの参謀第二部に属す「日米戦史共同編纂準備室」--通称U機関の建物は存在していた。  一九四七年七月某日。入院とその後の療養生活を終え、無事に仕事に復帰したジョージ・アキラ・カトウ軍曹は、二階の翻訳業務室で同僚のマックス・カジロ―・ササキ軍曹といつもの翻訳作業にあたっていた。朝のこの時間、上官のケンゾウ・ニイガタ少尉とリチャード・ヒロユキ・アイダ准尉は、一階で行われる朝の定例ミーティングのために席を外している。  季節はすでに梅雨である。この日も雨こそ降っていなかったが、すでに午前中から蒸し暑さを覚えた。よどみがちな空気を少しでもやわらげようと、窓のいくつかが開け放たれているが、それでも、部屋にたまった湿気を完全に追いやるには至っていなかった。 「――これぞ、日本の夏って感じじゃのう」  そう言いながら、ササキは持参した団扇で首筋をあおいだ。 「暑いのう…。はよ、秋にならんか」  聞いていたカトウは、翻訳中の英文から顔も上げずに言った。 「お前、ハワイ準州の出身だろう。暑さは慣れっこじゃないのか」 「暑さの質が違うんじゃ。ミィの故郷は、こんなに蒸し蒸ししとらん」 「あ、そう」 「何か涼しく過ごす方法、無いかのう」 「首に濡れタオルでも巻いたらどうだ」 「うーん。まだそこまでじゃない」  いちいち面倒な男である。 「お、そうじゃ。夕方、飲みに行かんか。ええじゃろ、今日金曜じゃし」  それを耳にしたカトウの鉛筆の動きが、ピタッと止まった。 「……悪いが、今日は先約がある」 「え? 誰と?」 「………」 「……あ」  概して察しの悪いササキであるが、今回はすぐ思い当ったようだ。  同時に、浅黒いその顔が微妙な表情になったのを見て、カトウは内心ため息をついた。  U機関に戻って来て二週間。どの同僚たちも、カトウの復帰を喜んでくれた。  だが一方でーー何人かの態度が以前と若干異なっていることに、カトウはすぐに気づいた。  言うまでもない。例の二ヶ月前の事件の最終局面でカトウは大けがを負い、危うく死ぬ一歩手前まで行った。クリアウォーターや居合わせた仲間たちの迅速な処置のおかげで、からくも死神の手の中から逃げ出して生還することができたのだがーー。  その過程で、U機関の長ダニエル・クリアウォーター少佐と恋仲にあることが、全員にばれてしまったのである。  以前からクリアウォーターとカトウの仲を知っていたスティーブ・サンダース中尉とトノーニ・ジュゼベ・ルシアーノ・フェルミ伍長については、まあ大きな問題はなかった。  アイダはカトウが同性愛者と知って、多少驚きはしたようだ。だが元々、必要以上に他人に干渉する性質(たち)ではない。ありがたいことに復帰してきたカトウを、以前とまったく同じように扱ってくれた。  意外というより予想外だったのは、ジョン・ヤコブソン軍曹の反応だった。当初、カトウはこの青年と決して親しくなかったし、アメリカでは田舎育ちの人間の方が、同性愛に対して激しい拒絶反応を示す傾向にある。だから、てっきり口もきいてもらえなくなるのではとカトウは覚悟していた。しかし、ヤコブソンは入院している間にフェルミと一緒に何度か見舞いに来てくれたし、復帰してからもよくカトウに声をかけてくるようになった。どこにでも、例外というものはいるらしかった。  問題は残る日系二世の二人ーーニイガタと、そしてササキだった。  二人とも、表だって何か言うことはない。世の中、もっとひどい反応があることを考えれば、これでも御の字と言うべきだ。だが、カトウがクリアウォーターの恋人になったことを、全面的に受け入れているわけでもないようである。新たに浮上した事態をどう扱っていいものか、決めかねている――というのがいちばん近いかもしれない。  だから、何かの拍子に気まずい空気が流れことがあった。  そう。今、カトウがササキと向き合っているこの瞬間のように。    

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