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第1章②

 その時、部屋のドアをノックする音に、二人はそろって救われた。  カトウとササキが返事をするより先に、ドアが開いて黒い巻き毛がぴょこんとのぞいた。 「おはよう。ジョージ・アキラ・カトウ。マックス・カジロー・ササキ」  天使のように甘く柔らかい右顔面と、悪魔のように赤黒く崩れた左顔面を持つ同僚、フェルミ伍長が例によってニコニコ笑いながら入って来た。 「おう。どないしたんじゃ。トノーニ・ジュゼベ・ルシアーノ・フェルミ」  ほっとした様子で、ササキがフェルミに向き直った。カトウが入院している間に、ようやくこのイタリア系の同僚の長い名前を正確に言えるようになったらしい。  フェルミは「えへへ」と無事な方の半面を輝かせた。 「二人にね。見てもらいたいものがあるんだ」  そう言って、フェルミは背中に回していた手を突きだした。「チリーン」という澄んだ音が、その動きについてきた。  カトウとササキが見つめるフェルミの手には、編んだタコ糸が握られ、その先に小さな鉄の鐘がぶら下がっていた。 「昨日ね、宿舎に帰る途中に日本人の露店で買ったんだ。きれいなカウベルでしょ」 「カウベルって…」 「あれ、これ牛用じゃなかった? じゃあ、山羊につけるのかな。ぼくはどっちでもいいんだけど、これを動物の首につけてみたいんだ。だから近所の農家の人にお願いするの、手伝ってよ」  カトウが口を開くより先に、ササキがげらげらと笑い出した。 「おーい! それ、カウベルと違うで」 「え……?」 「お前が持っているのは『風鈴』だ」カトウが言った。 「風の通る場所に吊るして、鳴る音を楽しむものだよ」 「あ、そうなんだ」 「ちょうど、ええわ。暑いし、ちょっとためしに吊るしてみようや」  ササキはフェルミの手から風鈴を受け取ると、身軽な動作で椅子に登り、押上げ窓の取っ手にくくりつけた。  するとすぐに吹いてきた風に揺れ、「チリーン」と涼しげな音を響かせた。 「わあ。鳴った!」 「おおー。やっぱ、ええ音じゃの」 「ああ」  ササキの言葉にカトウも同意した。日本を離れて以来、長く縁のなかった音だ。子ども時代についてあまりいい思い出はないが、それでも郷愁は確かに存在する。    チリーン、チリーン、チリーン……。  ――ブロロロロロロ。  澄んで繊細な音に、何やら無粋なエンジン音が重なった。  カトウは思わず眉をしかめた。窓の外を見やる。すると雲をかすめるように、一機の飛行機が飛んでいくところだった。  西から東へ。そのまま、都内の中心へ飛んでいくかと思っていたら、なぜか弧を描いてこちらに戻って来た。  ブロロロロロ……ロロロロロ……。 「何じゃろな、あの飛行機。低い高度でぐるぐる回っとるわ」  ササキの隣でフェルミも小首をかしげる。 「この辺に、誰か知り合いの人でもいるのかしら」 「さすがにそれはないだろう。きっと航空写真の撮影でもしているんだろ」  カトウの言葉に、ササキとフェルミも納得したようにうなずいた。  風鈴を見上げる三人はまだ知らない――フェルミの意見が実は正鵠を射ていたことを。  この時、地上数百メートルを飛ぶ飛行機には、この建物内にいる人物をよく知る人間が確かに乗りあわせていたのである。

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