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第9章④

 その週末の土曜日、スザンナは予告通りに荻窪の邸を出て、京都に旅立っていった。 「三十二歳になる前祝いよ。受け取ってちょうだい」  スザンナは出発前日そう言って、クリアウォーターに結構値の張るスコッチ・ウイスキーを贈った。琥珀色の酒は未開封のまま、居間のサイドボードに並んでいる。まだ開ける予定はないが、まあいずれ誰かと飲む機会はあるだろう。その相手は五割くらいの確率で、姉になりそうだとクリアウォーターは勝手に予想していた。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  画面中央に、黒くスタイリッシュなコスチュームに身を包んだ覆面の男。その周りには、光沢のある鱗に覆われた怪人や、首のない黒衣の花嫁、死者を伴う異形の僧侶などが、躍動的なタッチでカラフルに描かれている――その色鮮やかな画を見つめるトノーニ・ジュゼベ・ルシアーノ・フェルミ伍長の瞳は、まるで金脈を掘り当てた採掘師のようにキラキラと煌めいていた。 「これ、本当にぼくにくれるの?」 「ああ。ブラック・トルネードのコミックを貸してくれた礼だ」  カトウは言った。ブラック・トルネードの登場人物たちの原画はスザンナがくれたものだ。  調布飛行場での「埋め合わせ」に、カトウはスザンナにイラストを一枚描いてくれないかと頼んだ。フェルミはこの作品の大ファンだ。何冊もコミックをカトウに貸してくれていたし、クリアウォーターに頼んで、スザンナにサインももらったらしい。だから、直筆のイラストは、フェルミへのいいお礼の品になるとカトウは思った。結果的に、スザンナはえらく気合いの入った画をくれたのだが。 「ありがとう。家宝にするよ!」  フェルミは嬉々として言った。喜んでくれたようで何よりである。 「貸したコミック、もう全部読んだ?」 「あと二冊、残ってる」 「オッケー。読み終わったら、なるべく早く返してね。次の人に貸すから」 「俺以外にも、誰かに貸してるのか?」 「うん。最近、U機関でまた一人、はまった人がいるんだ」  それを聞いた時、カトウはてっきりササキあたりかと思った。  しかしフェルミが口にしたのは、意表をつく人物だった。 「スティーブ・アートレーヤ・サンダース中尉だよ」  週の終わりの金曜日、クリアウォーターは勤務先のU機関で一通の手紙を受け取った。  消印は京都市内の地名。送り主は、姉のスザンナだった。  随分と早い便りに、クリアウォーターは一瞬、不吉な予感を覚えた。しかし、さすがに一週間もたたない内に、下宿先を追い出されることはないだろう。  そう思いながら、クリアウォーターは意を決して封を破った。  便箋の一枚目は、ごくごく平穏な内容だった。下宿先の仏寺の様子や、そこの住職家族のことが綴られていて、クリアウォーターはほっとしながら読み進める。  爆弾は、二枚目の途中で突如、頭上に振ってきた。 『そうそう。あんたに隠していて、悪かったけど。実は日本に来てから、新しく付き合い始めた(ひと)がいてね』 「…は?」 『あたし時々、夜に邸をあけていたでしょう。実はその男に会ってたんだけど――』  続きに書かれた名前を見て、クリアウォーターは固まった。二度、三度、目をこすって読み直す。そして自分が幻覚を見ていないことを思い知ると、手紙を放り出し、立ち上がった。 「――失礼します。頼まれていた資料、一階から持ってきました」 「ああ。ご苦労」  サンダースは顔を上げ、カトウの手からファイルを受け取った。机の上は持ち主の几帳面な性格を反映して、今日もきっちり片付いている。しかし、カトウはほんの少し、いつもと違う違和感を覚えた。  その理由にはすぐに行き当たった。 ――眼鏡ケース。新しくしたんだ。  少し前まで、サンダースはかなり年季の入ったあちこち傷のあるケースを使っていた。それが、真新しい茶革のものに変わっている。一見して、いい品だと分かるので、誰かからの贈り物なのかもしれない……。  そんなことを思っていると、そこにカトウの上官が飛び込んできた。 「スティーブ。ちょっと、聞きたいことがあるんだが……」  クリアウォーターはそう言って、副官の生真面目な顔に両眼を据えた。サンダースは身じろぎもせずに、クリアウォーターを見つめ返す。事情を知らぬカトウは、二人の間に突然発した張りつめた空気に、「何があったんだ」とたじろいだ。  …ややあって、サンダースの銀縁眼鏡の奥の目に、覚悟を決めた光が宿った。 「…ええ。私の方も、お伝えしなければいけないことがありますので。上に行きましょう」  その返答を聞いて、クリアウォーターは思わず天井を仰いだ。姉の妄想であるという可能性が、これで消えた。 『あんたの部下のスティーブ・サンダース中尉。いい男よ』  クリアウォーターの脳裏に、スザンナがくれた未開封のウイスキーがちらついた。  どうやら今晩、眠りにつくには、あれを開けて何杯か飲み干す必要がありそうだった。 (終わり)

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